2014年02月18日
大和の国・纏向を歩く③(纏向古墳群からJR巻向駅)
「山の辺の道」と分かれて間もなく、左手に大神神社の大鳥居や大和三山が見える。
工事中の道を右往左往しながら、田圃の中にポツンとある社?を発見。
20数年ぶりの再開。 周辺の景色は随分と変わったような・・・。
東に三輪山の全貌が見える。
狐塚古墳(方墳?。一辺40m以上?)
畦道をJR線に向かって進む。
小さな果樹園の中、畑の作業小屋のような建物の西側に封土がなく剥き出しになっている石室が現われる。
あいにく今回も玄室は水浸しで入れない。 羨道まで下りた後、石室の周囲を見学。

弁天社古墳(墳形不明)
茅原の集落内、家々に囲まれて富士神社・厳島神社(弁天社)がある。その境内の左(南)側に石造り基壇の上に立つ社の裏に封土のない石室が露出しており、北側の天井石が外されたところから羨道部の家形石棺の蓋石を確認できる。
玄室の幅約1.7m、長さ約2.3m。
石室前の案内表示に、
「弁天社古墳は封土が既に失われ、現在は玄室が露出している。 発掘調査が行われていないため詳細なことは不明だが、石室は南に羨道をもつ両袖式の横穴式石室である。 玄室内には既に破壊された石棺の破片があり、羨道部には立派な家形石棺が安置されている。 石棺は凝灰岩を刳り抜いて造られたもので裏側には盗掘の際の穴があけられている。 この古墳は、古墳時代後期の古墳が多い三輪山麓の中でも石棺の残る珍しい例の一つである。」とある。


ここで気になったのは、境内に入って右側のお堂。左に馬頭観音?、右は・・・錫杖のクロスは何?。
この2体の石仏に挟まれてお祀りされている「石」、これは何??

茅原大墓古墳(全長約86m。後円部径約72m。この数値は最新のもので、以下の案内表示の数値とは乖離している。)
茅原集落の北端に所在する古墳時代中期初頭(4C末)頃の帆立貝式古墳。 平成22年の発掘調査後に整備されている。
これまでの調査で葺石、埴輪列、埴輪棺などが検出されている。 このなかで埴輪には、円筒埴輪、蓋形埴輪や壺形埴輪のほか形象埴輪(入れ墨表現のある盾持人埴輪、鶏(水鳥?)形埴輪)がある。
墳丘裾の案内に、
「この古墳は、三輪山の西麓に築かれた、帆立貝式の前方後円墳である。墳丘部全長約66m、後円部径約56m、前方部幅約29mで、箸中古墳群の中では、「箸墓古墳」に次ぐ規模をもっている。墳丘には葺石とともに円筒埴輪が樹立していたらしく、破片が散乱している。 また、周囲に周濠の痕跡をとどめている。この古墳の築造年代は5世紀と考えられる。帆立貝式の古墳は全国でも数が少なく、古墳時代中期の墓制を考える上で貴重な古墳である。」と説明されている。(※ 古墳の規模等の数値の齟齬は、案内板の作成以後において新たなデータが公表されたことによる。)
※ 古墳時代における茅原大墓古墳の位置
3Cの古墳出現期から大型古墳が築造されてきた奈良盆地東南部だが、4C後半以降になると大型古墳の築造の中心は奈良盆地北部や河内地域に移ってしまう。これは、政権内における勢力変動を反映したものと考えられている。茅原大墓古墳は、こうした奈良盆地東南部の勢力が衰退していく時期、その最後に築造された古墳であり、それ以前の大型古墳より小さい86mという墳丘規模に時代背景が示されている。
帆立貝式の古墳形態は、4C末頃から多く見られるようになる。これは、この時期に前方後円墳の築造が『規制』されるようになった結果、創出されたものと考えられる。
※ 盾持人埴輪
他の形象埴輪と異なり、古墳の外縁部に置かれる例が多く、外部の邪悪なものから古墳を守る辟邪の意味を持たせている?
これまでに50ヶ所以上の古墳・遺跡から出土。とくに、関東地方が多い。大半は5C後半~6C。これまで、4C末~5C前半の拝塚古墳(福岡市)や5C前半の墓山古墳(羽曳野市・藤井寺市)の盾持埴輪が最古の例とされていたが、これらに先行する時期のものとみられ、人物を造形した埴輪としても最も古いものと位置づけられる。 茅原大墓古墳での人物埴輪の出現は、古墳時代中期中頃以降に埴輪祭祀が盛行する契機となった。
茅原大墓古墳の周辺にいくつかの小古墳が確認できる。墳丘に立つと溜池のある地形などから周濠の痕跡を確認できる。
また、この古墳から北西方向に多くの古墳が集在していることも確認できる。例えば、ごく近くにも、西から北へ毘沙門塚古墳(前方後円墳。全長45m)・ツヅロ塚古墳(円墳。径約30m)・ツクロ塚古墳(円墳。径約10m)など・・・。 田圃の中を北に向かう。
この辺り、地図を見ると100mほどの間隔をもって東西方向に道が何本も走っていることを確認できる、条里遺構。
ホケノ山古墳を目指して北進する。箸中集落内にある北石神塚古墳(円墳?)は、草地になっており全くそれと分からない姿。
集落の北、纏向川を渡ったところの右手に三輪山慶雲寺(浄土宗)がある。境内に弥勒菩薩を刻んだ石棺仏。
阿蘇の凝灰岩製ということなのだが・・・わずかに赤紫色がかっている?ということは、石切場でみた色よりかなり薄いが「ピンク石(馬門石)」??・・・ということは、6C前半~中頃の古墳が近くにある??

本堂の脇の狭い所を通って裏に回ると円墳との間に石室が開口している、慶運寺裏古墳(円墳?。径13m)
境内にある案内には、
「後世の開発によって墳丘が改変され墳形は不明であるが、南面する円墳と考えられる。石室は乱石積によって構築された両袖式の横穴式石室で、長さ約3m、幅1.8m、高さ約2m、羨道の一部は削り取られている。 本堂の西側には、建治型と呼ばれる弥勒菩薩を刻んだ刳抜式石棺の身があるが、慶雲寺周辺にはかつて6基前後の後期古墳が存在していたようで、いずれの古墳に属していたか、はっきりしない。」とある。

