2014年01月30日
近江の国・琵琶湖畔に佇む②
「春近し~」って覚えるほど暖かくなった日、唐崎の琵琶湖畔を歩いた。

西近江路(旧・国道161号)、唐崎神社の参道口にある日吉神社神馬假屋地の石碑。
山王祭の神馬が繋がれる場所。
江戸時代の古地図では、この場所に「山王一の鳥居」があり、横の小道が「山王神馬道」と記され、江戸時代の山王祭では、神はこの湖岸で「粟津の御供」をうけ神輿から神馬に乗換え日吉社帰還されたとのこと。
唐崎神社(滋賀県大津市。日吉大社摂社。祭神=女別当命)
JR湖西線・唐崎駅のほぼ真東、琵琶湖畔。

近江八景の一「唐崎の夜雨」の地。境内の松は、古来より琵琶湖畔の気高い松と知られ
多くの歌が詠まれてきた。
さざ波の志賀の唐崎さきくあれど 大宮人の船まちかねつ[万葉集・柿本人麻呂]
辛崎の松は花より朧にて[野ざらし紀行・松尾芭蕉]


以下、当該社のリーフレット(※一部改編)から、
【由緒】
舒明天皇5(633)年頃、日吉大社神職家の始祖・琴御館(ことのみたち)宇志丸(うしまる)が居住し、「唐崎」と名付けて松を植えたと伝わります。
天智天皇7(668)年、西本宮の大己貴神が奈良県大神神社より勧請された砌(みぎり)、湖上の漁舟から田中常世という者が神命を受けて唐崎の松の下にお送り申し上げ粟飯を供しました。これが日吉大社山王祭で行われる唐崎沖での「粟津の御供」神事の起源です。持統天皇11(697)年に宇志丸の妻君をご祭神として神社が創建されました。


【祓の霊場】
清少納言『枕草子』で「崎は唐崎」と第一に挙げられ、琵琶湖から難波まで淀川水系を辿る「七瀬之祓」初発の地です。 古来より王朝の大事に際して祓を行なう霊場で、夏越の祓を始め多くの姫君たちがお祓いをされて来ました。 女別当社とも呼ばれて女人の信仰が極めて篤く、殊に婦人病、下の病には著しいご霊徳が授けられます。 夏越の祓である「みたらし祭」には遠近より多くの参拝者があり、ご祈祷や「ちの輪」くぐりが終日行われ、湯立神楽や手筒花火等が奉納されます。

【みたらし団子守】
年中黒(苦労)が無いように、5色のうち青黄赤白の米団子が竹串に付けられ、女神様に供されます。 湯立神楽で散らせされる湯しぶきを模した団子は祓え・清めの霊力を宿し、厄魔を退散させます。 玄関や居間にまつり病魔を除け、家内安全を祈るお守りです。
【ちの輪守】
水を浄化する茅萱・真菰で作られた「ちの輪」は、諸々の罪けがれを祓う不浄除けのしるしとされ、古くから祓えに用いられてきました。「みたらし祭」の「ちの輪」くぐりはもちろんトイレに祀れば、下の病や婦人病、夜尿症にも霊験ありとされます。
とのことで、拝殿には「みたらし団子守」と「ちの輪守」の案内があった。

