2014年07月20日

大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ

筒井城から多神社(多坐弥志理都比古神社)へ。

大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ
ここは、
太安万侶らをはじめとする
古代氏族多氏の本貫地?

この冬、
纏向遺跡など田原本町内を散策した折に、
夕刻タイムアウトになったため訪れることができなかった処。

書紀 巻第三 神日本磐余彥天皇 神武天皇に
辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。
とあり、
神武天皇が即位されたこと、皇子の神八井命と神淳名川耳尊(第三子、綏靖天皇)が生まれたことなどが記載されている。


さらに、巻第四 神渟名川耳天皇 綏靖天皇に
・・・神日本磐余彥天皇崩。・・・其庶兄手硏耳命、行年已長、久歷朝機。故、亦委事而親之。然其王、立操厝懷、本乖仁義、遂以諒闇之際、威福自由、苞藏禍心、圖害二弟。・・・。
冬十一月、神渟名川耳尊、與兄神八井耳命、陰知其志而善防之。至於山陵事畢、乃使弓部稚彥造弓、倭鍛部天津眞浦造眞麛鏃、矢部作箭。及弓矢既成、神渟名川耳尊、欲以射殺手硏耳命。會有手硏耳命於片丘大窨中獨臥于大牀、時渟名川耳尊、謂神八井耳命曰「今適其時也。夫言貴密、事宜愼、故我之陰謀、本無預者。今日之事、唯吾與爾自行之耳。吾當先開窨戸、爾其射之。」
因相隨進入、神渟名川耳尊、突開其戸。神八井耳命、則手脚戰慄、不能放矢。時神渟名川耳尊、掣取其兄所持弓矢而射手硏耳命、一發中胸、再發中背、遂殺之。於是、神八井耳命、懣然自服、讓於神渟名川耳尊曰「吾是乃兄、而懦弱不能致果。今汝特挺神武、自誅元惡。宜哉乎、汝之光臨天位、以承皇祖之業。吾當爲汝輔之、奉典神祇者。」是卽多臣之始祖也。
・・・四年夏四月、神八井耳命薨。卽葬于畝傍山北。
とあり、
神武天皇の崩御後、兄(第一子)の手硏耳命が権力を欲しいままにし、二人の弟(神八井耳命と神渟名川耳尊)を殺そうと企てたが、そのことを知った二人は・・・。ふるえおののいて矢を射ることができなかった神八井耳命の弓矢を神渟名川耳尊が取って胸と背中を射抜いて殺した。これを恥じて神八井耳命は皇位を神渟名川耳尊に譲った。・・・ことなどが記載されている。

多神社(多坐弥志理都比古神社)、「みしりつひこ(=神八井耳命)」。
神武天皇の子でありながら弟に皇位を譲ったので、「身を退いた」という意味?
もっとも、末子相続制の習俗を反映かな??っていう見方も・・・。

鳥居をくぐると、整然と並んだ石灯籠。
大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ


境内の左に築地塀で囲まれた神職の館。
大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ


正面、拝殿の後ろに春日造社殿1間社の本殿が東西に4殿並んでいる。
東の第一殿が神武天皇、第二殿が神八井耳命(神武天皇の長子。多氏の祖)、第三殿が神淳名川耳命(綏靖天皇)、第四殿が姫御神(玉依姫)を祀る。
本殿の後方に古代の祭祀場もしくは古墳と考えられている「神武塚」と呼ばれる小丘があるそうなのだが・・・鬱蒼と茂った林の中、塚の確認はできなかった。
大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ


大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ
鳥居まで戻ると、
その南東に 真新しい
「古事記」と刻んだ石柱と
小杜神社境内地図。

南に進むと古事記献上の碑。
平成24年(2012)に、『古事記』が編纂1300年を記念して建てられた。
大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ


杜の中に鎮座する小杜神社の祭神は、太安万侶。
30数年前に奈良市此瀬町の茶畑で火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土したことから、この神社東方にある太安万侶の墓と伝える小円墳は見なかった。
大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ


小杜神社の南に、皇子神命神社
林の中、忘れ去られたような古びた小さな祠が建っていた。
大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ


多神社周辺は、弥生時代から中世に至る時期の大規模な複合遺跡。
特に、弥生時代、長軸350m、短軸300mの規模をもつ拠点的な環濠集落であったと推定されている。

多神社の東約200m、集落の西のはずれに姫皇子命神社
本殿(春日造)が東面(多神社及び他の摂社はすべて南面)しており、三輪山に昇る朝日が直射する位置、三輪山と向かいあうように建てられていた。


このあと、橿原市の新沢千塚古墳群と御所市の室大墓などを廻って帰宅。

前者の新沢千塚古墳群は、4世紀末から7世紀にかけて造営された600余基からなる大古墳群。
シルクロードの最東端にある古墳群からは、これまでペルシャ地方や中国東北部、朝鮮半島などからもたらされたとみられるガラス容器や金銀製の装身具などの副葬品が出土している。 20数年前、初めて訪ねたときは、正倉院御物の類似品が古墳から出土したことに驚いたことを思いだす。
以前あった資料館は、今春、博物館としてリニューアルオープンしていた。
大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ


後者の室大墓古墳(室宮山古墳)は、古墳時代中期前半、全長238m・後円部径105m・高さ25m・前方部幅110m・高さ22m、三段築成の巨大な前方後円墳。
大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ


孝安天皇室秋津島宮趾碑と八幡神社本殿の間の鳥居をくぐって斜面を登ると後円部の墳頂に出る。
竪穴式石室の天井石の一部がなく、そこから長持形石棺・縄掛突起が見えている。
これと並行して北側にも天井石が露出した竪穴式石室がある。
大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ

この日の探訪は、ここまで~。 走行キロ:202km、歩数:12,945歩。


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Posted by あきさん at 14:42│Comments(1)古代古墳奈良歴史神社
この記事へのコメント
新沢千塚古墳群に接する新博物館は如何でしたでしょう?
Posted by Yさん at 2014年07月21日 16:37
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