2013年04月08日
夏近し・・・汗をカキカキ、京都・山城の里(京田辺市)を散策
陽射しはあるけれど風は吹かない・・・里歩きには、暑すぎる。
雲一つない青空。桜が満開。
そんな日に近鉄「てくてくまっぷ」のルート図を参考に、SNSのMFさん・お二人と右往左往の一日でした。・・・・・・・・《事後談》日焼けしたのか、暑くて寝苦しい夜でした。
それでは、近鉄宮津駅をスタートです。
佐牙神社(A)に詣でたあと、三山木小学校・遠藤川の桜並木を横に見て、区画整理事業で整然となったJR・近鉄三山木駅をスルーして寿宝寺(B)へ。
現生には期待するご利益もないことから十一面観音菩薩様にはご挨拶をすることもなく、門前の山本駅跡(C)の石碑に失望しつつ、田園風景の長閑な景色の中を「暑い、暑い」と言いながらひたすら歩き、木津川の堤防上にある飯岡の渡し場跡(D)でノドを潤す。
MFさんから、「あの岩、なあ~に?」と尋ねられても、ブロック状にきれいな割れ『め』をしていることから「溶岩が急に冷えてできた安山岩」(E)と思いつつも、周りには、それ以外の岩頭はなく、即答するだけの自信がありません。
渡し場跡碑を探し出したMFさんたちの後ろをついていきます。
隣の墓石? 洪水や旱魃から田畑を守るため資材を擲って河川改修した豊田武部兵衛翁の顕彰碑。
スダジイの巨木をもつ咋岡神社(F)、櫻井王令穿七井戸のひとつを観て飯岡古墳群の薬師山古墳(G)に出ました。
茶畑の丘陵には、古墳が散在しています。
ゴロゴロ山古墳(H)を降りて、もうひとつの七井があるところ、蓮花寺跡(I)付近で道を見失い、薬師山古墳の墳丘裾まで戻って、再スタート。
先刻の蓮花寺跡を通って車塚古墳(J)の石柱に辿り着く。ここの前の墓地には、穴山梅雪の墓(K)がある。
さすがに、道を間違うと疲れが出てきて、言葉も少なく、正午も過ぎたこともあり、只々、昼食のことを思いながら・・・歩く、歩く。
あの森が咋岡神社(L)・・・暑さと空腹と疲労で、譫言を言ったのではありません。Fと同名の神社です。草路城跡とか。土塁・隅櫓台を確認。堀?、何か変・・・。
ここで小休止のあと、斜め向かいの法泉寺(M)へ。十三重の石塔と端正な本堂が印象的でした。
「ここで終わり!」って、3人で確認しながら、足は食事に向かっていました。
坊賀川まで辿り着いたとき、『てくてくまっぷ』に書かれたゴール・新田辺駅ではなく、より近い興戸駅を選択。
で、駅に到着したものの、飲食できる店は?・・・ない? 勿論、コンビニは? あるわけない!
疲れ切った2人を置いて元気なMFが駅前の花屋さんへ・・・ラッキー、1軒だけ喫茶店があるとのこと。休みでないことを祈りながら急ぎ足。
『ヴィトリュ』 メニュ―は、いっぱいなんだけれど・・・??? 「鳥」料理のオンパレード。
「ハンバーグには、鶏肉入っていませんね~?」「分かりません!」
・・・「豚肉の照り焼き、お願いします(-_-;)」
メニューには20種類近く書いてあるのに、鶏以外は1種類だけ・・・それもささみを添えてある・・・鶏はダメだと言ったのに~。
食後、元気なMFさんは、急行の停まる隣駅「新田辺まで歩こう」って、「どうぞ」。
お二人とも元気、ついて行けません。
やっとのことで電車に、途中、急行に乗り換えることも無く・・・京都駅まで、ぐったりと寝入ってしまいました。(^J^)
(A)佐牙神社(中宮寺の恵日寺跡) 一間社春日造りの本殿は左右2殿(右殿:佐牙弥豆男、左殿:佐牙弥豆男、ともに酒の神)からなっています。境内から飛鳥時代後期から平安時代に及ぶ瓦が出土していることから「三山木廃寺」があったことが分かっています。

(B)寿宝寺 藤井寺、唐招提寺の千手観音像とともに三大傑作?といわれる十一面千手千眼観音立像があるそうですが・・・
(C)山本駅跡 寿宝寺の門前に石碑があります。「続日本紀 巻第五 元明天皇」和銅四年(711)の条に「春正月二日 初めて都亭(※都の近く)の駅を設けた。・・・綴喜郡には山本駅、・・・」とあります。古代、山陰道・山陽道・東山道へと続く要所として設けられたのでしようか。

(D)飯岡の渡し場跡 対岸の玉水に木津川を渡る地点です。豊田翁の碑と並んで渡し場跡の石柱があります。ベンチが設けられていました。

(E)千貫岩 渡し場の前に大きな岩が露出しています。まわりには、ブロック状に剥離した石が転がっています。

(F)咋岡(くいおか)神社 境内には、スタジイの巨木と柿本人麻呂の歌碑「春草を馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は宿り過ぐるなり」があります。
拝殿内には、米寿を祝って(?)奉納された額がたくさん懸けられています。額に枡を模った木枠と棒(杵・斗掻き棒?)がつ いているのが特徴ですが、これは山城地方に伝わるならわしだそうで、八十八と書いて「米」、食べるのに困りませんように…との願いが込められているのだそうです。今は一合升だけど、古くは一升枡を用いたとのこと。

G)薬師山古墳 裾に残っている周濠等から帆立形では・・・って思いましたが円墳だそうです。継体大王の孫・櫻井王の塚? 墳頂部には薬師堂。
(H)ゴロゴロ山古墳 円墳。広い墳頂には盗掘抗が2ヶ所。墳丘上に拳から人頭大の葺石が残存。継体大王の子・椀子(まりこ)王の塚?

