2014年05月25日
古都逍遥・・・佐保路から奈良坂へ(その2)
多聞城、三好三人衆と組んで第13代将軍足利義輝を暗殺した松永久秀の平山城。 北の京都方を睨んで鹿瀬山城、西の大坂方には信貴山城、南は龍王山城、多聞城を取囲むかのように山城を配している。(※ 鹿瀬山城・龍王山城は既述。)
かつての武家屋敷跡なのか佐保川の北側は段丘上に民家が建つ。その間を抜けて若草中学校へ・・・、城跡の大部分は若草中学校の構内なので、「部外者は立入禁止」?
門前から眺めたあと、城下を一周することにした。
東大寺大仏殿の屋根や若草山を見ながら玉鐡稲荷神社を経由して佐保川沿いを進み、校舎とグランドの間にある大堀切に出る。城のある多聞山と善勝寺山を分断している。グランドの南沿いを東に善勝寺山を進む。
グランド東端、道側は絶壁。大堀切・グランド東端の間の南側にある林、気になって入ってみた。土塁状の高まり?と竪堀? 南麓に佐保川。
大堀切から城山の北にまわると呉竹町の住宅街。
ここは、南を城山に、北を尾根に挟まれた堀跡?
北側の尾根は、城山よりも高そう~、またまた気になって尾根を登ってみると、城山よりは高い。 城内が丸見え? この尾根に郭などを構築しなかったのかな~??
尾根北側の下に鴻池陸上競技場、幅広の尾根、東側は少年刑務所に続く。
尾根を下りて城山の西側に回る。
路地を通って佐保山南陵(聖武天皇)・同東陵(仁正皇太后)の間の堀切?を確認。
佐保山南陵の西麓に眉間寺跡石碑。
礎石のように見える割石、17石すべて流紋岩質溶結凝灰岩で、宇陀郡一帯に分布する室生火山岩?で、近年に搬入されたもの??
奈良地方気象台前を通り、南陵前に至る。
現在の陵墓参道は、かつての眉間寺参道を転用したもの。拝所から見える平坦地は、かつてあった近世・眉間寺の跡で陵墓は山頂にあるそうだ。
拝所東側の平坦地を抜け東陵へ・・・。
御陵前面の東側平坦地は、幕末の修陵で形成されたもので眉間寺伽藍とは無関係。 崩落したのか修復が行われている。 鹿出没。 こちらの様子を窺っているようで、近寄る気配なし。
再び、若草中学校へ・・・。
校内の城碑前で写真を撮っている人(中国人?)がいたので構内に入り、城碑と石仏群(発掘調査で出土、石垣に使われていた?)を確認。
・・・多聞城の建物は筒井順慶によって取り壊され、石材は筒井城に運ばれ、さらに郡山城に使われたという。
佐保公民館に立寄り、多聞城の資料を見せていただいた後、一条通りを東に進み転害門へ・・・。
観光案内所の親爺さんと暫し談笑。 多聞城の天守があった場所、中学校を造った時に数十mの削平で低くなった、とか・・・これで北の尾根より低くなったってことで納得。
転害門からR369を北上し、京街道を奈良坂方面に進む。
醤油の香り漂う向出醸造元、我が国最古の病院(ハンセン病患者のための救済施設)遺構である北山十八間戸、大正時代に建てられたレンガ造りの旧・奈良市水道計量器室、16世紀初めに作られたという夕日地蔵に掲げられた会津八一の歌「ならさかの いしのほとけのおとがひに こさめながるる はるはきにけり」、奈良で一番古い明治時代創業の上村牧場、均整のとれた端正な佇まいの般若寺楼門と鎌倉時代に東大寺再興のために来日していた宋の石工らによる重厚な十三重石塔、鹿煎餅を作っている武田商店を見つつ奈良豆比古神社に辿り着いた。
※ 1180年、平重衡が東大寺など南都を焼き払った際に、般若寺のすべての伽藍も焼失したそうな・・・。
奈良豆比古神社では謡曲や狂言の源流とも謂われている翁舞が奉納され、本殿裏の谷には樹齢1,000年とも謂われる楠(A4サイズの資料と大きさ比べてみると・・・)。
京街道に面して立つ復元・高札。
奈良坂資料館に気づかず素通りして奈保山東稜(元明天皇)。近道があったのか?・・・北から西にまわり南へ、ほぼ2/3周したような~。
県道を渡り、大仏鐡道路線跡を黒姫山方面に南進したあと戻り、西側の奈保山西陵(元正天皇)。
那富山墓を訪ねずに、喉かな田舎道を辿って、しかし急ぎ近鉄平城山駅。
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