慶運寺を出て纏向川沿いに西行する。最初の角を右折すると眼前にホケノ山古墳。
ホケノ山古墳
墳丘裾の案内表示、
「この古墳はホケノ山古墳と呼ばれる3世紀後半に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の一つです。 古墳は東方より派生した緩やかな丘陵上に位置し、古墳時代前期の大規模集落である纏向遺跡の南東端に位置します。 また、古墳からは以前に画文帯神獣鏡と内行花文鏡が出土したとの伝承がありますが、その実態は良く分かっていません。 平成7年以降、古墳の史跡整備に先立って2次に亙る発掘調査が行われ、様々な事柄が解っています。 合計12本設定された調査区の中では周濠や葺石・周辺埋葬に伴う木棺の跡・沢山の土器片などが出土しました。 周濠は第一次調査の第一トレンチでは幅17.5mで、最も狭い所では第二次調査の第二トレンチの幅10.5mと西側に行くほど幅が狭くなっています。 葺石は墳丘側の総ての調査区において確認されています。 葺石の構造は地山を削り出しによって整形した後、二層の裏込め土を盛った上に、付近から採取できる河原石を小型・中型・大型の順で葺いています。 ただし、前方部側面は墳丘の傾斜が30度前後と、後円部の40~50度という急傾斜に対して極端に緩やかにつくられていました。 また、周濠や墳丘は前方部前面が旧纏向川によって削平されており、本来の規模や形状などははっきりしませんが、全長は85m前後と考えています。今回復元している前方部については調査において確認された地山の削り出しに、本来あったはずの裏込め土や葺石を括れ部のデーターを基にして復元したものです。」
墳丘裾に組合せ式木棺が復元されており「前方部東斜面検出の埋葬施設」として以下のような説明がある。
「ここに復元しているのは第二次調査において確認された埋葬施設です。墓壙の規模は全長4.2m、幅1.2m、残存する深さは30~50cmになります。 墓壙内には南端に大型複合口縁壺が、中央には底部を穿孔した広口壺が共存し、これに挟まれるように全長2.15m、幅45cm、現存する深さ15cmの組合せ式木棺の痕跡が確認されました。 また、木棺内部の南側からは40×45cmの範囲に薄く撒かれた水銀朱も検出されています。 これらの状況からこの墓壙は埋葬に木棺を用い、複合口縁を有する大型壺・底部に穿孔のある広口壺を供献した埋葬施設であることが確認されました。 この埋葬施設は葺石をはずして、裏込め土から地山まで掘り込んで作られており、墳丘が完成した後に設置されたものと考えております。 また、構築の年代については供献土器以外には全く副葬品が見られなかったため、供献土器の年代に頼らざるを得ません。 これらの土器は、概ね3世紀後半の中に治まるものであり、他の墳丘や周濠に伴って出土した土器の年代と大きく矛盾することはないと考えています。」
さらに、「周濠状遺構」についての説明もなされている。
ホケノ山古墳の東に先刻の慶雲寺があり、北に北口塚古墳(円墳?。径約25m)・茶ノ木塚古墳(円墳?。径約28m)が並んでおり、すぐ西には、堂ノ後古墳(前方後円墳。全長60m以上)。ホケノ山から纏向川まで戻って堂ノ前古墳の横をとおり国津神社の裏にある堂ノ後古墳の墳丘に至る。案内には、
「纏向地域から茅原の地域にかけての丘陵部には、有名な珠城山古墳群や箸墓古墳、茅原大墓古墳などがあるが、この地域にはほかに20数基の中・小規模の古墳が散在している。数基の方墳のほかは古墳時代後期の円墳と見られ、中には前方後円形を呈するものもいくつかあるようだ。堂ノ後古墳もこれらの古墳群の中の一つで、調査が行われていないため詳細は不明だが、径35m程度の円墳のようだ。」(※ 現在は前記のように当該古墳の形体・大きさ等の評価が案内表示とは異なっている。)
手前:ホケノ山の墳丘上、中:堂ノ後古墳、奥:箸墓古墳
再び纏向川に戻り国津神社(箸中字湯屋垣内)に入る。
祭神は、素戔嗚尊の五男神である正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟櫲樟日命。 合祭神として、素戔嗚尊。(『日本書紀』神代・上 素戔鳴尊、乞取天照大神髻鬘及腕所纒八坂瓊之五百箇御統、濯於天眞名井、然咀嚼、而吹棄氣噴之狹霧所生神、號曰正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊。次天穗日命是出雲臣・土師連等祖也、次天津彥根命是凡川內直・山代直等祖也、次活津彥根命、次熊野櫲樟日命、凡五男矣。)
天津神を祀っているのに、何故、『国津』神社? 出雲系の神々がどこかに隠れている??
境内の案内には、
「当國津神社は、古来より「地主の森」といい、天照大神の御子神5柱を祭神としています。 この男神5柱は、『記紀』神話によると、素戔嗚尊が天照大神と天の安河を中にはさんで誓約をしたとき、天照大神の玉を物実として成り出でた神であります。 ちなみに纏向河下流の芝の国津神社(九日神社)には、素戔嗚尊の剣を物実として生まれた奥津島比売、市杵島比売、多岐津比売の3女神を祭祀しています。この箸中と芝で、神の三輪山を水源とする纏向川をはさみ、2神の誓約によって成り出でた神をそれぞれ祭神としていることに、古代神話伝承の原景をみる思いがします。 なお古来より毎年8月28日には、大字箸中と芝が相集い、三輪山の麓に鎮座する檜原神社(祭神:天照大神)の大祭を執行しています。 また『日本書紀』崇神天皇6年の条に「天照大神・倭大国魂2神を天皇の大殿の内に並祭る。 然して其の神の勢を畏りて」ともに住みたまふに安からず。 故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る」とあり、ここ箸中の東、三輪山麓の地は天照大神の伊勢鎮座以前の宮居のあった笠縫邑の伝承地となっています。 天照大神の祭祀に奉じた豊鍬入姫命は崇神天皇の皇女で、その墓所が国津神社裏のホケノ山古墳であるという伝承が地元に伝わっています。」とある。
この神社が『太陽の道』(北緯34度32分線)の上にあることは既述。
箸中の国津神社を出て、JR線を越えて西進し箸墓古墳・上ツ道・芝の集落などをとおり、西池の南東堤上にあるもう一つの芝の国津神社に向かう。 古い家並みの間の狭い路地のような道。
国津神社(九日社)
西池の南東堤上にある。
拝殿横にある立板によると、祭神は多紀理比賣命、狭依理比賣命、多岐津比賣命の宗像三女神となっている。
これら3柱の女神は、天照大神が素戔嗚尊の十拳剣(『日本書紀』では十握剣)を取って3つに折って天の眞名井で振りすすいで噛んで吹き出した霧から生まれたという。(『日本書紀』神代・上 天照大神、乃索取素戔鳴尊十握劒、打折爲三段、濯於天眞名井、然咀嚼[然咀嚼、此云佐我彌爾加武]而吹棄氣噴之狹霧[吹棄氣噴之狹霧、此云浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理所]生神、號曰田心姫。次湍津姫、次市杵嶋姫、凡三女矣。・・・古事記もほぼ同じ内容であるが、3女神の名は多紀理毘賣命(奧津嶋比賣命)・市寸嶋(上)比賣命(狹依毘賣命)・次多岐都比賣命。)
社殿は東面し、板塀の中に流造、千鳥破風付、銅板葺の本殿があり、前に切妻造、瓦葺の拝殿がある。
境内の石燈籠や手水鉢には、「九日社」と刻まれている。
拝殿の前、狭い境内を北へ進むと正面に、陰陽石が祀られている。
例祭は十月九日・・・で、九日社? ではなく、秋の収穫祭において、神のコトヨサシによって労き励んで作った結果、この通り収穫できましたと神の御前に新穀を捧げてお祭りする「(御)供日」「(お)くにち・くんち」に因んだ?
神社の前の道、真東に三輪山を望める。
本日の散策はここまで。帰路は箸墓古墳の後円部裾をとおりJR巻向駅へ。
この日の歩行時間:5時間弱。 総歩数:25,907歩。
なお、参考記事の多くは桜井市立埋蔵文化財センターの現地説明会資料等に依る。
【追記】 ホケノ山周辺の古墳について
従来、纒向遺跡の東端のホケノ山古墳周辺の小古墳の多くは6世紀の円墳と見られていたが近年の測量調査や研究成果で纒向型の前方後円墳の可能性が高い事が判明。
この周辺にある6基の古墳(南飛塚古墳、ツゾロ塚古墳、堂ノ後古墳、北口塚古墳、平塚古墳、小川塚東古墳)も前方後円墳の可能性あり。
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工事中の道を右往左往しながら、田圃の中にポツンとある社?を発見。
20数年ぶりの再開。 周辺の景色は随分と変わったような・・・。
東に三輪山の全貌が見える。
狐塚古墳(方墳?。一辺40m以上?)
畦道をJR線に向かって進む。
小さな果樹園の中、畑の作業小屋のような建物の西側に封土がなく剥き出しになっている石室が現われる。
あいにく今回も玄室は水浸しで入れない。 羨道まで下りた後、石室の周囲を見学。
弁天社古墳(墳形不明)
茅原の集落内、家々に囲まれて富士神社・厳島神社(弁天社)がある。その境内の左(南)側に石造り基壇の上に立つ社の裏に封土のない石室が露出しており、北側の天井石が外されたところから羨道部の家形石棺の蓋石を確認できる。
玄室の幅約1.7m、長さ約2.3m。
石室前の案内表示に、
「弁天社古墳は封土が既に失われ、現在は玄室が露出している。 発掘調査が行われていないため詳細なことは不明だが、石室は南に羨道をもつ両袖式の横穴式石室である。 玄室内には既に破壊された石棺の破片があり、羨道部には立派な家形石棺が安置されている。 石棺は凝灰岩を刳り抜いて造られたもので裏側には盗掘の際の穴があけられている。 この古墳は、古墳時代後期の古墳が多い三輪山麓の中でも石棺の残る珍しい例の一つである。」とある。
ここで気になったのは、境内に入って右側のお堂。左に馬頭観音?、右は・・・錫杖のクロスは何?。
この2体の石仏に挟まれてお祀りされている「石」、これは何??
茅原大墓古墳(全長約86m。後円部径約72m。この数値は最新のもので、以下の案内表示の数値とは乖離している。)
茅原集落の北端に所在する古墳時代中期初頭(4C末)頃の帆立貝式古墳。 平成22年の発掘調査後に整備されている。
これまでの調査で葺石、埴輪列、埴輪棺などが検出されている。 このなかで埴輪には、円筒埴輪、蓋形埴輪や壺形埴輪のほか形象埴輪(入れ墨表現のある盾持人埴輪、鶏(水鳥?)形埴輪)がある。
墳丘裾の案内に、
「この古墳は、三輪山の西麓に築かれた、帆立貝式の前方後円墳である。墳丘部全長約66m、後円部径約56m、前方部幅約29mで、箸中古墳群の中では、「箸墓古墳」に次ぐ規模をもっている。墳丘には葺石とともに円筒埴輪が樹立していたらしく、破片が散乱している。 また、周囲に周濠の痕跡をとどめている。この古墳の築造年代は5世紀と考えられる。帆立貝式の古墳は全国でも数が少なく、古墳時代中期の墓制を考える上で貴重な古墳である。」と説明されている。(※ 古墳の規模等の数値の齟齬は、案内板の作成以後において新たなデータが公表されたことによる。)
※ 古墳時代における茅原大墓古墳の位置
3Cの古墳出現期から大型古墳が築造されてきた奈良盆地東南部だが、4C後半以降になると大型古墳の築造の中心は奈良盆地北部や河内地域に移ってしまう。これは、政権内における勢力変動を反映したものと考えられている。茅原大墓古墳は、こうした奈良盆地東南部の勢力が衰退していく時期、その最後に築造された古墳であり、それ以前の大型古墳より小さい86mという墳丘規模に時代背景が示されている。
帆立貝式の古墳形態は、4C末頃から多く見られるようになる。これは、この時期に前方後円墳の築造が『規制』されるようになった結果、創出されたものと考えられる。
※ 盾持人埴輪
他の形象埴輪と異なり、古墳の外縁部に置かれる例が多く、外部の邪悪なものから古墳を守る辟邪の意味を持たせている?
これまでに50ヶ所以上の古墳・遺跡から出土。とくに、関東地方が多い。大半は5C後半~6C。これまで、4C末~5C前半の拝塚古墳(福岡市)や5C前半の墓山古墳(羽曳野市・藤井寺市)の盾持埴輪が最古の例とされていたが、これらに先行する時期のものとみられ、人物を造形した埴輪としても最も古いものと位置づけられる。 茅原大墓古墳での人物埴輪の出現は、古墳時代中期中頃以降に埴輪祭祀が盛行する契機となった。
茅原大墓古墳の周辺にいくつかの小古墳が確認できる。墳丘に立つと溜池のある地形などから周濠の痕跡を確認できる。
また、この古墳から北西方向に多くの古墳が集在していることも確認できる。例えば、ごく近くにも、西から北へ毘沙門塚古墳(前方後円墳。全長45m)・ツヅロ塚古墳(円墳。径約30m)・ツクロ塚古墳(円墳。径約10m)など・・・。 田圃の中を北に向かう。
この辺り、地図を見ると100mほどの間隔をもって東西方向に道が何本も走っていることを確認できる、条里遺構。
ホケノ山古墳を目指して北進する。箸中集落内にある北石神塚古墳(円墳?)は、草地になっており全くそれと分からない姿。
集落の北、纏向川を渡ったところの右手に三輪山慶雲寺(浄土宗)がある。境内に弥勒菩薩を刻んだ石棺仏。
阿蘇の凝灰岩製ということなのだが・・・わずかに赤紫色がかっている?ということは、石切場でみた色よりかなり薄いが「ピンク石(馬門石)」??・・・ということは、6C前半~中頃の古墳が近くにある??
本堂の脇の狭い所を通って裏に回ると円墳との間に石室が開口している、慶運寺裏古墳(円墳?。径13m)
境内にある案内には、
「後世の開発によって墳丘が改変され墳形は不明であるが、南面する円墳と考えられる。石室は乱石積によって構築された両袖式の横穴式石室で、長さ約3m、幅1.8m、高さ約2m、羨道の一部は削り取られている。 本堂の西側には、建治型と呼ばれる弥勒菩薩を刻んだ刳抜式石棺の身があるが、慶雲寺周辺にはかつて6基前後の後期古墳が存在していたようで、いずれの古墳に属していたか、はっきりしない。」とある。
慶運寺を出て纏向川沿いに西行する。最初の角を右折すると眼前にホケノ山古墳。
ホケノ山古墳
墳丘裾の案内表示、
「この古墳はホケノ山古墳と呼ばれる3世紀後半に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の一つです。 古墳は東方より派生した緩やかな丘陵上に位置し、古墳時代前期の大規模集落である纏向遺跡の南東端に位置します。 また、古墳からは以前に画文帯神獣鏡と内行花文鏡が出土したとの伝承がありますが、その実態は良く分かっていません。 平成7年以降、古墳の史跡整備に先立って2次に亙る発掘調査が行われ、様々な事柄が解っています。 合計12本設定された調査区の中では周濠や葺石・周辺埋葬に伴う木棺の跡・沢山の土器片などが出土しました。 周濠は第一次調査の第一トレンチでは幅17.5mで、最も狭い所では第二次調査の第二トレンチの幅10.5mと西側に行くほど幅が狭くなっています。 葺石は墳丘側の総ての調査区において確認されています。 葺石の構造は地山を削り出しによって整形した後、二層の裏込め土を盛った上に、付近から採取できる河原石を小型・中型・大型の順で葺いています。 ただし、前方部側面は墳丘の傾斜が30度前後と、後円部の40~50度という急傾斜に対して極端に緩やかにつくられていました。 また、周濠や墳丘は前方部前面が旧纏向川によって削平されており、本来の規模や形状などははっきりしませんが、全長は85m前後と考えています。今回復元している前方部については調査において確認された地山の削り出しに、本来あったはずの裏込め土や葺石を括れ部のデーターを基にして復元したものです。」
墳丘裾に組合せ式木棺が復元されており「前方部東斜面検出の埋葬施設」として以下のような説明がある。
「ここに復元しているのは第二次調査において確認された埋葬施設です。墓壙の規模は全長4.2m、幅1.2m、残存する深さは30~50cmになります。 墓壙内には南端に大型複合口縁壺が、中央には底部を穿孔した広口壺が共存し、これに挟まれるように全長2.15m、幅45cm、現存する深さ15cmの組合せ式木棺の痕跡が確認されました。 また、木棺内部の南側からは40×45cmの範囲に薄く撒かれた水銀朱も検出されています。 これらの状況からこの墓壙は埋葬に木棺を用い、複合口縁を有する大型壺・底部に穿孔のある広口壺を供献した埋葬施設であることが確認されました。 この埋葬施設は葺石をはずして、裏込め土から地山まで掘り込んで作られており、墳丘が完成した後に設置されたものと考えております。 また、構築の年代については供献土器以外には全く副葬品が見られなかったため、供献土器の年代に頼らざるを得ません。 これらの土器は、概ね3世紀後半の中に治まるものであり、他の墳丘や周濠に伴って出土した土器の年代と大きく矛盾することはないと考えています。」
さらに、「周濠状遺構」についての説明もなされている。
ホケノ山古墳の東に先刻の慶雲寺があり、北に北口塚古墳(円墳?。径約25m)・茶ノ木塚古墳(円墳?。径約28m)が並んでおり、すぐ西には、堂ノ後古墳(前方後円墳。全長60m以上)。ホケノ山から纏向川まで戻って堂ノ前古墳の横をとおり国津神社の裏にある堂ノ後古墳の墳丘に至る。案内には、
「纏向地域から茅原の地域にかけての丘陵部には、有名な珠城山古墳群や箸墓古墳、茅原大墓古墳などがあるが、この地域にはほかに20数基の中・小規模の古墳が散在している。数基の方墳のほかは古墳時代後期の円墳と見られ、中には前方後円形を呈するものもいくつかあるようだ。堂ノ後古墳もこれらの古墳群の中の一つで、調査が行われていないため詳細は不明だが、径35m程度の円墳のようだ。」(※ 現在は前記のように当該古墳の形体・大きさ等の評価が案内表示とは異なっている。)
手前:ホケノ山の墳丘上、中:堂ノ後古墳、奥:箸墓古墳
再び纏向川に戻り国津神社(箸中字湯屋垣内)に入る。
祭神は、素戔嗚尊の五男神である正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟櫲樟日命。 合祭神として、素戔嗚尊。(『日本書紀』神代・上 素戔鳴尊、乞取天照大神髻鬘及腕所纒八坂瓊之五百箇御統、濯於天眞名井、然咀嚼、而吹棄氣噴之狹霧所生神、號曰正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊。次天穗日命是出雲臣・土師連等祖也、次天津彥根命是凡川內直・山代直等祖也、次活津彥根命、次熊野櫲樟日命、凡五男矣。)
天津神を祀っているのに、何故、『国津』神社? 出雲系の神々がどこかに隠れている??
境内の案内には、
「当國津神社は、古来より「地主の森」といい、天照大神の御子神5柱を祭神としています。 この男神5柱は、『記紀』神話によると、素戔嗚尊が天照大神と天の安河を中にはさんで誓約をしたとき、天照大神の玉を物実として成り出でた神であります。 ちなみに纏向河下流の芝の国津神社(九日神社)には、素戔嗚尊の剣を物実として生まれた奥津島比売、市杵島比売、多岐津比売の3女神を祭祀しています。この箸中と芝で、神の三輪山を水源とする纏向川をはさみ、2神の誓約によって成り出でた神をそれぞれ祭神としていることに、古代神話伝承の原景をみる思いがします。 なお古来より毎年8月28日には、大字箸中と芝が相集い、三輪山の麓に鎮座する檜原神社(祭神:天照大神)の大祭を執行しています。 また『日本書紀』崇神天皇6年の条に「天照大神・倭大国魂2神を天皇の大殿の内に並祭る。 然して其の神の勢を畏りて」ともに住みたまふに安からず。 故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る」とあり、ここ箸中の東、三輪山麓の地は天照大神の伊勢鎮座以前の宮居のあった笠縫邑の伝承地となっています。 天照大神の祭祀に奉じた豊鍬入姫命は崇神天皇の皇女で、その墓所が国津神社裏のホケノ山古墳であるという伝承が地元に伝わっています。」とある。
この神社が『太陽の道』(北緯34度32分線)の上にあることは既述。
箸中の国津神社を出て、JR線を越えて西進し箸墓古墳・上ツ道・芝の集落などをとおり、西池の南東堤上にあるもう一つの芝の国津神社に向かう。 古い家並みの間の狭い路地のような道。
国津神社(九日社)
西池の南東堤上にある。
拝殿横にある立板によると、祭神は多紀理比賣命、狭依理比賣命、多岐津比賣命の宗像三女神となっている。
これら3柱の女神は、天照大神が素戔嗚尊の十拳剣(『日本書紀』では十握剣)を取って3つに折って天の眞名井で振りすすいで噛んで吹き出した霧から生まれたという。(『日本書紀』神代・上 天照大神、乃索取素戔鳴尊十握劒、打折爲三段、濯於天眞名井、然咀嚼[然咀嚼、此云佐我彌爾加武]而吹棄氣噴之狹霧[吹棄氣噴之狹霧、此云浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理所]生神、號曰田心姫。次湍津姫、次市杵嶋姫、凡三女矣。・・・古事記もほぼ同じ内容であるが、3女神の名は多紀理毘賣命(奧津嶋比賣命)・市寸嶋(上)比賣命(狹依毘賣命)・次多岐都比賣命。)
社殿は東面し、板塀の中に流造、千鳥破風付、銅板葺の本殿があり、前に切妻造、瓦葺の拝殿がある。
境内の石燈籠や手水鉢には、「九日社」と刻まれている。
拝殿の前、狭い境内を北へ進むと正面に、陰陽石が祀られている。
