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Posted by 滋賀咲くブログ at

2013年12月29日

晩秋に東北の遺跡を訪ねる(その11-福島県③)

長沼城(須賀川市、長沼小学校の裏山。南北朝期。長沼氏・新国氏・蒲生氏・玉井氏。平山城、石垣・堀)

白河口(関東方面)から侵攻してくる外敵から会津を守る前線基地的な位置にある? 
小学校の裏にP、説明板もそこにある。






大岩に刻まれた石段から細い山路を登ると直ぐに「ハケゴ石」(稲荷郭跡)、その上に2段上がると東三の丸の平坦面が現れる。










この先に「化け石」(南帯郭)があり、本丸の下を回り込むと西三の丸が有るらしいがブッシュが酷かったので戻って本丸への路を登る。








本丸







本丸西端部にある稲荷神社の西側に西門跡、その門跡の両側に下端部内側に石積みを持った土塁が残っていた。






西門跡の下に二の丸遺構が見えていたが雨上がりの泥濘、かつブッシュの急坂なので降りずに下山。
歴史民俗資料館には立寄らず。






R294号・道谷坂陣跡(須賀川市。上杉氏)


落葉広葉樹林の広がるR294号沿いは、紅葉の盛りで走っていて気持ち良い。
国道沿いに陣跡の説明板。1600(慶長5)年、上杉景勝が徳川家康軍を迎撃するために構築。
防備体制:白河城⇒長沼城⇒道谷坂陣⇒鶴ヶ城。


林道の脇道の両側に防塁状の土塁があるが、説明板のポンチ絵では目の前の土塁がどの部分なのか不明。
霧雨で探訪せず。
















会津若松城(鶴ヶ城。会津若松市。葦名氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏・加藤氏・保科氏・会津松平氏。梯郭式平山城。阿弥陀寺に移築された御三階、麟閣=茶室。復元の天守・干飯櫓・南走長屋・鉄門、廊下橋・石垣・合坂。赤瓦。)

クルマを県立博物館P(三の丸)に停め入城・・・帰りに博物館に行き館内に置いてある無料駐車券をゲット。 








NHK大河ドラマ「八重の桜」の関連イベントが開催中で凄いヒトだった。
博物館の構内?に新しく八重の銅像が作られていた。









城内の喧騒はコリゴリなので、今回は本丸内を一周(三の丸⇒二の丸⇒(廊下橋)⇒本丸・表門⇒御三階跡⇒茶壺櫓⇒月見櫓⇒干飯櫓⇒鉄門⇒天守閣⇒帯櫓⇒太鼓門⇒・・・⇒三の丸)して退散。
























































































亀ヶ森古墳(会津坂下町。4C後半~5C。三段築成、L=約127mの福島県最大、東北地方で2番目に大きな前方後円墳。葺石、壺型埴輪・円筒埴輪出土)・鎮守森古墳(4C中。周濠を持つL=約60mの前方後方墳。二重口縁壺出土)




今回の『東北探訪』の最後は古墳で〆た。
50mほど、ずらすかのように2基が並立。





北東側の「亀ケ森」、後円部の中央は削り残したような小山、その頂と周りに祠。前方部は墓地。



















南西側の「鎮守森」は、後方部に八幡社を祀る。







両古墳とも墳頂部は大きく削平されているものの外郭ラインは掴めた。
両古墳の西側一帯から発掘調査により前方後円形・前方後方形・方形・円形などの周溝墓や集落跡が見つかっており、北陸色の強い土器も出土しているとのこと。



帰路につく



15時半頃だというに山里の夕暮れは早く、雲がかかって山頂部は見えない磐梯山を遠望しつつ会津坂下ICから磐越自動車道に乗るも、津川ICの先は事故で通行止めとのこと。





本当に、この磐越道は事故が多い。









地道(若松街道)に降りる気もなく上川PAで大休止し、濃霧のなか北陸自動車道を経由して帰宅できたのは翌朝。

9泊12日の総走行キロ 3113.3km・・・「お疲れさま~」(^J^)
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Posted by あきさん at 05:02Comments(0)東北古墳