(I)蓮花寺跡
(J)車塚古墳 墳長90mの前方後円墳だということですが、茶畑となっており、墳形の確認すらできませんでした。
(K)穴山梅雪の墓 墓地のほぼ中央に五輪塔墓が3基並んでいます。甲州武田氏が滅亡後、徳川家康に降り、家康とともに泉州堺におり、本能寺の変の知らせを受け、1日遅れで家康と同じ道筋で帰国しようとしたのですが、当地・草内で討たれたそうな。

(L)咋岡神社(草内城跡) 15世紀、応仁の乱の頃の城跡です。境内の四周は土塁で囲まれており、南東隅には櫓台状の高まりがありました。また、北側土塁の内側に水を湛えた堀がありますが・・・往時の遺構かは不明です。むしろ土塁の外側の細い水路が堀の遺構かも・・・。

(M)法泉寺 弘安元年(1278)建立の大きな十三十の石塔(国の重文)があります。弘安元年、二度にわたって襲ってきた元寇のちょうど間ですね。
草むらから本尊(十一面観音)が現れたことから、当地を「草内」と呼ぶようになったそうな。また、旱魃の際、この本尊に祈願したところ清泉が湧き出したので法泉寺と号するようになったとか。

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雲一つない青空。桜が満開。
そんな日に近鉄「てくてくまっぷ」のルート図を参考に、SNSのMFさん・お二人と右往左往の一日でした。・・・・・・・・《事後談》日焼けしたのか、暑くて寝苦しい夜でした。
それでは、近鉄宮津駅をスタートです。
佐牙神社(A)に詣でたあと、三山木小学校・遠藤川の桜並木を横に見て、区画整理事業で整然となったJR・近鉄三山木駅をスルーして寿宝寺(B)へ。
現生には期待するご利益もないことから十一面観音菩薩様にはご挨拶をすることもなく、門前の山本駅跡(C)の石碑に失望しつつ、田園風景の長閑な景色の中を「暑い、暑い」と言いながらひたすら歩き、木津川の堤防上にある飯岡の渡し場跡(D)でノドを潤す。
MFさんから、「あの岩、なあ~に?」と尋ねられても、ブロック状にきれいな割れ『め』をしていることから「溶岩が急に冷えてできた安山岩」(E)と思いつつも、周りには、それ以外の岩頭はなく、即答するだけの自信がありません。
渡し場跡碑を探し出したMFさんたちの後ろをついていきます。
隣の墓石? 洪水や旱魃から田畑を守るため資材を擲って河川改修した豊田武部兵衛翁の顕彰碑。
スダジイの巨木をもつ咋岡神社(F)、櫻井王令穿七井戸のひとつを観て飯岡古墳群の薬師山古墳(G)に出ました。
茶畑の丘陵には、古墳が散在しています。
ゴロゴロ山古墳(H)を降りて、もうひとつの七井があるところ、蓮花寺跡(I)付近で道を見失い、薬師山古墳の墳丘裾まで戻って、再スタート。
先刻の蓮花寺跡を通って車塚古墳(J)の石柱に辿り着く。ここの前の墓地には、穴山梅雪の墓(K)がある。
さすがに、道を間違うと疲れが出てきて、言葉も少なく、正午も過ぎたこともあり、只々、昼食のことを思いながら・・・歩く、歩く。
あの森が咋岡神社(L)・・・暑さと空腹と疲労で、譫言を言ったのではありません。Fと同名の神社です。草路城跡とか。土塁・隅櫓台を確認。堀?、何か変・・・。
ここで小休止のあと、斜め向かいの法泉寺(M)へ。十三重の石塔と端正な本堂が印象的でした。
「ここで終わり!」って、3人で確認しながら、足は食事に向かっていました。
坊賀川まで辿り着いたとき、『てくてくまっぷ』に書かれたゴール・新田辺駅ではなく、より近い興戸駅を選択。
で、駅に到着したものの、飲食できる店は?・・・ない? 勿論、コンビニは? あるわけない!
疲れ切った2人を置いて元気なMFが駅前の花屋さんへ・・・ラッキー、1軒だけ喫茶店があるとのこと。休みでないことを祈りながら急ぎ足。
『ヴィトリュ』 メニュ―は、いっぱいなんだけれど・・・??? 「鳥」料理のオンパレード。
「ハンバーグには、鶏肉入っていませんね~?」「分かりません!」
・・・「豚肉の照り焼き、お願いします(-_-;)」
メニューには20種類近く書いてあるのに、鶏以外は1種類だけ・・・それもささみを添えてある・・・鶏はダメだと言ったのに~。
食後、元気なMFさんは、急行の停まる隣駅「新田辺まで歩こう」って、「どうぞ」。
お二人とも元気、ついて行けません。
やっとのことで電車に、途中、急行に乗り換えることも無く・・・京都駅まで、ぐったりと寝入ってしまいました。(^J^)
(A)佐牙神社(中宮寺の恵日寺跡) 一間社春日造りの本殿は左右2殿(右殿:佐牙弥豆男、左殿:佐牙弥豆男、ともに酒の神)からなっています。境内から飛鳥時代後期から平安時代に及ぶ瓦が出土していることから「三山木廃寺」があったことが分かっています。
(B)寿宝寺 藤井寺、唐招提寺の千手観音像とともに三大傑作?といわれる十一面千手千眼観音立像があるそうですが・・・