例祭は十月九日・・・で、九日社? ではなく、秋の収穫祭において、神のコトヨサシによって労き励んで作った結果、この通り収穫できましたと神の御前に新穀を捧げてお祭りする「(御)供日」「(お)くにち・くんち」に因んだ?
神社の前の道、真東に三輪山を望める。
本日の散策はここまで。帰路は箸墓古墳の後円部裾をとおりJR巻向駅へ。
この日の歩行時間:5時間弱。 総歩数:25,907歩。
なお、参考記事の多くは桜井市立埋蔵文化財センターの現地説明会資料等に依る。
【追記】 ホケノ山周辺の古墳について
従来、纒向遺跡の東端のホケノ山古墳周辺の小古墳の多くは6世紀の円墳と見られていたが近年の測量調査や研究成果で纒向型の前方後円墳の可能性が高い事が判明。
この周辺にある6基の古墳(南飛塚古墳、ツゾロ塚古墳、堂ノ後古墳、北口塚古墳、平塚古墳、小川塚東古墳)も前方後円墳の可能性あり。
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2014年02月17日
大和の国・纏向を歩く②(相撲神社・兵主神社から桧原神社を経て纏向古墳群)
「山の辺の道」沿いにある森岡観光果樹園から少し入った兵主神社の参道脇に景行天皇の纏向日代宮跡伝承地の碑がある。穴師山から西に伸びた二つの尾根(珠城山古墳群のある尾根とクノボ古墳・立子古墳・立子塚古墳・立石古墳・渋谷向山古墳などのある尾根)に囲まれた谷の入口付近の布留式期の中枢地域が展望できる。
相撲神社
穴師坐兵主神社の鳥居の南。
野見宿禰と當麻蹶速が展覧相撲を行なった処とか(「書紀」第11代・垂仁天皇7年)
境内には、小さな祠、勝利の聖である野見宿禰を描いた真新しい石碑、力士像、そして4本の細い桜の木に囲まれた空間=土俵?など。
案内板にご当地カタヤケシの由緒が案内板に記載されている。
「今を去る上古約2千年前、垂仁天皇7年7月乙亥(7日)大兵主神社神域内小字カタヤケシにおきまして野見宿彌、當麻蹶速による日本最初の勅命展覧相撲が催されました。これが世界に誇るわが国国技相撲の遮光であります。・・・。」
さらに、別の案内が「国技発祥の地 天覧角力開祖 相撲神社」として、
「国に国家、国花があるが如く日本の国技は相撲である。相撲はもとは神の信仰から出て、国土安穏、五穀豊穣を祈る平和と繁栄の祭典であり、第11代垂仁帝の7年、野見宿彌と当麻蹶速が初めて天皇の前で相撲をとり相撲節(7月7日)となり、それがもとで後世、宮中の行事となった。 昭和37年10月6日、大兵主神社に日本相撲協会時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主に2横綱(大鵬、柏戸)5大関(琴ヶ浜、北葉山、栃ノ海、佐田ノ山、栃光)をはじめ、幕内全力士が参列。相撲発祥の地で顕彰大祭がおこなわれ、この境内のカタヤケシゆかりの土俵に於いて手数入りが奉納された。」とある。
※ 『カタヤケシ』って?
カタヤ(=方屋)は、① 相撲・競べ馬などで左右・東西に分かれた力士・騎手などの控え所 ②相撲の土俵場。 ケシ(=気色)は、物事のようす、自然界のありさま。という意なので、『相撲の土俵がある地』っていうことかな??
なお、野見宿禰の墓は、十二神社(桜井市出雲)の境内にある。その辺りが垂仁天皇から下賜された鍛地?
※ 力比べ(角力の元祖:「書紀」垂仁天皇7年秋7月7日)
おそばの者が申し上げるには、「当麻邑に勇敢な人がいます。當麻蹶速といい、力が強くて角を折ったり、曲がった鈎をのばしたりします。人々に『四方に求めても自分の力に並ぶ者はいない。 何とかして強力の者に会い、生死を問わず力比べをしたい』と言っています。」
天皇はこれをお聞きになり群卿たちに「當麻蹶速は天下の力持ちだという。これに敵う者がいるだろうか。」と言われた。
ひとりの臣が「出雲国に野見宿禰という勇士がいると聞いています。この者を蹶速に取り組ませてみたらいかがでしよう。」と進言した。その日に倭直の祖・長尾市を遣わして野見宿禰を呼ばれた。出雲からやってきた野見宿禰と當麻蹶速に角力させた。互いに足を挙げて蹴りあい、野見宿禰は當麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、そしてその腰の骨を踏みくじいて殺した。天皇は、當麻蹶速の土地を没収して、すべて野見宿禰に与えられた。これがその邑に腰折田(山裾の折れ曲った田)のあるわけである。野見宿禰はそのまま留まって天皇にお仕えした。
※ 野見宿禰と埴輪(野見宿禰は土師連らの先祖:日本書紀巻第六 活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇)
七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言、當麻邑有勇悍士。曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤。恆語衆中曰、於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者、而不期死生、頓得爭力焉。天皇聞之、詔群卿曰、朕聞、當摩蹶速者、天下之力士也。若有比此人耶。一臣進言、臣聞、出雲國有勇士。曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立。各舉足相蹶。則蹶折當摩蹶速之脇骨。亦蹈折其腰而殺之。故奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以其邑有腰折田之緣也。野見宿禰乃留仕焉。
28年冬10月5日 天皇の母の弟・倭彦命亡くなる。
11月2日 倭彦命を身狭の桃花鳥坂に葬る。 この時、近習の者を集めて全員を生きたまま陵の周りに埋めた。日を経ても死なず昼夜泣き呻いた。ついには死んで腐って犬や鳥が集まり食べた。
天皇は、この泣き呻く声を聞かれ心を痛められ、それ以後の殉死を止めるように言われた。
32年秋7月6日、皇后・日葉酢媛命が亡くなられた。天皇は群卿に詔して「殉死は良くないことは前に分かった。今度の葬りはどうしようか。」と言われた。 野見宿禰が進んで「君主の陵墓に生きている人を埋め立てるのは良くないことです。 これから後、この土物をもって生きた人に替え陵墓に立てることを後世の決まりとしましよう。」と言って、出雲国から呼んだ土部100人を使って埴土で人や馬などいろいろな物の形を作って天皇に献上した。天皇は大いに喜ばれ、その土物をはじめて日葉酢媛命の墓に立てた。よって、この土物を名づけて埴輪あるいは立物といった。
天皇は、野見宿禰の功を誉められて鍛地(かたしところ。陶器を成熟させる土地)を授け、土師の職に任じられた。それで本姓を改めて土師臣という。これが土師連らが天皇の喪葬を司るいわれである。
廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彥命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彥命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域。數日不死、晝夜泣吟。遂死而爛臰之。犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷。詔群卿曰、夫以生所愛、令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。
卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命一云、日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰、從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。於是、野見宿禰進曰、夫君王陵墓、埋立生人、是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰、自今以後、以是土物更易生人、樹於陵墓、爲後葉之法則。天皇、於是、大喜之、詔野見宿禰曰、汝之便議、寔洽朕心。則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰、自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地。卽任土部職。因改本姓、謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之緣也。所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。
相撲神社前の鳥居下を通り参道を進むと右の山腹にいくつかの境内社を見つつ進むと三連屋根の前に建つ拝殿がある。その横に小さな祠が集在している。稲田姫社・須勢理姫社、水社・橘社・稲荷社・須佐之男社、八王子社・祖霊社。祓戸社。
穴師坐兵主神社参道の登り石段の脇にある案内「大兵主神社 大和国 穴師坐兵主神社」には、
「御祭神 若御魂神社(右) 兵主神社(中) 大兵主神社(左)
御創建 崇神天皇60年
御由緒 当社は3神殿にして、古典の伝えるところによると、今より、2千年前の御創建にかかり、延喜の制で名神大社に列せられ、祈年、月次、相嘗、新嘗のもろもろの官幣に預り、元禄5年には正一位の宣旨を賜った最高の社格をもつ大和一の古社である。
御神徳 衣食住を守護し、風水を司る。」
とある。
この説明に加えて拝殿には、
「中央の神は、第十代崇神天皇の60年、命を受けて皇女倭姫命が創建され、天皇の御膳の守護神として祀られ、御食津神と申し上げ、生産と平和の神、又、知恵の神として崇敬を受けられました。
右の神は、天孫降臨の際の三種の神器を御守護された稲田姫命をお祀りし、芸能の神として崇敬を受けられておられます。
左の神は、第十二代垂仁天皇の御代に当地で初めて天覧相撲が催され、ご神体の矛にちなみ武勇の神とし相撲の祖神としてスポーツ界の信仰をお受けになっておられます。」
といったメモ書きが掲示されている。
当地は元々、大兵主神社(下社)の故地であって、東の斎月岳(弓月岳)山上にあった上社の兵主神社が応仁の乱(1467~77年)により焼失したため下社に合祀したものとのこと。 若御魂神社も纏向山の都谷にあったものを応仁の乱などの争乱で荒廃したので、上社と同じ頃に下社に遷したとのこと。
上社のあったところはゲシノオオダイラ(夏至の大平)と呼ばれ、山頂・上社・下社・箸墓中軸が一直線に並んでおり、箸墓から見て斎月岳山頂に太陽が昇る時期を夏至として稲の生育を祈念する農工祭祀をおこなったのではないかと推測される・・・。機会を得て、一度、登ってみたいものだ。
万葉集にも「痛足河 々浪立奴 巻目之 由槻我高仁 雲居立有良志(穴師川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立てるらし)」、「足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡(あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる)」などと詠われている。
なお、ご神体は、上社が日矛、下社が鈴之矛、ということで気になるのは「天日矛」との関連・・・さて~?
森岡観光果樹園から「山の辺の道」を通る。この辺りは20数年ぶり、道も整備され随分イメージが変わった。 それでも舗装されておらず拡幅もされていない道もあり懐かしく、何故かホッとする。
展望も良く、金剛・葛城の山嶺をはじめ、二上山、生駒山のTV塔なども見える。
大和の青垣
「夜麻登波 久尓能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 (大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる大和し 美し)」と倭建命が謳った国思歌(古事記歌謡31)の景色。奈良盆地が、生駒山地や矢田丘陵、纏向・三輪の山々などで幾重にも緑の垣根に囲まれたようになっている風景が望める。
三気大神神社
ネットでは、固く閉ざされた不気味な神社、新興宗教、近寄り難いので足早に通り過ぎた・・・などと酷評した記事がたくさんあったのだが、参道の表示がある門扉は開いていた。 特段の断り書きもないので信者でなくても入って良いのだろうか?
「大空からりと晴れわたる 雲霧遮るものもなく ゆるゆると これこその 平坦な道を 人の一生を 平穏無事を 甘露の天の道に 自ら学び取り 足りないところ 粗末なところ 物事の善悪を 見分ける眼識を持って事を致せ。」との掲示あり。
桧原神社
日本書紀崇神天皇6年条(巻第五 御間城入彥五十瓊殖天皇 崇神天皇)に、
六年、百姓流離。或有背叛。其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。亦以日本大國魂神、託渟名城入姬命令祭。
とある。即ち、
百姓が流離するもの、反逆するものがあり、その勢いは徳をもって治めようとしても難しかった。 それで朝夕天神地祇に祈った。 これから先、天照大御神と大和大国魂神の二神を御殿内にお祀りした。 ところが、あまりの強力な霊威のある二神を同社に祀ることはかえって人に禍をもたらしたので、崇神天皇はこの二神を他所に祀ることを決心した。天照大御神は豊鍬入姫命に託され、倭笠縫邑に遷し祀られた。 そして堅固な神籬を造った。 日本大國魂神は渟名城入姬命に託し祀られた(現在の大和神社?)。
とのこと。
境内の案内表示には「元伊勢 桧原神社と豊鍬入姫宮の御由緒」として、
「大神神社の摂社「桧原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮」(向かって左の建物)は崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命をお祀りしています。 第10代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて「同床共殿」でお祀りされていました。同天皇の6年初めて皇女、豊鍬入姫命(初代の斎王)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑」に「磯城神籬」を立ててお祀りされました。 その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊祟し、桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。 そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。 桧原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。 萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、西につづく桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。 また「茅原」は、日本書紀崇神天皇7年条の「神浅茅原」の地とされています。 更に西方の箸中には、豊鍬入姫命の御陵と伝えるホケノ山古墳(内行花文鏡出土・社蔵)があります。」と記されている。
また、三ツ鳥居の前にある案内に「大神神社摂社 桧原神社」として、
「御祭神 天照大神 若御魂神 伊弉諾命 伊弉冊命
御由緒 第10代崇神天皇の御代、それまで皇居で祀られていた「天照大御神」を皇女豊鍬入姫命に託したここ桧原の地(倭笠縫邑)に遷しお祀りしたのが始まりです その後、大神様は第11代垂仁天皇25年に永久の宮居を求め各地を巡行され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり、これが伊勢の神宮(内宮)の創祀と云われる」とある。
この三ツ鳥居の前には豊鍬入姫を祀った「大神神社末社 豊鍬入姫宮」の小さな祠があり御由緒として、
「御祭神は、第10代崇神天皇の皇女であります 皇女は「天照大御神」をこの「倭笠縫邑」にお遷しし、初代の御杖代(斎王)として奉仕されたその威徳を尊び奉り、昭和61年11月5日に創祀されたものであります 斎王とは天皇にかわって大神様にお仕えになる方で、その伝統は脈々と受け継がれ、現代に於いても皇室関係の方がご奉仕されています」とある。
東に三輪山をご神体して建つ桧原神社に社殿はなく、北・西・南の3ヶ所の境内への入口すべては(鳥居)ではなく〆柱である。
三ツ鳥居の奥、三輪山山上にかけて8群の神籬・磐座があるとのこと、地形図でみると尾根筋になっており、江戸時代の古絵図には登山路や建物が描かれているのだが・・・果たして?
※ 萬葉集「三輪の桧原」
1092 動神之 音耳聞 巻向之 桧原山乎 今日見鶴鴨
(鳴る神の音のみ聞きし巻向の桧原の山を今日見つるかも)
1093 三毛侶之 其山奈美尓 兒等手乎 巻向山者 継之宜霜
(三諸のその山なみに子らが手を巻向山は継ぎしよろしも)
1118 古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃桧原尓 挿頭折兼
(いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の桧原にかざし折りけむ)
1119 徃川之 過去人之 手不折者 裏觸立 三和之桧原者
(行く川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の桧原は)
※ 日本書紀崇神天皇7年条(日本書紀巻第五 御間城入彥五十瓊殖天皇 崇神天皇)
七年春二月丁丑朔辛卯、詔曰、昔我皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意、今當朕世、數有災害。恐朝無善政、取咎於神祇耶。蓋命神龜、以極致災之所由也。於是、天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰、天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。天皇問曰、教如此者誰神也。答曰、我是倭國域內所居神、名爲大物主神。時得神語、隨教祭祀。然猶於事無驗。天皇乃沐浴齋戒、潔淨殿內、而祈之曰、朕禮神尚未盡耶。何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢神恩。是夜夢、有一貴人。對立殿戸、自稱大物主神曰、天皇、勿復爲愁。國之不治、是吾意也。若以吾兒大田々根子、令祭吾者、則立平矣。亦有海外之國、自當歸伏。
秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神淺茅原目妙姬・穗積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢、而奏言、昨夜夢之、有一貴人、誨曰、以大田々根子命、爲祭大物主大神之主、亦以市磯長尾市、爲祭倭大國魂神主、必天下太平矣。天皇得夢辭、益歡於心。布告天下、求大田々根子、卽於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、卽親臨于神淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰、汝其誰子。對曰、父曰大物主大神。母曰活玉依媛。陶津耳之女。亦云、奇日方天日方武茅渟祇之女也。天皇曰、朕當榮樂。乃卜使物部連祖伊香色雄、爲神班物者、吉之。又卜便祭他神、不吉。
玄賓庵
桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲したという玄賓僧都の庵。世阿弥の作と伝える謡曲「三輪」の舞台として知られる。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初期の神仏分離により現在地に移されたとのこと。
建物自体はそう古いものではないが、ここに漂う静寂の景色に安堵を覚える。
※ 謡曲「三輪」
三輪山麓に住む僧の玄賓(ゲンピン)が、いつも参詣に来る女を待つ。 その日、女は玄賓に衣を乞い、玄賓は衣を与え女の素性を尋ねる。 女は杉が目印だと住みかを教えて消える。 里の男がご神木に衣が掛かるのを見付けて玄賓に知らせ、玄賓が確かめると衣の裾に金色の文字で歌が書かれている。 その歌を詠むと杉木の中から返歌が聞え、女姿の三輪明神が姿を現す。 神も衆生を救うため欲深い人の心を持つことがあるので、その罪を助けて欲しいという。そして明神は三輪の神婚譚を語り、天照大神の岩戸隠れのときの神楽を舞う(伊勢と三輪の神が一体分神だと物語る)が、やがて夜が明けるとともに消えてゆく。
この後、「山の辺の道」と分かれ、西に向かって一気に下って行く。
・・・ この続きは「大和の国・纏向を歩く③」 続きを読む
2014年02月16日
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)
日陰では寒さに震え、日向では汗をかきながら
・・・JR・万葉まほろば(桜井)線・巻向駅の東南地域に点在する古社&古墳を巡ってきた。