鳥居前の『かぎや』さんにも1皿3本・300円で、こちらには良くある焼立ての「みたらし団子」。

この日、平日だというに参拝者はチラホラあり、また松の木の手入れが行なわれていた。
なお、境内には滋賀県の案内板に、
唐崎は古くから景勝の地として数々の古歌などに取り上げられ、また、日吉大社西本宮にかかわる信仰や祭礼の場としても知られてきました。加えて「近江八景」の一つ「唐崎の夜雨」の老松との景観は、天下の名勝としてしばしば安藤広重らの浮世絵などにも取り上げられてきました。 現在、境内の中程に位置する松は三代目の松で大正十年に枯死した二代目の松にかわって、その実成木を近くの駒繋ぎ場から移植したもので、樹齢は150年から200年と推定されています。また、二代目の松は、天正9(1581)年に大風で倒れた一代目にかわり、同19年に新庄駿河守らが良木を求めて植え替えたもので、幹周囲9mに及び、枝を多数の支柱に支えられた天下の名木として知られていました。今も境内の各所に残る枝を支えた石組みや支柱の礎石が往時の雄大さを偲ばせています。 現在の唐崎は、史上に見える景観ではないものの、湖上に突き出た岬状の地形と老松が織りなす景観は今なお優れており、その歴史的由緒と「近江八景」を具体的に体現できる数少ない場の一つとして貴重といえます。 なお、当地は平安時代からの大祓の場と考えられ大津市の史跡にも指定されています。
とあり、隣りの大津市の案内板には、
韓崎、辛崎、可楽崎などの字をあてる場合もありますが、「万葉集」にもあらわれる大津京時代からの地名です。 古くは、湖上交通の湊と考えられ、平安時代には、天皇の災厄をはらう「七瀬祓所」の一つとして重視されました。「枕草子」に湖畔の名勝として紹介され、室町時代の終わりに「近江八景」が選定されると、その一つ「唐崎の夜雨」の舞台となりました。 この地に残る松は、日吉大社西本宮の御鎮座とも深いかかわりがあり、唐崎の一本松と呼ばれ多くの人々に親しまれました。・・・。


神社湖岸の波打ち際まで出て、北隣の県営都市公園:湖岸緑地「唐崎苑」に入る。
ここには、駐車場ガあり
8:30~17:00まで利用できる。
この「唐崎苑」、昭和10年にオランダ人が別荘を建てた跡地で、京都城南宮を作庭した中根金作の最後の庭とのこと。

北隣りに同志社大学ヨット部。
JR湖西線の見えるところまで西に足を延ばし、本日の散策は終了。
雲ひとつなく比叡山の稜線がはっきりと見えた。その前面に壺笠山。
元亀の争乱の際、浅井・朝倉軍が立て籠もった山城であり山頂に石垣が残っている。
また、そこは4C頃の古墳でもある。