2013年12月28日

晩秋に東北の遺跡を訪ねる(その10-福島県②)

白河小峰城(白河市。1340年築城の梯郭式平山城。結城氏、蒲生氏、丹羽氏、 松平氏、阿部氏 他。木造復元の三重櫓・前御門、高石垣・水堀)



白川駅北側一帯が空地(P)となっており、
駅構内からも天守が良く見える。

















先年の東北大震災により石垣等が崩壊したため本丸全域が立入禁止。

仕方なく内堀を時計回りに一周。







本丸南面・月見櫓台・本丸西面・本丸北面・帯曲輪北面・搦手門・竹之丸南面など堀外からでも石垣の基底部から崩落している様子が窺えた。







各方位の石垣が大きく崩壊したのは、そもそも軟弱地盤に対する普請の配慮が足らなかったのか? 
崩落していない場所であっても、石垣のズレが散見された。






城の東側・阿武隈川の近くには修復に向けて崩落石の仮置場が、また、その南には双葉町からの避難者の仮設住宅が並んでいた。






白川城(白河市。搦目城。13C末・南北朝時代に築造された比高差300mの山城。白河結城氏。多数の曲輪、土塁)

白河市街地南東・搦目川南岸の御本城山(館山)にある。

未舗装の林道が行き詰った先に城址の案内碑があり、上り詰めた平坦部が主郭。

















主郭を一段下がった東側平坦部は発掘調査中。

その辺りに土塁遺構、案内碑の東側に堀切と出郭が、また、主郭を囲むように、その下部に郭が観られた。




ここも震災の影響なのか、
石燈籠や石碑が倒壊していた。


















南湖(白河市)

楽翁こと白河藩主松平定信が、
身分の差を越え誰でも憩える
「士民共楽」の理念のもと築造したと言われる公園に再び訪ねた。

湖面に映える松・・・。





棚倉城(棚倉町。亀ヶ城。丹羽氏・内藤氏・阿部氏。連郭式平城、高土塁・石垣、水堀)

丹羽氏が赤館から移る。
棚倉盆地の中央、本丸跡地の公園に、大土塁・水堀が残存する。
戊辰戦争では、主力が各地に出撃し手薄になった城は参謀・板垣退助の率いる官軍800名・大砲8門の攻撃を受け、わずか1日で落城したそうな。
大きな堀だけでは抗しきれなかったのか・・・。


赤館(棚倉町。伊賀(赤館)氏・佐竹氏・立花氏・丹羽氏。山城、土塁)

山頂の主郭跡全域が平坦な公園であるが北端側に土塁状の高まりが残る。
主郭(一番平)から一段下がったところに腰曲輪跡らしき平坦地が観られ、また、随所に空堀も見られた。
棚倉の街並み展望良好。




白河関(白河市。土塁・空堀)



奥州三関の一つ(鼠ヶ関・勿来関)、8C初頭には白川軍団が配されたそうな。

一帯は成務天皇期に白河国造命・天太玉命を奉祀し勅命により鎮座したという白河神社の境内。













その南東部に甲賀の単郭方形の館に似た土塁・櫓台・空堀・土橋の残る館跡(白河結城氏の関ノ森城?)。

ここから掘立柱建物遺構や奈良・平安時代の土器が出土。





平兼盛・能因法師・梶原景季などの歌碑や芭蕉「奥の細道」碑あり。
『都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因法師)』って物思いにふけりつつ春を恋う(笑)・・・
『卯の花のかざし席の晴着かな(曾良)』



以前、訪ねたときは静寂そのものだったが・・・。
現在、遊歩道整備事業が進められており、半年もすれば様相が一変するかも~。

原生林の生える谷路、あと少しで白河の盆地に至る位置にある関。



前回は、白河関以南の状況、上・下侍塚古墳などの探訪を目的に南下。
予定外の寄り道もここまでにしてUターン。

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Posted by あきさん at 05:23Comments(0)東北古代

2013年12月27日

晩秋に東北の遺跡を訪ねる(その9-福島県①)

[福島県] 
※ 天候はイマイチだったが、自分の居る処だけ青空が広がっているような・・・。
宮城県との県境近くで想定外の収穫・・・。 
予定外の白河関を再訪したあと、会津若松でも思った場所に泊まれず帰路についた。