JR巻向駅
この日、「江包・大西のお綱祭り」があるとかで駅周辺は混雑していた。
ホーム北端の線路の西側にある空地。 これまでの発掘調査(162次・166次)で中軸線を一にする建物群(庄内3式期、3世紀中頃)が現出した処で庄内式期の中枢地域。
この纏向の地、これまでの発掘調査から縄文時代後期頃に東の段丘部からの土石流により弥生時代前期には農耕に適さない荒地であった。2C末~3C初頭(弥生時代終末期~古墳時代初頭)において纏向周辺にあった弥生集落は衰退・廃絶するのと入れ替わるように、それまで集落の無かった纏向地域に突如として径1kmもの規模をもつ巨大な「マチ」が出現する。庄内0式期(3C初頭)、それまでの農耕的色彩の強い弥生集落のような自然発生的なものではなく、極めて強い政治的な意図のもとに造られた「マチ」・・・。
江包・大西のお綱祭り(素盞鳴神社内説明板)
初瀬川の南北の、江包と大西地区の間で行われる「お綱はんの結婚式」。上流から流れてきた二人の神様を、江包は素盞鳴尊、大西は稲田姫を助け、二人が正月に結婚式をあげたことに由来するという。
両地区で新藁を持ち寄り、江包の春日神社で男綱を、大西の市杵島神社で女綱を作り、素盞鳴神社で入舟の儀式を行うものである。古くからの田遊び祭りの一種で、豊作をあらかじめ祝う儀式。旧暦正月10日に行われていたが、現在は2月11日となった。
ということなのだが、要は、奈良県桜井市の大西と江包で行われる豊作と子授け祈願の行事である。
①江包が男綱、大西が女綱を作る。
②次いで御綱かけが行われ、女綱が市杵島神社を出発して区内を巡りながら江包の素盞鳴神社にむかう。
③女綱が素盞鳴神社に着くと、男綱も素盞鳴神社に向かう。④男綱が素盞鳴神社に着くと、女綱と合体させて鳥居そばの榎の木につるして、双方が手打ちをして式を行う。(※ 重要無形民俗文化財。解説は指定当時のものによる。)
豊作と子孫繁栄を祈る祭り。男綱・女綱の大綱をかつぎ、神社で合体し「綱の結婚式」を行う。女綱の方が先に素戔鳴神社に到着する。仲人役がまだ泥相撲をとっている男綱を呼び使いにいくが、7度半行き来あってやっと男綱は動き出し、厳かに入舟の儀式が始まる。