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西近江路(旧・国道161号)、唐崎神社の参道口にある日吉神社神馬假屋地の石碑。
山王祭の神馬が繋がれる場所。
江戸時代の古地図では、この場所に「山王一の鳥居」があり、横の小道が「山王神馬道」と記され、江戸時代の山王祭では、神はこの湖岸で「粟津の御供」をうけ神輿から神馬に乗換え日吉社帰還されたとのこと。
唐崎神社(滋賀県大津市。日吉大社摂社。祭神=女別当命)
JR湖西線・唐崎駅のほぼ真東、琵琶湖畔。
近江八景の一「唐崎の夜雨」の地。境内の松は、古来より琵琶湖畔の気高い松と知られ
多くの歌が詠まれてきた。
さざ波の志賀の唐崎さきくあれど 大宮人の船まちかねつ[万葉集・柿本人麻呂]
辛崎の松は花より朧にて[野ざらし紀行・松尾芭蕉]
以下、当該社のリーフレット(※一部改編)から、
【由緒】
舒明天皇5(633)年頃、日吉大社神職家の始祖・琴御館(ことのみたち)宇志丸(うしまる)が居住し、「唐崎」と名付けて松を植えたと伝わります。
天智天皇7(668)年、西本宮の大己貴神が奈良県大神神社より勧請された砌(みぎり)、湖上の漁舟から田中常世という者が神命を受けて唐崎の松の下にお送り申し上げ粟飯を供しました。これが日吉大社山王祭で行われる唐崎沖での「粟津の御供」神事の起源です。持統天皇11(697)年に宇志丸の妻君をご祭神として神社が創建されました。
【祓の霊場】
清少納言『枕草子』で「崎は唐崎」と第一に挙げられ、琵琶湖から難波まで淀川水系を辿る「七瀬之祓」初発の地です。 古来より王朝の大事に際して祓を行なう霊場で、夏越の祓を始め多くの姫君たちがお祓いをされて来ました。 女別当社とも呼ばれて女人の信仰が極めて篤く、殊に婦人病、下の病には著しいご霊徳が授けられます。 夏越の祓である「みたらし祭」には遠近より多くの参拝者があり、ご祈祷や「ちの輪」くぐりが終日行われ、湯立神楽や手筒花火等が奉納されます。
【みたらし団子守】
年中黒(苦労)が無いように、5色のうち青黄赤白の米団子が竹串に付けられ、女神様に供されます。 湯立神楽で散らせされる湯しぶきを模した団子は祓え・清めの霊力を宿し、厄魔を退散させます。 玄関や居間にまつり病魔を除け、家内安全を祈るお守りです。
【ちの輪守】
水を浄化する茅萱・真菰で作られた「ちの輪」は、諸々の罪けがれを祓う不浄除けのしるしとされ、古くから祓えに用いられてきました。「みたらし祭」の「ちの輪」くぐりはもちろんトイレに祀れば、下の病や婦人病、夜尿症にも霊験ありとされます。
とのことで、拝殿には「みたらし団子守」と「ちの輪守」の案内があった。
鳥居前の『かぎや』さんにも1皿3本・300円で、こちらには良くある焼立ての「みたらし団子」。
この日、平日だというに参拝者はチラホラあり、また松の木の手入れが行なわれていた。
なお、境内には滋賀県の案内板に、
唐崎は古くから景勝の地として数々の古歌などに取り上げられ、また、日吉大社西本宮にかかわる信仰や祭礼の場としても知られてきました。加えて「近江八景」の一つ「唐崎の夜雨」の老松との景観は、天下の名勝としてしばしば安藤広重らの浮世絵などにも取り上げられてきました。 現在、境内の中程に位置する松は三代目の松で大正十年に枯死した二代目の松にかわって、その実成木を近くの駒繋ぎ場から移植したもので、樹齢は150年から200年と推定されています。また、二代目の松は、天正9(1581)年に大風で倒れた一代目にかわり、同19年に新庄駿河守らが良木を求めて植え替えたもので、幹周囲9mに及び、枝を多数の支柱に支えられた天下の名木として知られていました。今も境内の各所に残る枝を支えた石組みや支柱の礎石が往時の雄大さを偲ばせています。 現在の唐崎は、史上に見える景観ではないものの、湖上に突き出た岬状の地形と老松が織りなす景観は今なお優れており、その歴史的由緒と「近江八景」を具体的に体現できる数少ない場の一つとして貴重といえます。 なお、当地は平安時代からの大祓の場と考えられ大津市の史跡にも指定されています。
とあり、隣りの大津市の案内板には、
韓崎、辛崎、可楽崎などの字をあてる場合もありますが、「万葉集」にもあらわれる大津京時代からの地名です。 古くは、湖上交通の湊と考えられ、平安時代には、天皇の災厄をはらう「七瀬祓所」の一つとして重視されました。「枕草子」に湖畔の名勝として紹介され、室町時代の終わりに「近江八景」が選定されると、その一つ「唐崎の夜雨」の舞台となりました。 この地に残る松は、日吉大社西本宮の御鎮座とも深いかかわりがあり、唐崎の一本松と呼ばれ多くの人々に親しまれました。・・・。
神社湖岸の波打ち際まで出て、北隣の県営都市公園:湖岸緑地「唐崎苑」に入る。
ここには、駐車場ガあり
8:30~17:00まで利用できる。
この「唐崎苑」、昭和10年にオランダ人が別荘を建てた跡地で、京都城南宮を作庭した中根金作の最後の庭とのこと。
北隣りに同志社大学ヨット部。
JR湖西線の見えるところまで西に足を延ばし、本日の散策は終了。
雲ひとつなく比叡山の稜線がはっきりと見えた。その前面に壺笠山。
元亀の争乱の際、浅井・朝倉軍が立て籠もった山城であり山頂に石垣が残っている。
また、そこは4C頃の古墳でもある。
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2014年01月29日
ヤマトの国・下ツ道を歩く
と言っても、近鉄橿原線の石見駅から田原本駅まで駅間距離なら2km強と僅かなのだが、神社などを訪ねて右往左往しながらだったので、多分、10km以上を歩いたような・・・
神社? ~ 「銅鏡」とくに「三角縁神獣鏡」ファンなら気になる5社を訪ねた。以下、備忘録。
「下ツ道」・・・奈良盆地の中央を南北にほぼ4里(約2.1km)の等間隔をなして並行する3本の縦貫道のうち最も西側、藤原京の西京極から北上し平城京の朱雀大路となる。 藤原京の南、見瀬丸山古墳の西端をかすめて南進していることが知られている。 田原本辺りでは、国道24号の100mほど西側に流れる寺川とほぼ重なっている?
石見駅(三宅町)
無人駅。集落名は「石見国」に由来。
4C頃、大和王権の屯倉となる。
5C後半~6C初頭頃、石見遺跡(前方後円墳?)を築造。「石見型盾形埴輪」などを出土。
平安時代、興福寺の荘園となる。
15C後半~16C後半(戦国時代)、周囲に掘をめぐらす環濠集落となる。
石見鏡作神社(三宅町石見。祭神=石凝姥命(イシコリトメノミコト))
石見駅の北東200m、石見集落の北端に鎮座。環濠集落なのか周囲は暗渠?
高いブロック塀に囲まれて春日造の本殿3棟が並ぶ。 一座は石凝姥命だが、残り2座の祭神は不明(火明命と大糠戸命?)。
隣接して白鬚神社(祭神=猿田彦?)あり。