(C)山本駅跡 寿宝寺の門前に石碑があります。「続日本紀 巻第五 元明天皇」和銅四年(711)の条に「春正月二日 初めて都亭(※都の近く)の駅を設けた。・・・綴喜郡には山本駅、・・・」とあります。古代、山陰道・山陽道・東山道へと続く要所として設けられたのでしようか。
(D)飯岡の渡し場跡 対岸の玉水に木津川を渡る地点です。豊田翁の碑と並んで渡し場跡の石柱があります。ベンチが設けられていました。
(E)千貫岩 渡し場の前に大きな岩が露出しています。まわりには、ブロック状に剥離した石が転がっています。
(F)咋岡(くいおか)神社 境内には、スタジイの巨木と柿本人麻呂の歌碑「春草を馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は宿り過ぐるなり」があります。
拝殿内には、米寿を祝って(?)奉納された額がたくさん懸けられています。額に枡を模った木枠と棒(杵・斗掻き棒?)がつ いているのが特徴ですが、これは山城地方に伝わるならわしだそうで、八十八と書いて「米」、食べるのに困りませんように…との願いが込められているのだそうです。今は一合升だけど、古くは一升枡を用いたとのこと。
G)薬師山古墳 裾に残っている周濠等から帆立形では・・・って思いましたが円墳だそうです。継体大王の孫・櫻井王の塚? 墳頂部には薬師堂。
(H)ゴロゴロ山古墳 円墳。広い墳頂には盗掘抗が2ヶ所。墳丘上に拳から人頭大の葺石が残存。継体大王の子・椀子(まりこ)王の塚?
(I)蓮花寺跡
(J)車塚古墳 墳長90mの前方後円墳だということですが、茶畑となっており、墳形の確認すらできませんでした。
(K)穴山梅雪の墓 墓地のほぼ中央に五輪塔墓が3基並んでいます。甲州武田氏が滅亡後、徳川家康に降り、家康とともに泉州堺におり、本能寺の変の知らせを受け、1日遅れで家康と同じ道筋で帰国しようとしたのですが、当地・草内で討たれたそうな。
(L)咋岡神社(草内城跡) 15世紀、応仁の乱の頃の城跡です。境内の四周は土塁で囲まれており、南東隅には櫓台状の高まりがありました。また、北側土塁の内側に水を湛えた堀がありますが・・・往時の遺構かは不明です。むしろ土塁の外側の細い水路が堀の遺構かも・・・。
(M)法泉寺 弘安元年(1278)建立の大きな十三十の石塔(国の重文)があります。弘安元年、二度にわたって襲ってきた元寇のちょうど間ですね。
草むらから本尊(十一面観音)が現れたことから、当地を「草内」と呼ぶようになったそうな。また、旱魃の際、この本尊に祈願したところ清泉が湧き出したので法泉寺と号するようになったとか。
2013年04月07日
東濃&奥尾張の城跡を訪ねて
毎年のように行く信州の通り道にあるのですが、高速道路を利用することから、最近はめったに立ち寄ることがなくなった岐阜県・愛知県の東部を2日間、岐阜県恵那市(A)と中津川市(B)の2山城と愛知県日進市(C)の平山城をゆっくりと散策してきました。
混雑前に高速道路に乗りたいと思い、少し早めに出発。
琵琶湖大橋を渡り、Wn・・・、熱気球が2機、「きょう、何かイベントがあるのかな~」って思いつつ、彦根ICから名神高速にオン。
北陸道の分岐までは少し混雑気味だったけれど順調に進み、虎渓山PAで小休止後、小牧JCT付近では満開の桜を楽しみつつ恵那ICで降り、城山の山麓にある藩主邸跡の歴史資料館に駐車。
太鼓櫓、表御門などが復元整備され、また藩校・知新館の正門が移築されています。

この日、岩村の城下では3月初めから1ヶ月に及ぶ「ひなまつり」。
「伝建地区」の家々では、通りに面した窓際に雛飾り。街の所々に「女城主」の旗差し。
天気が良ければ、整備の進んでいない山城を訪ねたかったのですが・・・。岩村城を登山中に霧雨が・・・で、急遽、2つ目の探訪先を整備された苗木城に変更。山腹の資料館を見学しているうちにすっかり雨も止み、爽快な気分で訪ね歩くことが出来ました。
それでは、・・・
(A)岩村城

日本三大山城っていう割には城下からの比高差がわずか170mほど。資料館から緩やかな坂道を登って行くと、やがて道はアスファルトは石畳みに。ほどなく「一之門」を過ぎ「大手門」の高石垣が現れてきました。

屈んで石材を観ていると、なんとなく『気配』が・・・後ろを振り返っても誰もいない。「誰かいる・・・」と思いつつも石を観察。
「Wn・・・?」。ま、ま、ま上、石垣の上。頭上3mほどのところ、カモシカです。微動だにせず。
カメラを構えたのですが、近すぎて全身が入らないので、後ろに下がってパチリ。動かない、こちらをジーと見ています。

数枚、撮った後、坂を少し登り石垣の上に・・・カモシカは?
ゆっくりと移動し郭の端まで行って、木の影から暫くこちらを見ていましたが、やがて藪の中に消えていきました。