阿津賀志山防塁(国見町)

R4(奥州街道)を南下していて目に飛び込んできた看板。これって? 
平安時代末期、源頼朝の軍勢が奥州へ攻め入ることを想定して事前に奥州藤原氏が築いた平泉守備の最前線基地とのこと。
この一帯は、現在でも東北本線・国道4号・東北自動車道が並行して通る地、内陸を北上するには必ず通らなければならない交通の要衝のよう。


阿津賀志山中腹から阿武隈川までの4kmにわたって続く防塁のうち、見学したのは遺構の最北部にあたる阿津賀志山中腹。

南からの斜面(峠)を登り切った所に堀とその両側に土塁、土塁下部は石で補強? 

二つ目の土塁の北に幅10mほどの東西に延びるリンゴ畑の平坦面、ただし、東側はR4が南北に通り遺構を分断している模様。


平成20年度から毎年、史跡範囲確認調査を実施。
なお、訪ねたR4の北側は、10次調査(平成23年度)などで3条(外・中・内)の土塁列とその間の2筋(外・内)の堀が確認されている。
今年も2kmほど南の大橋地区で発掘調査を行い、防塁跡の痕跡をはじめ縄文~古墳時代の遺物を確認したとのこと。







桑折西山城(こおりにしやまじょう。桑折町。高館城・赤館城。伊達氏。15C~16C前半。山城、西舘の石垣、枡形虎口)

町役場(総務課)で城跡への道を教示いただいたが、「詳細は教委で~」っていうことなので、そちらに回る。
調査担当者は現地に行っており不在とのことで、対応者は若く西山城遺跡そのものを熟知していない様子。
ただ、クルマは4駆かと尋ねられた。
総務課でいただいた地図を頼りに現地に入る。

未舗装の林道は急坂で雨後の泥濘でタイヤは空転。
クルマでの進入を諦め、大手門跡辺りの道傍に置いて徒歩で探訪。
Pがあると教示された砲台跡(戊辰戦争の時、仙台藩が砲台を据えた等間隔の凹が残っている)に行っても倒木で駐車できる状態ではない。


もっとも、砲台跡のある郭の取付け道も急坂なのでヴァンガード(クルマ)では登れないかも・・・。
なお、ここには唯一、縄張図のある案内板が設置されている。

高館山山頂に本丸、その西に二の丸・西館・中館、南に砲台跡の郭が配された連郭式の壮大な山城遺構に胸が躍る。
各郭はそれぞれ大きな平坦地を有しており、郭間に堀切を設け、それぞれの郭の周縁部には土塁が残る。





とくに、本丸より高所の源吾山にある西館・中館の間の堀切には両側に設けられた石塁(土塁)が残っているほか、西館には随所に切岸や石塁を見ることができる。
また、本丸東側には虎口遺構、本丸・二の丸を結ぶ土橋遺構も残っている。


平成20年から毎年、発掘調査を実施。10ヶ年計画で整備を進めている。
この日、西館では、今年の発掘調査が終わり、片付け作業が行われていた。





福島城(福島市。大仏城・杉目城。伊達氏・木村氏・上杉氏・本多氏・堀田氏・板倉氏。平城、土塁)

市街地の官庁街。Pが見当たらなかったことからコンビニに駐車させてもらい庭園跡の紅葉山公園に向かう。
R13沿いにある県警本部の近くに福島城堀跡の縄張り表示板を見るが遺構らしきモノの確認は出来ず。
阿武隈川に架かる大仏橋の手前を川沿いに公園へ向かう。

公園(二の丸御外庭)内のほとんどは除染作業中で立入禁止。
三河国八ツ橋のかきつばたの名勝を真似て造ったと言われている瓢箪形の泉池に水はなく、張り巡らされたトラロープがあるだけ。

帰路、県庁とR13を結ぶ大通りに福島城大手門跡の石標を見つけた。


二本松城(二本松市。畠山氏(二本松氏)・伊達氏・蒲生氏・上杉氏・加藤氏・丹羽氏。馬蹄形の梯郭式平山城=江戸前期・中期・後期、復元の箕輪門、洗心亭=茶亭。)