駅前通りから「上ツ道」を北に向かい、一昨日(2月9日)に行われた発掘調査地を目指す。
途中、道の右に穴師大明神の石碑と鳥居があった。この鳥居道を東進すれば相撲神社・兵主神社に辿り着くのだが、その前に・・・
纒向遺跡第180次調査地
駅から徒歩5分ほど、集落内の建物で囲まれた約205㎡の狭いところ。
これまでに検出されたJR線の西側の建物遺構と推定中軸線を同じくする建物の柱穴がでてきたそうだが、この日は休日なので、現場はブルーシートで覆われている。
一旦、上ツ道まで戻り駅前通りを過ぎ引続き南下、国道169号の高架下を抜けると、一面の田圃の中に目指す古墳が見える。
ここからの道は、箸墓と三輪山がランドマークの機能を果たしてくれ、位置確認に大いに助かった。

巻野内石塚古墳(古墳時代前期(3世紀末?)の前方後円墳。全長約60m・後円部径約40m・前方部長20m) ・・・右は箸墓古墳。左奥にも古墳が見える。

箸中支群の最北端に位置する古墳。
径約40mの後期の円墳とする考えが一般的だったが、墳丘北東側の果樹畑部分が北側へ不自然な張り出しを持つことから、前方後円墳になる可能性が指摘されていた(北東部にある畦道の形状からも推測できる?)
2002年の桜井市教育委員会による測量調査で、前方部が北東側に取り付く全長約60mの前方後円墳であることが判明。
また、墳丘の築造規格が前方部が短い「纒向型」でホケノ山古墳の3分の2の大きさであることが判明。
ホケノ山古墳を盟主として、同時期か少し後に築かれたもの?
南の道沿いの後円部墳丘裾の石垣は転用された葺石?
案内表示版に、以下のような記載
「纏向地域から、南の茅原の地域にかけての丘陵部には、有名な珠城山古墳群や箸墓古墳・茅原大墓古墳があるが、この他に20数基の中・小規模な古墳が散在している。 数基の方墳があるものの、多くは古墳時代後期の円墳と見られ、中には前方後円形を呈するものもあるようだ。 巻野内石塚古墳もこれらの古墳群中にあり、調査が行われていないため詳細は不明だが、後円部径35m程度の北面する前方後円墳のようである。」

南の道を東に進みT字路を右・南に進む。道の両側に墳丘。西側は石田古墳(円墳?。径約15m)、東側はサシコマ古墳(円墳。径約13m)。この古墳のスグ南に小川塚西古墳(方墳。一辺約41m)、方墳ということなのだが、2段目・3段目の墳丘は円状に改変されていた。すぐ東に小川塚東古墳(円墳。径約34m)。
再び北上。春日神社、垂仁天皇の纏向珠城宮跡伝承地の辺りを経て東進し穴師の集落に入り、山の辺の道を通って兵主神社へ向かう。

大和の集落は、長屋門、大屋根などの立派な屋敷が多い。 古来よりの土地の豊かさを思う。
珠城山(タマキヤマ)古墳群
三輪山の北にある巻向山の別峰・穴師山の支脈が西に延びて平坦地に接する丘陵端に、東から1・2・3号墳の順に築造されている。すぐ北の尾根先にある渋谷向山古墳(前方後円墳、全長300m。景行天皇の山邊道上陵に治定されている。)とは指呼の距離。
6世紀代の古墳が直径10~30m級の規模のものが大半を占める中で、珠城山古墳群の規模は大きいものといえる。
また、前方後円墳3基が密集して築かれることは珍しく、豪華な副葬品が出土していることなども併せて考えると、当時の政権内においても重要な役割を果たしていた人物が埋葬されていると思われる。
さらに、この時期は、前方後円墳が築造される最後の時期であり、古墳時代の終焉を考える意味でも重要な古墳群である。
なお、これまで5度にわたる調査が実施されており、出土遺物は奈良国立博物館に収蔵されているそうな・・・。

墳丘にある案内表示によれば以下のとおり、
珠城山古墳群は古墳時代後期(6世紀)に築造された前方後円墳3基からなる古墳群で、発掘が行われた1・3号墳からは、環頭太刀や金銅装馬具などの豪華な副葬品が出土しています。 2→1→3号墳の順に築かれたと考えられ、この地域を支配していた豪族が代々築いたものだと思われます。 1950年頃から行われた度重なる土砂採取により、3号墳の大部分は失われましたが、その他の部分は保存され、1978年2月に国の史跡に指定されました。 その後、墳丘調査が行われ、2・3号墳間から円筒埴輪列や盾持人物埴輪が出土するなど多くの成果がありました。 現在、1号墳の墳丘や横穴式石室、2号墳の墳丘が見学できるようになっています。
1号墳 全長50~55m、後円部径25m前後、前方部幅27m前後。埋葬施設は横穴式石室(後円部)。築造時期は6C中~後半。
2号墳 全長80~85m、後円部径40m前後、前方部幅42m前後。埋葬施設は不明。築造時期は不明(6C代か)
3号墳 全長55~60m、後円部径27m前後、前方部幅25~30m。埋葬施設は横穴式石室2基(後円部及び前方部)。築造時期は6C後半。


南に開口した1号墳の石室。花崗岩の自然石を積み上げた小さな片袖式。 2体分の遺骨や玻璃製の多数の玉、などが検出されたそうな。
玄室の中央に残っていた凝灰岩製の組合わせ式石棺は、橿原考古学研究所の前庭に置かれている。後円部上にお稲荷さんの小さな祠が祀られている。

前方部は削平されており後円部から見ると分かりづらいが、墳丘下の南の道路からは墳丘全体のイメージが容易に掴める。
なお、この道路からも石室の開口部が見える。
2号墳の遺物や埋葬施設は不明。

3号墳は、前方部の基底端を残してほぼ消滅。
後円部の石室は両袖式で、家形石棺と組合せ式石棺。
遺物は、馬具類のほか、挂甲小札・太刀・須恵器・土師器など。この中で、馬具の鏡板(かがみいた)(轡(くつわ)の一部)と杏葉(ぎょうよう)(馬を装飾するもの)は特筆すべきもの。 両方とも鉄地金銅張りの台板に透彫りの文様板を重ねたもので、鏡板には忍冬唐草文、杏葉には左右に向かい合う鳳凰の文様が施されているなど繊細な彫金を施しており、技術の精巧さがうかがえる。