これまで何度もカモシカを見たことがあるのですが、これほど近く、鼻息が感じられるほどの至近距離での遭遇は初めてでした。
ここから石垣を持つ郭が本丸まで続いています。
時々、深い山霧が襲ってくる。霧が良く出ることから、岩村城は別名「霧ケ城」と呼ばれているそうな。

圧巻なのは、本丸の北東側の石垣。雛段状に6段の石垣は、長方形の石材を交互に組み合わせた落とし積み技法で築かれており、織豊期のものではなく、後年に再構築されたものではないかと推測。とくに、側面から観ると、最上段まで一気に築いた高石垣を補強するかのように、その前面に2段目、3段目と順に低く築かれたことが分かります。

織田vs武田の争奪戦が繰り広げられた往時を偲ぶに十分な遺構でした。
石垣も素晴らしいのだけれど、もう少し展望があると、もっと素晴らしい絵になるのでは・・・。
なお、本丸直下の出丸までクルマで上がることができます。
(B)苗木城
雨に備えてリストアップしていた予備の城跡なのですが、意外や意外、岩村城以上に好感を持ちました。 十数キロしか離れていない岩村城との差は、PR不足(下手?)のため認知度が低いこと。
山腹の「遠山史料館」で縄張図をいただき、ルートを確認。館員さんから勧められたとおり、資料館の裏道をクルマで少し上った所にある「三の丸」下の「竹門」跡の前に駐車。
ここ「竹門」・「足軽長屋」跡から、ほぼ水平に移動。こちらは子供でも楽に上れそうです(^J^)
さて、「歩いた。」って言うほどの距離もなく、山腹をまわると眼前に岩山とその上に組まれた展望台(懸造りの柱)、手前左(北方向)の「三の丸」に「大矢倉」の重箱積み石垣。3階造りの櫓遺構は、石垣に大きな自然石を取り入れ、必要最小限の加工を施した上に石や柱を組んだ様子が容易に想定できます。


「千石井戸」、「大門」に入ると谷側に書院や藩主住居跡の礎石が残る「二の丸」。そして、石段を上ると「天守台」に出ます。「二の丸」と「天守台」の間は石垣ではなく自然石を上手く利用しています。 「天守台」のひときわ高く大きな石の上に柱で組まれた展望台がありました。
往時は、懸造りの建物があったようです。
柱は、石の所々を加工して平坦になった上に載せてありました。


木曽川に張り出すような山上に造られた城からは、生憎の天気で恵那山の山頂は見えませんでしたが、それでも東から南・西へと流れる木曽川をはじめ四周の素晴らしい展望です。

下山は、自然石の上に建つ天守台の下をぐるりと一周してから帰路に着きました。
岩村城に訪れた際には、ここにも足を延ばしたい必見の城跡だとの、また、東濃にある未踏の城跡を訪ねてみたいとの思いを強くしました。
(C)岩崎城
昨秋、小牧城を訪ねて以来、気になっていた城跡です。小牧・長久手の戦いの最南端。
市街地にある市民の憩いの森(小山)になっています。この日も保育園児をはじめたくさんの家族連れが訪れていました。
駐車場のすぐ脇には大きな空堀(空堀の延長を駐車場として活用している?)

「二の丸」裾を回り込むように造られた散策路により東側から「二の丸」に入城。この途中、一番きつくなったカーブの「二の丸」と反対側、少し気になって藪の中に入ってみました。北東~東に20~30cmの土塁状の高まりがありますので、「出郭」の遺構でしようか。であれば、この「出郭」と「二の丸」の間の散策路は堀切?

さて、「二ノ丸」との説明があり作庭されていますが、R部に土塁を構えた半月状の平面、後ろの主郭との間は大きな堀と土橋から、大きな「馬出」遺構ではないかと推定されます。
「二の丸」から箱堀を土橋で渡ると北側を土塁で守られた天守台の南東部に模擬天守がありました。晴天のこの日、南方向の展望が開けていました。

先ほどの土塁の西部分に櫓台がありますので、往時は、ここに見張り台があったのでしようか・・・?
現在、天守台の下には大手門や高石垣がありますが、これらは往時には無く、公園として整備するにあたって新たに造作されたものでしようか。この日、天守台にある資料館は休みで確認できませんでした。

なお、天守台の西部に整備中に発見された「岩崎城古墳」、両袖式の石室が保存されていました。天井石はありません。

(D)おまけ~「長久手古戦場」跡にも立ち寄りました。
40年ほど前の学生時代、先輩諸氏の反対を押し切って催行したロードワンデリングの試み。
名古屋・東山から歩いて来た。当時の竹藪と灌木は全く無く、住宅地に隣接した街の公園に変わっていました。
「古戦場碑」と池田恒興が戦死した場所といわれる「勝入塚」(入道した恒興の法名)があります。