広いPがあるものの、この日、「菊人形展」の開催中で大混雑。
観光バスで来る団体もあり一ヶ月の開催期間中に10万人を超える人が来るとか。





復元された箕輪門外にある二本松少年隊の群像を見たあと、戊辰戦争の火災痕の残る門を潜ると三の丸。










被災した石垣の修築作業が続けられており立入禁止のところもある。







修復石垣の石組み図面
・・・ 大変だ~




三の丸「菊人形展」の会場脇を抜けると観光客も少なくなった。





霞池畔・相生滝・藩士自刃の碑を通り所どころ切通し状になっている九十九折の坂を登ると「日影の井戸」が現れた。
ここから本丸は指呼の距離。
















天守台下部には、野面積の大石垣、これは蒲生時代の遺構? 

その上に平成5年から3ヶ年かけて全面修築された二段石垣。








方位を南東に取った一段目の石垣を虎口から入ると東西に櫓台があり、北隅櫓の位置に天守台が復元されている。
















これら石垣の修築の方法は、天守台の東下に裏込め石の状態が分かるように明示されていた。

下山に際して天守台下を一周して高石垣を確認。


門台石垣と門柱礎石の残る搦手門跡から「少年隊の丘」を抜け、洗心滝・傘松を過ぎ、城跡内に唯一残る江戸期の建造物「洗心亭(墨絵の御茶屋)」を観てPへ戻った。






三春城(三春町。舞鶴城・城山公園。築城時期不明(天正年間?)。標高407mの丘陵。戦国時代は田村氏、江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城。平山城、天守台・鉢巻石垣)

町保健センター脇から狭い舗装路を登り二之門跡のPにクルマを停めた。

雨上りの坂道、しっかり積もった落ち葉を踏みしめながら、揚土門跡・三之門跡を経て平坦な二の丸から礎石の残る大門跡に至る。




南東部に一段高くなったところが本丸の大広間跡、さらに東部はもう一段高くなっている処が秋田家供養塔の建つ奥跡。
二之丸・本丸の四周は断崖絶壁の山城である。
山頂にも関わらず強風にさらされていないためか吹き溜まりもなく地表面はすっかり落葉に覆われていた。



下山は、土塁の残る二之丸の東部にある裏門跡から堀切遺構?を通り矢倉跡を経てPに戻った。

なお、この城は、伊達政宗の正室・愛姫誕生の地。


先を急いでいたので歴史民俗資料館に立寄らず。









大安場古墳群(郡山市。4C後半~5C後半。前方後方墳1基・円墳4基)

古墳に至る道が判らず、「ここでは~」、と思った桜ヶ丘NT内に入って古墳を探し、整備された史跡公園に入る。
調査後整備された円墳の2号墳と前方後方墳の1号墳を見学。
残りの3号墳・4号墳は林間にあり夕暮れが迫って暗くなってきたのでカット。

クルマに戻り古墳を周回して、墳頂から見えたガイダンス施設に向かうものの到着は16時35分、入館時間を5分過ぎており見学は不可とのこと。
大きな博物館ならともかく、こじんまりした施設でこんな冷遇は初めて・・・。
融通がきかない。
リーフレットだけをいただき退散。
予め分かりやすい所に閉館時間の表示があれば古墳見学の前に入館したものを・・・。
   

1号墳:4C後半の全長約83m・東北地方最大の前方後方墳。
自然丘を削り出し、前方部が二段築成、後方部が三段築成で造られている。
後方部の墳丘斜面から、赤彩された底部穿孔の壺形土器が多数出土。
長さ10m、幅2mの粘土床に長さ9.2mの長大な割竹形木棺を安置。
棺内の北よりに朱粒。
緑色凝灰岩製の石釧、鞘と把の木部がともに良好に遺存し2cmほどの幅の布を巻いた大刀、剣、鑓鉋、鎌、板状鉄斧などが出土。

2号墳:5C後半の径約15mの円墳。石板の石室。

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Posted by あきさん at 14:08Comments(0)東北古墳