境内の案内には、「平安中期平安中期に著された延喜式にも当神社名が見られ、大字石見の氏神として古き由緒ある神社である。鏡作神社の由来は、古事記にある天の岩戸神話に、天照大神が天の岩戸にこもられ、困った神々が相談し、天の香久山の榊の中枝に吊り下げた八咫鏡云々とあるが、その鏡を鋳造したのが、この神社の祭神・石凝姥命である。よって、鏡作神社と呼ばれるようになった。そして、鏡作工人の祖人とされている・・・」とある。
ところで、この石見鏡作神社と後に訪ねた八尾の天照御魂神社、共に朝日・夕日による『日読み(「日知り」とも)』の場所であったのでは? という説がある。
『日読み』とは、太陽の動き(冬至・夏至・春分・秋分の二至二分あるいは立春・立夏立秋・立冬の四立といった季節変移の節目)を知ること。 この『日読み』は、春の種蒔き、秋の収穫などの適期を知るために必要なもので、古代の大王や族長等が行うべき重要な農耕儀礼であり、豊作を祈願するマツリゴト。
八尾の天照御魂神社では、ほぼ立春と立冬の日には、三輪山の頂上から朝日が昇り、同じ日の夕日は二上山の雄岳・雌岳の間の鞍部に沈み、春分と秋分の朝日は竜王山山頂から昇る。
石見の鏡作神社では、朝日が冬至に三輪山山頂から夏至には高峯山山頂から昇り、夕日は冬至に二上山鞍部に、春分秋分には明神山山頂に、夏至には十三峠に沈む、とか。
八尾は立春、石見は冬至の頃に三輪山山頂から昇る朝日を拝する場所であり、この両社は別々の社というより、両社が一体となって『日読祭祀』が行われていたものか?
天照御魂神とは日の御子としての穀霊であり、その穀霊の誕生を促す祭儀がお田植祭とすれば、今日、八尾の天照御魂神社で行われている御田植祭は、立春の日に三輪山山頂から昇る朝日と二上山の鞍部に落ちる夕日を拝して、五穀豊穣を祈った『日祀り』を再現したもの?
この神社の周りは暗渠によって囲まれており、「環濠集落 この地域は一帯に低湿地であったので、集落の周辺に濠を掘り回らして塁をつくり外敵から集落を守るのに役立っていた。 外部との通行はその都度掛橋を移動していた。・・・」や「迷路 集落内の通路は「袋小路」L型・T型等の箇所が多くて、直進するには極めて不便であるが、昔は外敵との交戦を逃れるのに好都合であった。」といった案内表示がある。