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混雑前に高速道路に乗りたいと思い、少し早めに出発。
琵琶湖大橋を渡り、Wn・・・、熱気球が2機、「きょう、何かイベントがあるのかな~」って思いつつ、彦根ICから名神高速にオン。
北陸道の分岐までは少し混雑気味だったけれど順調に進み、虎渓山PAで小休止後、小牧JCT付近では満開の桜を楽しみつつ恵那ICで降り、城山の山麓にある藩主邸跡の歴史資料館に駐車。
太鼓櫓、表御門などが復元整備され、また藩校・知新館の正門が移築されています。
この日、岩村の城下では3月初めから1ヶ月に及ぶ「ひなまつり」。
「伝建地区」の家々では、通りに面した窓際に雛飾り。街の所々に「女城主」の旗差し。
天気が良ければ、整備の進んでいない山城を訪ねたかったのですが・・・。岩村城を登山中に霧雨が・・・で、急遽、2つ目の探訪先を整備された苗木城に変更。山腹の資料館を見学しているうちにすっかり雨も止み、爽快な気分で訪ね歩くことが出来ました。
それでは、・・・
(A)岩村城
日本三大山城っていう割には城下からの比高差がわずか170mほど。資料館から緩やかな坂道を登って行くと、やがて道はアスファルトは石畳みに。ほどなく「一之門」を過ぎ「大手門」の高石垣が現れてきました。
屈んで石材を観ていると、なんとなく『気配』が・・・後ろを振り返っても誰もいない。「誰かいる・・・」と思いつつも石を観察。
「Wn・・・?」。ま、ま、ま上、石垣の上。頭上3mほどのところ、カモシカです。微動だにせず。
カメラを構えたのですが、近すぎて全身が入らないので、後ろに下がってパチリ。動かない、こちらをジーと見ています。
数枚、撮った後、坂を少し登り石垣の上に・・・カモシカは?
ゆっくりと移動し郭の端まで行って、木の影から暫くこちらを見ていましたが、やがて藪の中に消えていきました。
これまで何度もカモシカを見たことがあるのですが、これほど近く、鼻息が感じられるほどの至近距離での遭遇は初めてでした。
ここから石垣を持つ郭が本丸まで続いています。
時々、深い山霧が襲ってくる。霧が良く出ることから、岩村城は別名「霧ケ城」と呼ばれているそうな。
圧巻なのは、本丸の北東側の石垣。雛段状に6段の石垣は、長方形の石材を交互に組み合わせた落とし積み技法で築かれており、織豊期のものではなく、後年に再構築されたものではないかと推測。とくに、側面から観ると、最上段まで一気に築いた高石垣を補強するかのように、その前面に2段目、3段目と順に低く築かれたことが分かります。
織田vs武田の争奪戦が繰り広げられた往時を偲ぶに十分な遺構でした。
石垣も素晴らしいのだけれど、もう少し展望があると、もっと素晴らしい絵になるのでは・・・。
なお、本丸直下の出丸までクルマで上がることができます。
(B)苗木城
雨に備えてリストアップしていた予備の城跡なのですが、意外や意外、岩村城以上に好感を持ちました。 十数キロしか離れていない岩村城との差は、PR不足(下手?)のため認知度が低いこと。
山腹の「遠山史料館」で縄張図をいただき、ルートを確認。館員さんから勧められたとおり、資料館の裏道をクルマで少し上った所にある「三の丸」下の「竹門」跡の前に駐車。
ここ「竹門」・「足軽長屋」跡から、ほぼ水平に移動。こちらは子供でも楽に上れそうです(^J^)
さて、「歩いた。」って言うほどの距離もなく、山腹をまわると眼前に岩山とその上に組まれた展望台(懸造りの柱)、手前左(北方向)の「三の丸」に「大矢倉」の重箱積み石垣。3階造りの櫓遺構は、石垣に大きな自然石を取り入れ、必要最小限の加工を施した上に石や柱を組んだ様子が容易に想定できます。
「千石井戸」、「大門」に入ると谷側に書院や藩主住居跡の礎石が残る「二の丸」。そして、石段を上ると「天守台」に出ます。「二の丸」と「天守台」の間は石垣ではなく自然石を上手く利用しています。 「天守台」のひときわ高く大きな石の上に柱で組まれた展望台がありました。
往時は、懸造りの建物があったようです。
柱は、石の所々を加工して平坦になった上に載せてありました。
木曽川に張り出すような山上に造られた城からは、生憎の天気で恵那山の山頂は見えませんでしたが、それでも東から南・西へと流れる木曽川をはじめ四周の素晴らしい展望です。
下山は、自然石の上に建つ天守台の下をぐるりと一周してから帰路に着きました。
岩村城に訪れた際には、ここにも足を延ばしたい必見の城跡だとの、また、東濃にある未踏の城跡を訪ねてみたいとの思いを強くしました。
(C)岩崎城
昨秋、小牧城を訪ねて以来、気になっていた城跡です。小牧・長久手の戦いの最南端。
市街地にある市民の憩いの森(小山)になっています。この日も保育園児をはじめたくさんの家族連れが訪れていました。
駐車場のすぐ脇には大きな空堀(空堀の延長を駐車場として活用している?)
「二の丸」裾を回り込むように造られた散策路により東側から「二の丸」に入城。この途中、一番きつくなったカーブの「二の丸」と反対側、少し気になって藪の中に入ってみました。北東~東に20~30cmの土塁状の高まりがありますので、「出郭」の遺構でしようか。であれば、この「出郭」と「二の丸」の間の散策路は堀切?
さて、「二ノ丸」との説明があり作庭されていますが、R部に土塁を構えた半月状の平面、後ろの主郭との間は大きな堀と土橋から、大きな「馬出」遺構ではないかと推定されます。
「二の丸」から箱堀を土橋で渡ると北側を土塁で守られた天守台の南東部に模擬天守がありました。晴天のこの日、南方向の展望が開けていました。
先ほどの土塁の西部分に櫓台がありますので、往時は、ここに見張り台があったのでしようか・・・?
現在、天守台の下には大手門や高石垣がありますが、これらは往時には無く、公園として整備するにあたって新たに造作されたものでしようか。この日、天守台にある資料館は休みで確認できませんでした。
なお、天守台の西部に整備中に発見された「岩崎城古墳」、両袖式の石室が保存されていました。天井石はありません。
(D)おまけ~「長久手古戦場」跡にも立ち寄りました。
40年ほど前の学生時代、先輩諸氏の反対を押し切って催行したロードワンデリングの試み。
名古屋・東山から歩いて来た。当時の竹藪と灌木は全く無く、住宅地に隣接した街の公園に変わっていました。
「古戦場碑」と池田恒興が戦死した場所といわれる「勝入塚」(入道した恒興の法名)があります。
2013年04月04日
「四国・7泊8日 徘徊の記」(その8)
(土佐編Ⅱ&阿波編)
3月23日 R南国市⇒S三好市⇒T美馬市⇒U吉野川市⇒大津市
疲れが相当たまっていること、明日の午後は小雨?等々で、探訪を打ち上げて帰宅を決定。
で、午前中は南国市内、午後は吉野川沿いの遺跡を見て(ほとんどが再訪)、夕刻にICから高速に入りました。これまでは休憩を取ることもなく所要時間3時間強で帰宅していたのですが、さすがに疲れていたのか2回も休憩し5時間近くもかかりました。
高速に入る前、いつもの「こんせん(うどん屋)」で腹ごしらえしました(^o^)
R①讃岐国分寺:四国八十八ヶ所第二十九番札所。「歩き遍路」のお嬢さんと談笑。今治を出てから3週間かけて辿り着いたとか。日焼けした明るく元気な表情に反して、右足を引きずるように歩く後ろ姿に、ここまでの道の険しさを覗い知ることができました。