2013年12月26日

晩秋に東北の遺跡を訪ねる(その8-宮城県)

[宮城県] 
※ 仙台市内の思った場所にホテルを取れなかったことから、一気に宮城県の最南部まで進みました。 好天気が続きます。 (^J^)

蔵王山(蔵王エコーライン)

山形自動車道・宮城川崎ICを降りてからのR286、疎らではあるけれど風情のある松並木。 
お釜の見えるところまで登りたかったのだが2日前に冬季休業に入ったとのこと。






雑木林の中、滝見台の少し上まで行って引き返す。















ここも紅葉ではなく黄葉。
クルマも少なく静かなドライブを楽しむ。

再訪を期す。






白石城(白石市。苅田氏・蒲生氏・上杉氏・石川氏・片倉氏。平山城、本丸・二の丸・中の丸・西曲輪・沼の丸・南の丸・巽曲輪・三の丸・外曲輪。空堀・高石垣・土塁。移築の門・蔵。復元の三階櫓・門・塀。武家屋敷)



日没後、ホテルに着き部屋に入ると窓の外、
ライトアップされた青緑色の天守が見えた。









翌朝、ホテルにクルマを置いたまま城に向かう。

駅から真直ぐ西へ城まで延びる駅前通りの沿道には
「俺が行かずば誰が行く 伊達の先陣 片倉小十郎」
の幟があちらこちらにあった。








突き当り、城のある市役所まで行ったものの「白石」が気になり、平山城の山麓を迂回し内堀(沢端川? ここは町中を何本もの水路が張り巡らされている様子)を渡って「神石白石」へ。
『白石の地名は、この石から起こったと古くから伝えられている。』との案内があった。
依代だったのか? 
なお、地名の由来について、散策の最後に訪ねた白石駅舎には
『①純白で光沢のある大きな「神石白石」という名の石が産出された。②アイヌ語で“石がたくさんあるところ”という意味の「シュラウシ」からきている。③この地方の豪族であった「白石氏」の名前に由来する。』
などといった説明板が掲げられていた。


天守を仰ぎつつ武家屋敷群に入る。
城側に内堀のある街路の両側に整然と仕切られた屋敷跡に往年の雰囲気が十分楽しめる。







運動公園(搦め手?)側から山中に入り二の丸を通って本丸に至る。
四周を築地塀・土塁で囲まれた広い本丸の中央部に御殿屋敷跡、北東部に復元された隅櫓風の三層の天守閣。





その下には、高石垣と大手一の門と二の門などが配された梯郭式の平山城。
この二つの門で虎口が構成され本丸には360°Uターンして入る。
下山途中、本丸外郭石垣(腰巻石垣?)に、当初の野面積みと後世の切込接(きりこみはぎ)がよく分かる場所あり。


未だ震災後の復旧工事が続けられているようだが、残りの良い城郭遺構に好感を持つ。

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Posted by あきさん at 10:03Comments(0)東北古代

2013年12月25日

晩秋に東北の遺跡を訪ねる(その7-岩手県②)

花巻城(花巻市。鳥谷ヶ崎城。安倍氏・奥州藤原氏・稗貫氏・北氏・南部氏。石垣・土塁、円城寺門・西御門)

今は使われていない「コジマ」のPに駐車し、花巻小学校への坂を登り早坂御門跡を経て、復元された西御門から本丸に入る。


本丸は鳥谷が崎公園になっているものの、土塁、井戸跡、復元された築地塀や小学校のグランドに供された?二の丸を隔てる水掘が残っている。


搦手口には、往時の円城寺門(二子城の追手門を移築)が残っているそうだが、縄張り等について事前学習をしておらず確認しなかった。
スケールの大きな平山城であるが、市街地中心部にあるため市役所などの公共施設が建てられており旧状を留めていない模様。


鍋倉城(遠野市。横田城。阿曽沼氏・八戸南部氏(遠野南部氏)。344mの山城。竪堀・曲輪・本丸跡)



博物館前の急坂を登るとP有り。
中腹に南部神社のある曲輪があり、その上段に天守を模した展望台のある三の丸、更に一段上がると土塁の僅かな高まりを残す本丸がある。



















二の丸は、本丸を挟んで三の丸とは反対の南側。
空堀・切岸・竪堀?など中世の山城遺構を観ることができる。









遠野市立博物館(遠野市)