石見鏡作神社から南東へ300mほど進むと新池に出る。 その南東畔のポケットパークに石見遺跡展示場があり(※説明板記載内容の写真を撮り忘れ)、『椅子に腰かけた男』・『顔に入れ墨をした男』・『石見型楯』のレプリカを展示。
この辺りの南西部一帯では、整然とした景色に条里遺構を見ることが出来る。
展示場から東に進む。 途中の家々の門前にはプランターに「万葉の花 あざさ」が植えられている。
寺川に架かる細い橋。ここは、
今里の浜(田原本町)
橋の東詰め、堤防上にある案内板には、「今里の浜は、鉄道交通が発達する明治25年頃まで、大和川船運の寺川筋の船着場でした。 慶長年間(1600年前後)に、片桐且元による亀瀬峡流の開削によって、大坂と物資交流が盛んになりました。 今里の浜は寺川最上流に位置する川船の港で、東には近世の主要な交通路「中街道」が通っていることから、奈良盆地の物資流通で重要な位置を占めました。 亀瀬上流の大和へは魚梁(やな)船で、下流の大阪側は剣先船で、大坂から遡行する際には塩・雑貨・肥料(干鰯、油粕)を、大和から下る際には農作物(米・綿・穀物類)を運びました。 今里の浜は、これらの物資の荷揚場として、船問屋が建ち並び、問屋町田原本の外港として大いに栄えました。」とある。
今は、整備されてしまった護岸に昔を偲ぶこともできない。


杵築神社(田原本町)
堤防を降りた北側にある。
境内の南側、道沿いの大木に捲かれた蛇綱が「今里の蛇巻」(道路工事の車両が邪魔になって案内板の説明を読むことができず)。
蛇巻
麦わらで作る、全長18m・重さ200kg。
農作物の豊作を祈るとともに、男の子の成長祝う旧暦5月5日(今は6月第一日曜日)に行われる端午の節句にちなんだ行事。
折角ここまで来たので、唐古池に建つ復元・楼閣の写真を撮るために東進。
下ツ道(中街道)を交差して、国道24号へ。 途中の畑はこれまで発掘調査が行われたところ・・・。

唐古・鍵遺跡(田原本町)
小学生の歴史の教科書にも出てくる弥生時代前期から古墳時代前期にわたる複合遺跡。 とくに、弥生時代中・後期のムラは、周囲に多条の環濠をめぐらせた「多条環濠集落」として知れている。
なんども来ているところなので、鶏頭型土製品の出土地点近く、中世の在地武士・唐古南氏の居館跡付近からマンガのような楼閣と鍵池方向の写真を撮った後、下ツ道(中街道)を南下し、万侍寺、八坂神社を通過。 この辺り、相当立派な家並みが続く・・・。


八坂神社の境内に、ご当地の歴史=紫式部の夫・藤原宣孝(?~1001)の荘園『田中荘』についての説明板あり。以下、
「・・・平安時代中期の官人・・・官位は左衛門尉・六位蔵人・判官代・筑前守・右衛門佐兼山城守に任じられる。長保元年(999)またいとこの紫式部と結婚。宣孝46歳、紫式部29歳、同年末か翌年に娘・賢子(かたこ)が誕生。 長保3年(1001)4月25日に山城守正五位で卒去。宣孝の性格は磊落で御嶽(吉野吉峰山)に派手な装束で詣でたことが「枕草子」に見える。 又、詩歌を嗜み「玄々集」にも歌があり紫式部との贈答歌も多く残されている。そして、歌舞に長じ賀茂祭で舞人に選ばれたり、臨時祭に調楽に、神楽の人長を勤めて褒められたりしている。官人としての宣孝は若い頃は粗相を咎められ官を追われたこともあったが後は先示の官職を勤め晩年は宇佐神宮の勅使に遣わされるなど有職に詳しかった。 そしてかなり筆まめで天元(978)年間から亡くなる長保3年(1001)まで20年間の日記を残している。この田中荘は宣孝卒去約70年後の延久2年(1070)には興福寺の荘園となっておりその面積は16町2反半であった。 現在、小字田中が唐古池の東側にありこの付近一帯に田中荘が存在していたと思われる。 宣孝と紫式部の結婚生活は二年間であったが紫式部は宣孝の卒去後「源氏物語」を起筆する。・・・」
下ツ道と分かれ、西に向かうと直ぐに、
鍵の蛇巻(田原本町)
ここのは、木に捲きつけずに木と木に渡すように架けてある。
先に訪れた今里の蛇巻と合わせて無形民俗文化財に指定されている。
八尾大橋を渡り、ひたすら西に向かう。