R②国庁(国衙)跡・国司館跡(紀貫之邸跡):奈良・平安時代、土佐の国衙が置かれ、紀貫之も国司として赴任し、その勤めを終えて帰京した際の事象を綴ったのが「土佐日記」。田園の中の「紀貫之邸跡」。


R③比江山城跡・比江山神社・比江廃寺:長宗我部氏が築いた岡豊城の外城。天守台、土塁、空堀、三段ほどの郭跡が残る。なお、比江山の名は、京都から赴任した国司が故郷の比叡山を偲んで名付けたそうです。

R③長畝古墳・小蓮古墳:前者は高知自動車道の建設に伴い移設されたもの。「はなもも」が満開でした。後者は、竹林の中の単独墳。六世紀後半の円墳で大きな石室が開口。「土佐の三大古墳」に数えられている。ただし、石室内の側壁は、今にも崩れそうなので立入禁止。

R④岡豊城跡:③の南東500mほどの所にある長宗我部元親の居城。詰の段の主郭部をはじめ二ノ段、三ノ段、四ノ段の曲輪と出丸を配し、石垣、土塁、空堀、竪堀などの遺構が残存。城内、には県立歴史博物館もある。桜が満開。
S⑤中央構造線(太刀野):徳島県・吉野川中流域の北岸で、ユーラシアプレートvsフィリピンプレート(の付加体)がぶつかっているその姿・三波川変成岩と和泉層群の境界断層(三野断層)の露頭を、直接、見ることができる。
T⑥脇人神社・脇城跡・東林寺;阿波武田氏関連の史跡です。
脇城はブッシュが酷く、全容の把握は困難・・・。
東林寺は、先年の大修理ですっかり変貌し、クルマでも楽に入れるようになっていました。


U⑦阿波和紙伝統産業会館・川島城跡:時間の都合で土佐和紙を見れなかったので、帰路の途中にある産業会館に立ち寄りました。ここでは、ガラス越しに作業をみたり漉きの体験もできます。川島城の往時の主郭は、同じ山塊の西端にあったとのことで、現在の模擬天守とは異なる場所にあったとか。往時は、砦?
城山からは北側の眼下を流れる吉野川をはじめ360度、展望できました。