鍋倉城の登城口、図書館に併設されている。
受付で遠野の概要とカッパ淵へのアクセスを教えていただいた。
時間がなく展示は観ず。


カッパ淵(遠野市。常堅寺の左手の蓮池川)


伝承園近くのPにクルマを停め農道を進む。













常堅寺の山門を入ると左手側にカッパ狛犬。


(※) カッパ狛犬 ~ 昔、常堅寺が火災の際、頭の皿から水を吹き出して消し止め、今でも一対のカッパ狛犬として境内にその姿をとどめているそうな。
















境内を抜け、小川にかかる木橋を渡ったところ、小さな林の外れに小さな祠、ここが「カッパ淵」そして安倍屋敷跡。



















何故か、川に1竿・・・













糸の先には餌のキュウリ

・・・カッパ釣中? 





で、隣には
「カッパを釣りたい人は
『河童捕獲許可証』
を買ってから来てください。・・・」
の表示。






ちなみに、カッパの神は乳の神であり、乳児のある母親が母乳の出がよくなるよう祈願すると良いとのこと。
祠の横には、乳飲みカッパを抱いた母カッパの焼き物が置かれていた。















ところで、
近くに「カッパ直売所」があったので
立ち寄ってみたが、
時間も遅かったためか、
「本日は売り切れ」とのこと ??
・・・ 残念!







鳥海柵(とのみのさく)跡(金ケ崎町。9C後半~11C。安倍氏・奥州藤原氏)

濃霧のなか、柵跡を訪ねて農道に入る。今にも脱輪しそうなほど道幅が狭い。
具体の所在が分からないまま、遺構らしきモノを探すも霧が深くて10m先も良く見えない。
偶々、道路工事?車両を見つけて場所を教えていただく。


右前方100mほどの処に高台があるそうだが・・・。










逆T字路、右にハンドルが切れず後輪が泥の中に入ったものの強引にアクセルを踏み込んで何とか脱出。
タイヤが滑る急坂を上がると、霧の中に微かに柵を示す木柱があった。

・・・帰路、R4バイパスから分岐した真新しい舗装道路の進入路があることに気付く。

(※)鳥海柵~古代東北11~12C・安倍氏12柵のうち、唯一、所在が明らかになった柵。

南北500m・東西300mの島状台地を東西に延びる数本の堀で区画されており、北・東・南の外郭線の一部は確認できるものの中央部を南北に東北自動車道が貫通しており西側部分を確認せず。




写真は、本丸と二の丸を分かつ大堀「第二沢」












胆沢城(奥州市。9C初頭に多賀城から鎮守府を移転。坂上田村麻呂。幅3m・高4m・長3kmの築地塀)・奥州市埋蔵文化財センター


埋文センターに立寄り、資料を入手するとともに、展示から遺跡の概要をつかんだ後、古代の城柵を探訪。センターから遺跡を俯瞰できないのが残念。

県道270号が遺跡の西北部から南部中央を貫通している。

調査で判明した遺構の柱穴には円筒の石材を立て、土塁を復元するなど整備されているものの、遺跡の中に田畑もあり、まだ、全容解明には至っていない様子。

























白鳥舘(奥州市。10~16C。安倍氏(白鳥氏)・清原氏?・山名氏・岩淵氏。平山城、郭・土塁・空堀)

胆沢城が期待外れだった?ので、紹介された11~15Cの城館遺構を訪ねる。

三方を北上川に囲まれた急峻な高台。腰郭を配置するとともに、尾根状に残る一方には連郭状の縄張りとなっている。
本丸跡は18Cに北上川の浸食を受けて崩落し小さくなっており、あたかも土塁の残る二の丸が本丸の様相を呈している。


各郭は空堀で区画されている。
二の丸の腰郭・三の丸?・四の丸?は民有地で住居が建っているために観察できず。
久し振りの中世のあまり改変されていない城郭遺構に満足。