墳丘上から見た穴師の集落・・・遠景は三輪山
この後、兵主神社に向かうのだが、穴師の集落内で道に迷い、時間のロス。
この付近の道端、ミカンなどの無人販売が多数あり。
・・・ この続きは「大和の国・纏向を歩く②」
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・・・JR・万葉まほろば(桜井)線・巻向駅の東南地域に点在する古社&古墳を巡ってきた。

JR巻向駅
この日、「江包・大西のお綱祭り」があるとかで駅周辺は混雑していた。
ホーム北端の線路の西側にある空地。 これまでの発掘調査(162次・166次)で中軸線を一にする建物群(庄内3式期、3世紀中頃)が現出した処で庄内式期の中枢地域。
この纏向の地、これまでの発掘調査から縄文時代後期頃に東の段丘部からの土石流により弥生時代前期には農耕に適さない荒地であった。2C末~3C初頭(弥生時代終末期~古墳時代初頭)において纏向周辺にあった弥生集落は衰退・廃絶するのと入れ替わるように、それまで集落の無かった纏向地域に突如として径1kmもの規模をもつ巨大な「マチ」が出現する。庄内0式期(3C初頭)、それまでの農耕的色彩の強い弥生集落のような自然発生的なものではなく、極めて強い政治的な意図のもとに造られた「マチ」・・・。
江包・大西のお綱祭り(素盞鳴神社内説明板)
初瀬川の南北の、江包と大西地区の間で行われる「お綱はんの結婚式」。上流から流れてきた二人の神様を、江包は素盞鳴尊、大西は稲田姫を助け、二人が正月に結婚式をあげたことに由来するという。
両地区で新藁を持ち寄り、江包の春日神社で男綱を、大西の市杵島神社で女綱を作り、素盞鳴神社で入舟の儀式を行うものである。古くからの田遊び祭りの一種で、豊作をあらかじめ祝う儀式。旧暦正月10日に行われていたが、現在は2月11日となった。
ということなのだが、要は、奈良県桜井市の大西と江包で行われる豊作と子授け祈願の行事である。
①江包が男綱、大西が女綱を作る。
②次いで御綱かけが行われ、女綱が市杵島神社を出発して区内を巡りながら江包の素盞鳴神社にむかう。
③女綱が素盞鳴神社に着くと、男綱も素盞鳴神社に向かう。④男綱が素盞鳴神社に着くと、女綱と合体させて鳥居そばの榎の木につるして、双方が手打ちをして式を行う。(※ 重要無形民俗文化財。解説は指定当時のものによる。)
豊作と子孫繁栄を祈る祭り。男綱・女綱の大綱をかつぎ、神社で合体し「綱の結婚式」を行う。女綱の方が先に素戔鳴神社に到着する。仲人役がまだ泥相撲をとっている男綱を呼び使いにいくが、7度半行き来あってやっと男綱は動き出し、厳かに入舟の儀式が始まる。
駅前通りから「上ツ道」を北に向かい、一昨日(2月9日)に行われた発掘調査地を目指す。
途中、道の右に穴師大明神の石碑と鳥居があった。この鳥居道を東進すれば相撲神社・兵主神社に辿り着くのだが、その前に・・・
纒向遺跡第180次調査地
駅から徒歩5分ほど、集落内の建物で囲まれた約205㎡の狭いところ。
これまでに検出されたJR線の西側の建物遺構と推定中軸線を同じくする建物の柱穴がでてきたそうだが、この日は休日なので、現場はブルーシートで覆われている。
一旦、上ツ道まで戻り駅前通りを過ぎ引続き南下、国道169号の高架下を抜けると、一面の田圃の中に目指す古墳が見える。
ここからの道は、箸墓と三輪山がランドマークの機能を果たしてくれ、位置確認に大いに助かった。
巻野内石塚古墳(古墳時代前期(3世紀末?)の前方後円墳。全長約60m・後円部径約40m・前方部長20m) ・・・右は箸墓古墳。左奥にも古墳が見える。
箸中支群の最北端に位置する古墳。
径約40mの後期の円墳とする考えが一般的だったが、墳丘北東側の果樹畑部分が北側へ不自然な張り出しを持つことから、前方後円墳になる可能性が指摘されていた(北東部にある畦道の形状からも推測できる?)
2002年の桜井市教育委員会による測量調査で、前方部が北東側に取り付く全長約60mの前方後円墳であることが判明。
また、墳丘の築造規格が前方部が短い「纒向型」でホケノ山古墳の3分の2の大きさであることが判明。
ホケノ山古墳を盟主として、同時期か少し後に築かれたもの?
南の道沿いの後円部墳丘裾の石垣は転用された葺石?
案内表示版に、以下のような記載
「纏向地域から、南の茅原の地域にかけての丘陵部には、有名な珠城山古墳群や箸墓古墳・茅原大墓古墳があるが、この他に20数基の中・小規模な古墳が散在している。 数基の方墳があるものの、多くは古墳時代後期の円墳と見られ、中には前方後円形を呈するものもあるようだ。 巻野内石塚古墳もこれらの古墳群中にあり、調査が行われていないため詳細は不明だが、後円部径35m程度の北面する前方後円墳のようである。」
南の道を東に進みT字路を右・南に進む。道の両側に墳丘。西側は石田古墳(円墳?。径約15m)、東側はサシコマ古墳(円墳。径約13m)。この古墳のスグ南に小川塚西古墳(方墳。一辺約41m)、方墳ということなのだが、2段目・3段目の墳丘は円状に改変されていた。すぐ東に小川塚東古墳(円墳。径約34m)。
再び北上。春日神社、垂仁天皇の纏向珠城宮跡伝承地の辺りを経て東進し穴師の集落に入り、山の辺の道を通って兵主神社へ向かう。
大和の集落は、長屋門、大屋根などの立派な屋敷が多い。 古来よりの土地の豊かさを思う。
珠城山(タマキヤマ)古墳群
三輪山の北にある巻向山の別峰・穴師山の支脈が西に延びて平坦地に接する丘陵端に、東から1・2・3号墳の順に築造されている。すぐ北の尾根先にある渋谷向山古墳(前方後円墳、全長300m。景行天皇の山邊道上陵に治定されている。)とは指呼の距離。
6世紀代の古墳が直径10~30m級の規模のものが大半を占める中で、珠城山古墳群の規模は大きいものといえる。
また、前方後円墳3基が密集して築かれることは珍しく、豪華な副葬品が出土していることなども併せて考えると、当時の政権内においても重要な役割を果たしていた人物が埋葬されていると思われる。
さらに、この時期は、前方後円墳が築造される最後の時期であり、古墳時代の終焉を考える意味でも重要な古墳群である。
なお、これまで5度にわたる調査が実施されており、出土遺物は奈良国立博物館に収蔵されているそうな・・・。
墳丘にある案内表示によれば以下のとおり、
珠城山古墳群は古墳時代後期(6世紀)に築造された前方後円墳3基からなる古墳群で、発掘が行われた1・3号墳からは、環頭太刀や金銅装馬具などの豪華な副葬品が出土しています。 2→1→3号墳の順に築かれたと考えられ、この地域を支配していた豪族が代々築いたものだと思われます。 1950年頃から行われた度重なる土砂採取により、3号墳の大部分は失われましたが、その他の部分は保存され、1978年2月に国の史跡に指定されました。 その後、墳丘調査が行われ、2・3号墳間から円筒埴輪列や盾持人物埴輪が出土するなど多くの成果がありました。 現在、1号墳の墳丘や横穴式石室、2号墳の墳丘が見学できるようになっています。
1号墳 全長50~55m、後円部径25m前後、前方部幅27m前後。埋葬施設は横穴式石室(後円部)。築造時期は6C中~後半。
2号墳 全長80~85m、後円部径40m前後、前方部幅42m前後。埋葬施設は不明。築造時期は不明(6C代か)
3号墳 全長55~60m、後円部径27m前後、前方部幅25~30m。埋葬施設は横穴式石室2基(後円部及び前方部)。築造時期は6C後半。
玄室の中央に残っていた凝灰岩製の組合わせ式石棺は、橿原考古学研究所の前庭に置かれている。後円部上にお稲荷さんの小さな祠が祀られている。
前方部は削平されており後円部から見ると分かりづらいが、墳丘下の南の道路からは墳丘全体のイメージが容易に掴める。
なお、この道路からも石室の開口部が見える。
2号墳の遺物や埋葬施設は不明。
3号墳は、前方部の基底端を残してほぼ消滅。
後円部の石室は両袖式で、家形石棺と組合せ式石棺。
遺物は、馬具類のほか、挂甲小札・太刀・須恵器・土師器など。この中で、馬具の鏡板(かがみいた)(轡(くつわ)の一部)と杏葉(ぎょうよう)(馬を装飾するもの)は特筆すべきもの。 両方とも鉄地金銅張りの台板に透彫りの文様板を重ねたもので、鏡板には忍冬唐草文、杏葉には左右に向かい合う鳳凰の文様が施されているなど繊細な彫金を施しており、技術の精巧さがうかがえる。
墳丘上から見た穴師の集落・・・遠景は三輪山
この後、兵主神社に向かうのだが、穴師の集落内で道に迷い、時間のロス。
この付近の道端、ミカンなどの無人販売が多数あり。
・・・ この続きは「大和の国・纏向を歩く②」
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2014年02月07日
近江の国・湖西路を歩く
明日は大雪とか・・・
そんな天気予報がウソのような今日の青空~

JR湖西線・小野駅の西、曼荼羅山の西麓、真野北小学校の北隣にある古墳群。
(曼陀羅山古墳群全体では5群117基)
発掘調査も終盤を迎えているようで、墳丘は禿げ頭に~、それぞれ南に開口した石室・・・

2号墳の天井石は?
・・・・・ 墳丘下、北側に転がっていました。

今月下旬に現地説明会が予定されているとか・・・楽しみ~(^J^) 続きを読む
そんな天気予報がウソのような今日の青空~
JR湖西線・小野駅の西、曼荼羅山の西麓、真野北小学校の北隣にある古墳群。
(曼陀羅山古墳群全体では5群117基)
発掘調査も終盤を迎えているようで、墳丘は禿げ頭に~、それぞれ南に開口した石室・・・
2号墳の天井石は?
・・・・・ 墳丘下、北側に転がっていました。
今月下旬に現地説明会が予定されているとか・・・楽しみ~(^J^) 続きを読む
2014年02月04日
摂津の国・豊能を歩く
またまた風もなく暖かい日に、阪急電鉄・石橋駅から池田駅の間、ほぼ半世紀振り?の大阪大学・・・、その後、久し振りにインスタントラーメン発明記念館を訪ねてきた。