今回の総走行キロ:1412km 続きを読む
3月23日 R南国市⇒S三好市⇒T美馬市⇒U吉野川市⇒大津市
疲れが相当たまっていること、明日の午後は小雨?等々で、探訪を打ち上げて帰宅を決定。
で、午前中は南国市内、午後は吉野川沿いの遺跡を見て(ほとんどが再訪)、夕刻にICから高速に入りました。これまでは休憩を取ることもなく所要時間3時間強で帰宅していたのですが、さすがに疲れていたのか2回も休憩し5時間近くもかかりました。
高速に入る前、いつもの「こんせん(うどん屋)」で腹ごしらえしました(^o^)
R①讃岐国分寺:四国八十八ヶ所第二十九番札所。「歩き遍路」のお嬢さんと談笑。今治を出てから3週間かけて辿り着いたとか。日焼けした明るく元気な表情に反して、右足を引きずるように歩く後ろ姿に、ここまでの道の険しさを覗い知ることができました。
R②国庁(国衙)跡・国司館跡(紀貫之邸跡):奈良・平安時代、土佐の国衙が置かれ、紀貫之も国司として赴任し、その勤めを終えて帰京した際の事象を綴ったのが「土佐日記」。田園の中の「紀貫之邸跡」。
R③比江山城跡・比江山神社・比江廃寺:長宗我部氏が築いた岡豊城の外城。天守台、土塁、空堀、三段ほどの郭跡が残る。なお、比江山の名は、京都から赴任した国司が故郷の比叡山を偲んで名付けたそうです。
R③長畝古墳・小蓮古墳:前者は高知自動車道の建設に伴い移設されたもの。「はなもも」が満開でした。後者は、竹林の中の単独墳。六世紀後半の円墳で大きな石室が開口。「土佐の三大古墳」に数えられている。ただし、石室内の側壁は、今にも崩れそうなので立入禁止。
R④岡豊城跡:③の南東500mほどの所にある長宗我部元親の居城。詰の段の主郭部をはじめ二ノ段、三ノ段、四ノ段の曲輪と出丸を配し、石垣、土塁、空堀、竪堀などの遺構が残存。城内、には県立歴史博物館もある。桜が満開。
S⑤中央構造線(太刀野):徳島県・吉野川中流域の北岸で、ユーラシアプレートvsフィリピンプレート(の付加体)がぶつかっているその姿・三波川変成岩と和泉層群の境界断層(三野断層)の露頭を、直接、見ることができる。
T⑥脇人神社・脇城跡・東林寺;阿波武田氏関連の史跡です。
脇城はブッシュが酷く、全容の把握は困難・・・。
東林寺は、先年の大修理ですっかり変貌し、クルマでも楽に入れるようになっていました。
U⑦阿波和紙伝統産業会館・川島城跡:時間の都合で土佐和紙を見れなかったので、帰路の途中にある産業会館に立ち寄りました。ここでは、ガラス越しに作業をみたり漉きの体験もできます。川島城の往時の主郭は、同じ山塊の西端にあったとのことで、現在の模擬天守とは異なる場所にあったとか。往時は、砦?
城山からは北側の眼下を流れる吉野川をはじめ360度、展望できました。
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2013年04月04日
「四国・7泊8日 徘徊の記」(その7)
(伊予編Ⅳ&土佐編Ⅰ)
3月22日N宇和島市⇒O鬼北町⇒P松野町⇒Q南国市・泊
早朝登山の人達と一緒に宇和島城へ。こちらも石垣の崩落が多く、ブルーシートで覆われたところが数ヶ所。大規模な修復が行なわれているところも・・・で、通行禁止箇所もありました。天守台には仮設のピケを登るようになっていました。
体調不良であることを考え、足摺方面は止めて、高知への短絡路を選択。途中、河後森城跡へ。発掘調査中。安土城で研修した技師さんが担当していました。安土城の発掘調査を担当したKさんが指導のために来ていたが、今朝、帰られたとか・・・。
ひたすら、龍馬が脱藩したときの檮原街道を逆に辿って山を越えて土佐入り。
忘れず10ヶ500円(安い!)の「文旦」も手に入れ、久し振りに土佐一の宮・土佐神社に詣でたあと、埋文センターにて、この3月にできたばかりに遺跡分布地図をゲット。もちろん泊は、南国市。古代から中世、土佐の中心地はここなのです。紀貫之が勤めた国庁(国衙)、国分寺、四国を制覇した長宗我部氏の岡豊城、古墳、弥生遺跡もたくさん・・・。
N①宇和島城:天守などの一部を除き藤堂高虎の普請によるものです。
ちなみに、藤堂高虎は、滋賀県(甲良)の人。今回の探訪関係では、宇和島⇒大洲⇒今治の順に築城。


O②岩屋遺跡:縄文後期の環状列石や組石を配した祭祀遺構の見学ができます。

P③河後森城:発掘調査&整備中です。山城の築造過程が見学者に分かるような復元整備が進められており、遺跡・遺構の整備の在り方について新たな試みがみられ好感を持ちました。

Q④土佐神社:土佐一の宮。

R⑤高知県埋蔵文化財調査センター
ホテルは目の前。きょうは、早々と17時過ぎのチェック・イン(^J^)
眼下には、土佐の故地が拡がっています。 続きを読む
3月22日N宇和島市⇒O鬼北町⇒P松野町⇒Q南国市・泊
早朝登山の人達と一緒に宇和島城へ。こちらも石垣の崩落が多く、ブルーシートで覆われたところが数ヶ所。大規模な修復が行なわれているところも・・・で、通行禁止箇所もありました。天守台には仮設のピケを登るようになっていました。
体調不良であることを考え、足摺方面は止めて、高知への短絡路を選択。途中、河後森城跡へ。発掘調査中。安土城で研修した技師さんが担当していました。安土城の発掘調査を担当したKさんが指導のために来ていたが、今朝、帰られたとか・・・。
ひたすら、龍馬が脱藩したときの檮原街道を逆に辿って山を越えて土佐入り。
忘れず10ヶ500円(安い!)の「文旦」も手に入れ、久し振りに土佐一の宮・土佐神社に詣でたあと、埋文センターにて、この3月にできたばかりに遺跡分布地図をゲット。もちろん泊は、南国市。古代から中世、土佐の中心地はここなのです。紀貫之が勤めた国庁(国衙)、国分寺、四国を制覇した長宗我部氏の岡豊城、古墳、弥生遺跡もたくさん・・・。
N①宇和島城:天守などの一部を除き藤堂高虎の普請によるものです。
ちなみに、藤堂高虎は、滋賀県(甲良)の人。今回の探訪関係では、宇和島⇒大洲⇒今治の順に築城。
O②岩屋遺跡:縄文後期の環状列石や組石を配した祭祀遺構の見学ができます。
P③河後森城:発掘調査&整備中です。山城の築造過程が見学者に分かるような復元整備が進められており、遺跡・遺構の整備の在り方について新たな試みがみられ好感を持ちました。
Q④土佐神社:土佐一の宮。
R⑤高知県埋蔵文化財調査センター
ホテルは目の前。きょうは、早々と17時過ぎのチェック・イン(^J^)
眼下には、土佐の故地が拡がっています。 続きを読む
2013年04月04日
「四国・7泊8日 徘徊の記」(その6)
(伊予編Ⅲ)
3月21日K松山市⇒松前町⇒L伊方町⇒M大洲市⇒N宇和島市・泊
いつものように、朝食を済ませたあと、市内を散策した後、これまで未踏だった四国の最西端・佐田岬へ。
ここは中央構造線上。
そうです、わたしと遺跡巡りをされた方なら良くご存知。わたしが大好きな「緑色泥岩(片岩)」の大きな露頭が・・・
時間を費やし過ぎましたが、遅くなった昼食に名物「しらす丼」を食し、「シラスって、こんなに美味しかった?」で、大満足(^J^)
大洲城では崩れた石垣の修復に先立つ調査が行われていましたが、写真は勿論、見学も拒否されました・・・こんな経験、今までなかった(笑)
滋賀県民たる者、忘れてはならない中江藤樹宅跡に・・・17時!
①旧制松山高校講堂:「先日、耐震工事が終わったところ」とのこと。綺麗に化粧されていました。守衛さんにお断りして見学、そして寮歌『若葉の古城』を高歌放吟「若葉の古城上り来て 空しく更くる青春を 我声低く誦する時 思ひは遠き故郷の 御空に光る星七つ 啓示の色に冴ゆるかな~」