先日の大雨で通行禁止になっている郭下の氾濫原を歩いた。
見上げると館のある高台は絶壁。
ここで、黒鳥?に出会うもカメラが間に合わず・・・。







衣川柵(奥州市。平安時代の11C。安倍氏・奥州藤原氏。案内板と石碑のみ)

所在が不明瞭だったので「衣川歴史ふれあい館」に立寄り尋ねる。
衣川柵=並木屋敷跡とのこと。

衣川に沿った小さな農村集落のほぼ中央に並木屋敷跡、集落の内外に「接待館」・「泉課ヶ城(業近柵?)」・「琵琶柵」・「小松館」など。
特に、「接待館(衣川館?)」は発掘調査から柳之御所に匹敵する大規模な堀(現状:幅8~10m、深さ2m)と二重の土塁(現状:下幅5.5m、上幅0.9m、高さ1m)で囲まれた12Cの施設であることが判明している。
















衣川の集落のはずれ、八日市場から舘遺跡へ通じる川西橋の四隅の欄干に「川西大念仏剣舞」のブロンズ像。
仕草は厳しいのだが、愛嬌のある顔(面)に心が和む。



































柳之御所遺跡(平泉町。平安時代末期の12C。史跡公園。資料館)

随分久し振りの訪問。
過去2回は発掘調査中だった場所はキレイに整備され史跡公園になっていた。
資料館で概要を確認したあと、受付で義経堂のPを確認。

資料館前でご老人に捉まり、滋賀ナンバーを見て盛んに感心されるが、何を話しかけてくれたのか意味不明(笑) 
今回の旅行中、何度も地元の人同士の会話を耳にしたが、意味不明のことが多かった。


無量光院跡(平泉町)


義経堂へ向かう途中、発掘調査作業に気づきクルマを停めた。
中島の東側、池にあたる部分で大規模な調査が行われていたが、遺構や出土物は見当たらなかった。



無量光院跡から義経堂への県道上でも道路を半分通行止めにして調査が行われていた。
ここの若い女性技師さん、バッチリ濃いメークをしていたのに驚かされた(笑)





高館義経堂(平泉町。高館?・衣河館?)


新設された?P(半分以上は発掘作業従事者のクルマとプレハブで占拠されている。)にクルマを停め、坂道を登り義経終焉の地・高館義経堂に・・・。
















堂内には、本尊として公の木造が祀られている。
堂は痩せ尾根状の小丘にあり、堂と反対側の尾根上に芭蕉の句碑(「夏草や・・・」)があった。







北上川側は絶壁。
直下の堤防上をR4バイパスが走り、川が滔々と流れている。










北側、中尊寺の方角は立木が邪魔になって見えないが、空堀・郭が有るようだ。。

















毛越寺(もうつうじ。平泉町。慈覚大師・円仁、『作庭記』)


ここなら紅葉が見られるのでは~と期待して入ったが、意外に紅葉の木は少なかった。
せっかく入ったので大泉ヶ池を一周し、池塘に写る木々などをカメラに収め、次に向かった。




一関城(一関市。釣山館・高崎城。小野寺氏・伊達氏・田村氏。狼煙台、井戸跡、本丸跡、土塁)

一関市街地の南端、磐井川にかかる奥州街道・上の橋を渡ると目の前ある小山(「釣山」)が城跡。
公園として整備されており登頂ルートも数本ある模様。

北側からアタック開始。
切岸・三郭・切岸・二郭・切岸・主郭と階段状に郭が配置されたシンプルな縄張りとなっている。
三郭の東には腰郭が付き、二郭に「田村藩主の井戸」なるものがあった。
主郭の西端には烽火台(つるひめづか)が残っており、中央部には小さな田村神社が鎮座している。
北東端に虎口遺構らしきモノ有り。
烽火台近くの進入路は何? 公園整備の際に敷設した道路?? 
主郭から市街地の展望は中々のもの。


さすがに東北もこの辺りまで下ってくると紅葉を見ることが出来、そのうえ真っ白な桜の花も・・・。









仙台藩伊達氏の「地方知行制(家臣に直接土地を支給。城・要害・所・在所・在郷)」による領国支配。

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Posted by あきさん at 09:01Comments(0)東北古代