阪急電鉄・石橋駅(豊中市)
宝塚本線に箕面線が結節する3面5線の複雑な配線をもつ駅。
大阪大学(豊中キャンパス)の最寄駅のひとつ。駅西側の商店街は阪大生で賑わう。
大阪大学総合学術博物館(待兼山修学館。豊中市)
石橋駅南東の待兼山西端、徒歩10分弱。
企画展「野中古墳と倭の五王の時代」を覘いてきた。
野中古墳(大阪府藤井寺市)
古市古墳群のほぼ中央部、墓山古墳の北にある一辺が37m・5m高ほどの小さな二段築造の方墳。5世紀中~後半。
1964年、阪大による発掘調査により、組合式木棺と木櫃による並列した5列の主体部から大量の副葬品が出土。とくに鉄製の武器・武具類(甲冑11領ほか)。
野中古墳における2種類の甲冑の組合わせ、
①短甲(板甲)・頸甲(あかべよろい)・肩甲・眉庇付冑・(3号短甲のみ草摺(くさずり))=上半身を鉄製武具で覆った「重装備の武人」。鋲留技法の採用。
・・・2種類の鋲留短甲:三角板(細長い鉄板、帯金の間に三角形の板を用いる5領)と横矧板(横長の長方形の板を用いる3領)
・・・小札鋲留眉庇付冑:透かし彫りの入った眉庇、冑頂部に鉢状の飾りである受鉢・伏鉢、長方形の小型の鉄板である小札で帯金の間を埋めて作られている。
・・・11号短甲は、もっとも新しい横矧板鋲留短甲。この短甲のみ他の甲冑(第1列)とは離れた位置(第2列)に埋納。
②三角板革綴襟付短甲・革製衝角付冑(冑は1領のみ付随)=「伝統的・儀礼的な装束の武人」。革綴技法の採用。
・・・革製衝角付冑:冑の前方部分が船の先端のように尖る。1枚の鉄板で作られた錣(しころ)。冑頂部に金銅を用いた三尾鉄。





冑は、短甲の中に納められ、入れ子状態で埋納。
鉄刀(片刃の直刀、平均の長さは87.4cm)153本、
鉄剣(両刃、64.0cm)16本、
鉄鉾3本。
一部は第1列に埋納されていたが大部分は第4列。

出土した鉄鏃の型式と個体数
740本、それぞれが束ねられた10のまとまり(1~10群)出土。
平面形状から5種類に分類。
①腸抉柳葉式鏃(わたくりやないばしきぞく):腸抉と呼ばれる刳り込みを持つ。
②鳥舌鏃(ちょうぜつぞく):細身で刃がS字を描く。
③短頸鏃(たんけいぞく):矢柄の接続部に軸状の頸部を持つ。
④独立片逆刺鏃(どくりつかたかえしぞく):刃部だけでなく頸部に逆刺を持つ。
⑤長頸鏃(ちょうけいぞく):長い頸部を持つ。
その他の出土品
鉄製農工具、鉄釘、36kgの鉄鋌、石製模造品、陶質土器・須恵器・土師器、円筒埴輪、形象埴輪など

駒ヶ谷北古墳出土の方格規矩鏡
・・・三角縁神獣鏡より気になる存在
常設展示室にマチカネワニの化石の復元骨格などの展示有り。
阪大を出て北西に進み、箕面線を渡り、国道176号を西に向かい池田駅方面に進む。
鉢塚交差点を北に住宅街を進むと神社の杜が見える。
五社神社・鉢塚古墳(祭神:穴穂大神ほか。池田市)
社伝では、聖武天皇の天皇神亀元年(724)、僧行基が当地に多羅山若王寺を創建し、その鎮守として神社を勧請したとか。
拝殿前に天保5年(1834)に寄進された「浪花型狛犬」

拝殿の右、東側を奥に進むと古墳がある。羨道までは自由に入れるが、そこから先に柵があるので玄室(奥の院)に入るには社務所に申し出ると開錠してくれる。 要300円以上の賽銭。



以下、説明板の記載
本墳は上円下方墳と云う特異な墳形と巨大な横穴式石室を有する大阪府下有数の古墳である。
その兆域は五社神社境内に含まれる南面の周濠や墳丘の一部が削られている外は累々完好な状況を保ち周濠の形跡も明瞭である。
石室は両袖式で南面に開口し奥行全長15米(内玄室7米、羨道8米)玄室高さ5米、幅4米、羨道高さ2米、幅2米を算える。
被葬者は不明であるが6、7世紀頃この地方を統轄した首長の墳墓と見られる。
尚、玄室内には重要文化財指定の石造十三重塔が祀られ相輪が後補である以外はよく旧規をとゝめ各屋蓋に上層の軸部を造出す形式のもので軒口厚く隅反りがあり鎌倉時代の特色を示している。
とあるが、池田市による平成5年の外形調査では基底部径約45mの円墳、また平成6年の石室実測で全長14.8m、玄室の長さ6.48m・高さ5.2m・幅3.2m、羨道の長さ8.4m・高さ平均約2m・幅平均1.8mを得ている。
神域なので、写真撮影は2~3枚にして欲しいとのこと。
石室・羨道とも中段から下の壁面には大きな石、上段は持ち送りのドーム状。
玄室・羨道ともに3枚の天井石。
壁石の所々にクラックが見られ、石の間にモルタルを施し補強している。
ところで、一説にはこの神社、4Cの初め頃、神功皇后が三韓征伐の後、新羅から持ち帰った鉄鉢を当地に埋めた。のち、奈良時代になって行基が掘り起し聖武天皇の勅により「鉢多羅山・若王寺 釋迦院」を建立し、その鎮守社として「五社神社」が建てられた、とか。
さて、何故、神功皇后はここに鉄鉢を埋めたのか?
古代史研究家・池田仁三は、コンピュータによる画像解析により、石室内から陵主の墓碑銘(?)「息長宿禰命」(2世紀?頃の皇族、第9代開化天皇の玄孫・神功皇后の父)を読み取ったとか。
だとすれば、釈迦の鉄鉢を戦勝記念に父が眠る墓に埋めたということか・・・?
なお、この神功皇后の三韓征伐勝利にあやかり、後に秀吉が朝鮮出兵に出向いた際、ねねが戦勝祈願に訪れたとか ~ 。
境内を出て国道176号、阪急線を越えて「有馬道」方面へ・・・

猪名津彦神社(祭神:猪名津彦とは阿知使主・都加使主の親子。池田市)
猪名津彦大明神由来として、以下の顕額あり、
当猪名津彦神社は後漢の孝献皇帝(霊帝)の聖裔阿智王都加王の両人を祀る所で延喜式に云う摂津國豊島郡鎮座の神社である。
日本書紀に応神天皇20年秋9月阿智使主其子都加使主は部下17県の人達を連れて我國に渡来し大和國桧隈に住居を與へられ同天皇37年春2月両人を勅使として呉國に縫工女を求めしめんとされ呉王より兄媛弟媛烏沙架女幾利区珥女の4婦女を與へられ同41年春2月阿智使主等呉國より筑紫に帰着したがムナ形大神の乞に兄媛を差し上げ他の3婦女を伴い摂津國武庫に到る時天皇崩御の報に接し献ずるを得ず後仁徳天皇は居館を豊島郡為那野に造営し羅綾織絍の業を専らにされその功績により此の地を呉服と名付け反成天皇は勅令を持って送り名をされ猪名津彦大明神とし之が倭漢直の祖である。
降って允恭天皇の時その子孫忘奴手直に坂上姓を弟奴留間直に秦姓を賜う。
文化年間に古墳の盗掘がはやり、阿智使主の傳えられた所も其の例に漏れず行はれ此の所より珠塗の棺の破片人骨の若干を持帰へり猪名津彦大明神跡に埋葬し御霊は現地に御祀りしものです。(伊居太神社の文章を書写・・・から)
また、「呉服校区の歴史よもやま話 宇保と猪名津彦」として
(前略)宇保町は13世紀の初め鎌倉時代にはすでに律令制による豊嶋北条宇保邑19条として「勝尾寺文書」に記録されています。
平安時代この一帯は河内国土師氏の子孫坂上氏が来て開墾した「呉庭の庄」と呼ばれた荘園でした。
坂上氏の祖先は「猪名津彦神社」の祭神「阿知主使」「都加主使」の親子で中国後漢霊帝の曾孫に当たる渡来人です。
池田の呉織・穴織伝説の織姫を呉の国から連れて来て仁徳天皇に奉った人物です。
神格化された猪名津彦となられました。
また源義仲が多田に勢力を持つようになり多田院を中央政所とし東政所を宇保に定めました。
このような由来で宇保は坂上氏の菩提寺「禅城寺」が建てられ「池田の観音さん」として有名でした。
猪名津彦神社は元猪名津彦を葬った横穴式円墳と小さな祠でした。
今も境内には古墳に用いられた巨石や古木の切り株が残っています。
文化2年(1805)石棺が開けられると朱に染まった遺物が発見され伊居太神社の神官がこれを持ち帰って境内に埋葬し直しました。
長い年月が経過して伊居太神社に預けられていた古墳のご神体は昭和33年高床式本殿と拝殿が建てられて再び神体が勧請されて祀られたのが現在の社殿です。・・・・

この神社そのものが古墳(宇保猪名津彦神社古墳)の墳丘上に建っている?
境内の隅に注連縄を施した大岩・・・これは古墳の石室に使われていた?
染殿井(池田市)
呉織・穴織の二人の姫が糸を染めるのに水を汲んだと伝わる井戸跡に立つ石。
染めた糸や反物を干したのが山上の「衣懸の松」・・・。
空を仰いで故国を偲んだという。
また、夜遅く暗がりの中で熱心に機織りをしていると7つの星が降ってきて光が満ちたお蔭で作業を進めることができた、とか
・・・秦氏が持ち込んだ「妙見信仰」か?
北に進むと、


インスタントラーメン発明記念館(日清食品。池田市)
1958年、安藤百福は池田の自宅裏庭に建てた小屋で研究を重ねチキンラーメンを生み出した・・・とか。
いま、発明記念館の1階に小屋が復元され、館外に銅像が立つ。


また、館内1階に日清食品の歴代パッケージが展示されたインスタントラーメン・トンネルやカップヌードルの発明に至るエピソードを映すドラマシアター、売店、2階にオリジナル・カップヌードルを造ることができるマイカップヌードルファクトリー(要300円)、手作り体験工房のチキンラーメンファクトリー(要500円)がある。
この日は土曜日、ちびっこを連れた家族などで賑わっていた。。
引続き北進すると