②湯築城跡:道後温泉にあるのですが、城跡であることを知ったのは数年前。土塁と二重の堀で囲まれているものの、防御は・・・甘い?

西を望めば、山上に松山城。

③松前城跡:加藤嘉明が松山城に移る前、伊予国の最初に居城。遺構は残っておらず、唯一、石碑で城跡だと分かる。
④佐田岬:瀬戸内の島々、中国地方、やがて九州・・・と移り変わる車窓の風景と近づく者を圧倒する場違いな風力発電のブレード群。四国唯一の原発もここにあります。先端の灯台付近の崖、浜には中央構造線に観られる緑色泥岩の大きな露頭と青海のコントラストが・・・キレイ。
九州は、目前。


⑤大洲城:梯郭式平山城・複合連結式層塔型。ここも藤堂高虎が今治に移る前に築城したもの。近年、市民の寄贈により木造天守を復元。現在、西二の丸石垣の一部が崩落により復元整備に先がけて発掘調査中。

⑥中江藤樹宅跡:大洲高校の構内。事務室で見学の了解を得るとともに、リーフレットをゲット。時間が時間なのですが、事務員の方は丁寧に対応してくださいました。ここにも石垣が・・・ということは、現在の市街地は、城内にすっぽり収まるのでしようか?
本日は、これまで・・・宇和島の宿へ。 続きを読む
3月21日K松山市⇒松前町⇒L伊方町⇒M大洲市⇒N宇和島市・泊
いつものように、朝食を済ませたあと、市内を散策した後、これまで未踏だった四国の最西端・佐田岬へ。
ここは中央構造線上。
そうです、わたしと遺跡巡りをされた方なら良くご存知。わたしが大好きな「緑色泥岩(片岩)」の大きな露頭が・・・
時間を費やし過ぎましたが、遅くなった昼食に名物「しらす丼」を食し、「シラスって、こんなに美味しかった?」で、大満足(^J^)
大洲城では崩れた石垣の修復に先立つ調査が行われていましたが、写真は勿論、見学も拒否されました・・・こんな経験、今までなかった(笑)
滋賀県民たる者、忘れてはならない中江藤樹宅跡に・・・17時!
①旧制松山高校講堂:「先日、耐震工事が終わったところ」とのこと。綺麗に化粧されていました。守衛さんにお断りして見学、そして寮歌『若葉の古城』を高歌放吟「若葉の古城上り来て 空しく更くる青春を 我声低く誦する時 思ひは遠き故郷の 御空に光る星七つ 啓示の色に冴ゆるかな~」
②湯築城跡:道後温泉にあるのですが、城跡であることを知ったのは数年前。土塁と二重の堀で囲まれているものの、防御は・・・甘い?
西を望めば、山上に松山城。
③松前城跡:加藤嘉明が松山城に移る前、伊予国の最初に居城。遺構は残っておらず、唯一、石碑で城跡だと分かる。
④佐田岬:瀬戸内の島々、中国地方、やがて九州・・・と移り変わる車窓の風景と近づく者を圧倒する場違いな風力発電のブレード群。四国唯一の原発もここにあります。先端の灯台付近の崖、浜には中央構造線に観られる緑色泥岩の大きな露頭と青海のコントラストが・・・キレイ。
九州は、目前。
⑤大洲城:梯郭式平山城・複合連結式層塔型。ここも藤堂高虎が今治に移る前に築城したもの。近年、市民の寄贈により木造天守を復元。現在、西二の丸石垣の一部が崩落により復元整備に先がけて発掘調査中。
⑥中江藤樹宅跡:大洲高校の構内。事務室で見学の了解を得るとともに、リーフレットをゲット。時間が時間なのですが、事務員の方は丁寧に対応してくださいました。ここにも石垣が・・・ということは、現在の市街地は、城内にすっぽり収まるのでしようか?
本日は、これまで・・・宇和島の宿へ。 続きを読む