阪急電鉄・池田駅(池田市)
駅前広場に「衣被(きぬかずき)」のモニュメント。
駅舎の2F西端に「いけだ市民文化振興財団」、
駅の南東(インスタントラーメン発明記念館方向)に観光案内所・物販。
この日、11時~16時頃まで散策。
渡来系氏族である秦氏の痕跡が多く残る池田市。
次回、機会があれば、今回、訪ねることが出来なかった阪急・池田駅の北側、伊居太神社(上・下の両宮)、池田城跡、娯三堂・茶臼山・五月ケ丘・二子塚などの古墳を訪ねてみたい・・・。
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阪急電鉄・石橋駅(豊中市)
宝塚本線に箕面線が結節する3面5線の複雑な配線をもつ駅。
大阪大学(豊中キャンパス)の最寄駅のひとつ。駅西側の商店街は阪大生で賑わう。
大阪大学総合学術博物館(待兼山修学館。豊中市)
石橋駅南東の待兼山西端、徒歩10分弱。
企画展「野中古墳と倭の五王の時代」を覘いてきた。
野中古墳(大阪府藤井寺市)
古市古墳群のほぼ中央部、墓山古墳の北にある一辺が37m・5m高ほどの小さな二段築造の方墳。5世紀中~後半。
1964年、阪大による発掘調査により、組合式木棺と木櫃による並列した5列の主体部から大量の副葬品が出土。とくに鉄製の武器・武具類(甲冑11領ほか)。
野中古墳における2種類の甲冑の組合わせ、
①短甲(板甲)・頸甲(あかべよろい)・肩甲・眉庇付冑・(3号短甲のみ草摺(くさずり))=上半身を鉄製武具で覆った「重装備の武人」。鋲留技法の採用。
・・・2種類の鋲留短甲:三角板(細長い鉄板、帯金の間に三角形の板を用いる5領)と横矧板(横長の長方形の板を用いる3領)
・・・小札鋲留眉庇付冑:透かし彫りの入った眉庇、冑頂部に鉢状の飾りである受鉢・伏鉢、長方形の小型の鉄板である小札で帯金の間を埋めて作られている。
・・・11号短甲は、もっとも新しい横矧板鋲留短甲。この短甲のみ他の甲冑(第1列)とは離れた位置(第2列)に埋納。
②三角板革綴襟付短甲・革製衝角付冑(冑は1領のみ付随)=「伝統的・儀礼的な装束の武人」。革綴技法の採用。
・・・革製衝角付冑:冑の前方部分が船の先端のように尖る。1枚の鉄板で作られた錣(しころ)。冑頂部に金銅を用いた三尾鉄。
冑は、短甲の中に納められ、入れ子状態で埋納。
鉄刀(片刃の直刀、平均の長さは87.4cm)153本、
鉄剣(両刃、64.0cm)16本、
鉄鉾3本。
一部は第1列に埋納されていたが大部分は第4列。
出土した鉄鏃の型式と個体数
740本、それぞれが束ねられた10のまとまり(1~10群)出土。
平面形状から5種類に分類。
①腸抉柳葉式鏃(わたくりやないばしきぞく):腸抉と呼ばれる刳り込みを持つ。
②鳥舌鏃(ちょうぜつぞく):細身で刃がS字を描く。
③短頸鏃(たんけいぞく):矢柄の接続部に軸状の頸部を持つ。
④独立片逆刺鏃(どくりつかたかえしぞく):刃部だけでなく頸部に逆刺を持つ。
⑤長頸鏃(ちょうけいぞく):長い頸部を持つ。
鉄製農工具、鉄釘、36kgの鉄鋌、石製模造品、陶質土器・須恵器・土師器、円筒埴輪、形象埴輪など
駒ヶ谷北古墳出土の方格規矩鏡
・・・三角縁神獣鏡より気になる存在
常設展示室にマチカネワニの化石の復元骨格などの展示有り。
阪大を出て北西に進み、箕面線を渡り、国道176号を西に向かい池田駅方面に進む。
鉢塚交差点を北に住宅街を進むと神社の杜が見える。
五社神社・鉢塚古墳(祭神:穴穂大神ほか。池田市)
社伝では、聖武天皇の天皇神亀元年(724)、僧行基が当地に多羅山若王寺を創建し、その鎮守として神社を勧請したとか。
拝殿前に天保5年(1834)に寄進された「浪花型狛犬」
拝殿の右、東側を奥に進むと古墳がある。羨道までは自由に入れるが、そこから先に柵があるので玄室(奥の院)に入るには社務所に申し出ると開錠してくれる。 要300円以上の賽銭。
以下、説明板の記載
本墳は上円下方墳と云う特異な墳形と巨大な横穴式石室を有する大阪府下有数の古墳である。
その兆域は五社神社境内に含まれる南面の周濠や墳丘の一部が削られている外は累々完好な状況を保ち周濠の形跡も明瞭である。
石室は両袖式で南面に開口し奥行全長15米(内玄室7米、羨道8米)玄室高さ5米、幅4米、羨道高さ2米、幅2米を算える。
被葬者は不明であるが6、7世紀頃この地方を統轄した首長の墳墓と見られる。
尚、玄室内には重要文化財指定の石造十三重塔が祀られ相輪が後補である以外はよく旧規をとゝめ各屋蓋に上層の軸部を造出す形式のもので軒口厚く隅反りがあり鎌倉時代の特色を示している。
とあるが、池田市による平成5年の外形調査では基底部径約45mの円墳、また平成6年の石室実測で全長14.8m、玄室の長さ6.48m・高さ5.2m・幅3.2m、羨道の長さ8.4m・高さ平均約2m・幅平均1.8mを得ている。
神域なので、写真撮影は2~3枚にして欲しいとのこと。
石室・羨道とも中段から下の壁面には大きな石、上段は持ち送りのドーム状。
玄室・羨道ともに3枚の天井石。
壁石の所々にクラックが見られ、石の間にモルタルを施し補強している。
ところで、一説にはこの神社、4Cの初め頃、神功皇后が三韓征伐の後、新羅から持ち帰った鉄鉢を当地に埋めた。のち、奈良時代になって行基が掘り起し聖武天皇の勅により「鉢多羅山・若王寺 釋迦院」を建立し、その鎮守社として「五社神社」が建てられた、とか。
さて、何故、神功皇后はここに鉄鉢を埋めたのか?
古代史研究家・池田仁三は、コンピュータによる画像解析により、石室内から陵主の墓碑銘(?)「息長宿禰命」(2世紀?頃の皇族、第9代開化天皇の玄孫・神功皇后の父)を読み取ったとか。
だとすれば、釈迦の鉄鉢を戦勝記念に父が眠る墓に埋めたということか・・・?
なお、この神功皇后の三韓征伐勝利にあやかり、後に秀吉が朝鮮出兵に出向いた際、ねねが戦勝祈願に訪れたとか ~ 。
境内を出て国道176号、阪急線を越えて「有馬道」方面へ・・・
猪名津彦神社(祭神:猪名津彦とは阿知使主・都加使主の親子。池田市)
猪名津彦大明神由来として、以下の顕額あり、
当猪名津彦神社は後漢の孝献皇帝(霊帝)の聖裔阿智王都加王の両人を祀る所で延喜式に云う摂津國豊島郡鎮座の神社である。
日本書紀に応神天皇20年秋9月阿智使主其子都加使主は部下17県の人達を連れて我國に渡来し大和國桧隈に住居を與へられ同天皇37年春2月両人を勅使として呉國に縫工女を求めしめんとされ呉王より兄媛弟媛烏沙架女幾利区珥女の4婦女を與へられ同41年春2月阿智使主等呉國より筑紫に帰着したがムナ形大神の乞に兄媛を差し上げ他の3婦女を伴い摂津國武庫に到る時天皇崩御の報に接し献ずるを得ず後仁徳天皇は居館を豊島郡為那野に造営し羅綾織絍の業を専らにされその功績により此の地を呉服と名付け反成天皇は勅令を持って送り名をされ猪名津彦大明神とし之が倭漢直の祖である。
降って允恭天皇の時その子孫忘奴手直に坂上姓を弟奴留間直に秦姓を賜う。
文化年間に古墳の盗掘がはやり、阿智使主の傳えられた所も其の例に漏れず行はれ此の所より珠塗の棺の破片人骨の若干を持帰へり猪名津彦大明神跡に埋葬し御霊は現地に御祀りしものです。(伊居太神社の文章を書写・・・から)
また、「呉服校区の歴史よもやま話 宇保と猪名津彦」として
(前略)宇保町は13世紀の初め鎌倉時代にはすでに律令制による豊嶋北条宇保邑19条として「勝尾寺文書」に記録されています。
平安時代この一帯は河内国土師氏の子孫坂上氏が来て開墾した「呉庭の庄」と呼ばれた荘園でした。
坂上氏の祖先は「猪名津彦神社」の祭神「阿知主使」「都加主使」の親子で中国後漢霊帝の曾孫に当たる渡来人です。
池田の呉織・穴織伝説の織姫を呉の国から連れて来て仁徳天皇に奉った人物です。
神格化された猪名津彦となられました。
また源義仲が多田に勢力を持つようになり多田院を中央政所とし東政所を宇保に定めました。
このような由来で宇保は坂上氏の菩提寺「禅城寺」が建てられ「池田の観音さん」として有名でした。
猪名津彦神社は元猪名津彦を葬った横穴式円墳と小さな祠でした。
今も境内には古墳に用いられた巨石や古木の切り株が残っています。
文化2年(1805)石棺が開けられると朱に染まった遺物が発見され伊居太神社の神官がこれを持ち帰って境内に埋葬し直しました。
長い年月が経過して伊居太神社に預けられていた古墳のご神体は昭和33年高床式本殿と拝殿が建てられて再び神体が勧請されて祀られたのが現在の社殿です。・・・・
この神社そのものが古墳(宇保猪名津彦神社古墳)の墳丘上に建っている?
境内の隅に注連縄を施した大岩・・・これは古墳の石室に使われていた?
呉織・穴織の二人の姫が糸を染めるのに水を汲んだと伝わる井戸跡に立つ石。
染めた糸や反物を干したのが山上の「衣懸の松」・・・。
空を仰いで故国を偲んだという。
また、夜遅く暗がりの中で熱心に機織りをしていると7つの星が降ってきて光が満ちたお蔭で作業を進めることができた、とか
・・・秦氏が持ち込んだ「妙見信仰」か?
北に進むと、
インスタントラーメン発明記念館(日清食品。池田市)
1958年、安藤百福は池田の自宅裏庭に建てた小屋で研究を重ねチキンラーメンを生み出した・・・とか。
いま、発明記念館の1階に小屋が復元され、館外に銅像が立つ。
また、館内1階に日清食品の歴代パッケージが展示されたインスタントラーメン・トンネルやカップヌードルの発明に至るエピソードを映すドラマシアター、売店、2階にオリジナル・カップヌードルを造ることができるマイカップヌードルファクトリー(要300円)、手作り体験工房のチキンラーメンファクトリー(要500円)がある。
この日は土曜日、ちびっこを連れた家族などで賑わっていた。。
引続き北進すると
阪急電鉄・池田駅(池田市)
駅前広場に「衣被(きぬかずき)」のモニュメント。
駅舎の2F西端に「いけだ市民文化振興財団」、
駅の南東(インスタントラーメン発明記念館方向)に観光案内所・物販。
この日、11時~16時頃まで散策。
渡来系氏族である秦氏の痕跡が多く残る池田市。
次回、機会があれば、今回、訪ねることが出来なかった阪急・池田駅の北側、伊居太神社(上・下の両宮)、池田城跡、娯三堂・茶臼山・五月ケ丘・二子塚などの古墳を訪ねてみたい・・・。
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