笹鉾山古墳(田原本町)
近鉄線の東の田圃の中、1号墳は全長88mの2重周濠をもつ6世紀前半の古墳。
墳頂の後円部に稲荷平野神社の社、前方部先端の法面に民家。
2号墳は、1号墳の北側28mのところにあるとのことだが荒地で気づかず。 この周濠から、馬子と飾り馬のセットが2組出土しており、馬子の顔面に入れ墨を表現する線刻がみられる。 蓋形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪・笠形木製品などが出土。 これらの一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示。
田圃の中、曲がりくねった道を東南東に進む。・・・こういうところの散策は気持ちがいい~。

安養寺(田原本町)
寺川の堤防の西側にあり、仏師快慶の作「木造阿弥陀如来立像」があるそうな・・・。
いかにも旧街道といった雰囲気を残す道を再び南下。
この整備された中街道、カラー舗装された道路、所々あにある案内表示にも工夫がされている。





首切地蔵尊(田原本町)
「八尾の薬師堂の入り口、中街道に面した所に「首切地蔵尊」がまつられています。 むかしむかし、この地は罪人の首切り場であったことから、村人はここに地蔵をまつり、以降「首切り地蔵」と呼ぶようになったということです。」(田原本町「郷土の歴史教室」より)
ここには、ご当地『八尾村』についての説明と村内社寺などを案内、以下その概要、
「当「八尾村」は古道「下ツ道」中世の「中街道」沿いにあり、街道沿いを常盤町、その西の集落を本村と謂ひ、その全体を八尾村と称した。 ・・・。 本村は農業を主体とした村落、常磐町は医師や職人、酒造等商業を主体とした集落で双方一体して八尾村が構成され、江戸時代は大和郡山藩に属して居た。・・・」


少し南下すると西に森が見えた。
朱塗りの大鳥居が立ち、鏡作5社のなかでは最も広い境内を有する。

鏡作座天照御魂神社
(田原本町八尾。祭神=天照国照彦火明命(アマテルクニテル ヒコ ホアカリ)・石凝姥命・天糠戸命(アメノヌカト))

東面した5間社流造の本殿
(本殿3社と2つの合間)。
田原本町のHPに
「石凝姥命は、天照大神の御魂の神爾の鏡として内待所に祀る鏡を鋳造したとされる。 社伝は、その試鋳の鏡がご神体であると伝え、神宝として三神二獣鏡が伝えられている・・・。」
といったことがUPされているが、
境内の石碑「御由緒」には、
「上代人が己が魂の宿るものとして最も崇敬尊重した鏡類を、製作鋳造することを業としていた鏡作部がこの地一帯に住居し、御鏡(天照国照彦火明命)並びに遠祖(石凝姥)を氏神として奉祀したのが当神社であって、・・・崇神天皇の頃、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居にお祀りすることは畏れおおいとして、別の処にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をお祀りになった。 その神鏡を、八咫鏡をお造りなった石凝姥の子孫の鏡作師が、この地に於いて崇神天皇6年に鋳造した。 それを内侍所の神鏡と称するが、その鋳造に当たって試鋳せられた像鏡は、之を天照国照彦火明命と称えてお祀りした。 これが当社の起源・・・」
とあり、伊勢の神宮創祀と深く関わっている?
ちなみに、上記のほか、「由緒」についての案内板に、以下のような説明がある。
「倭名抄」鏡作郷の地に鎮座する式内の古社である。 第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居の内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭の笠縫邑にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった。 社伝によると、「崇神天皇六年九月三日、この地に置いて日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。 今の内待所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言う。」とあり、ご祭神は鏡作三所大明神として称えられていた。 古代から江戸時代にかけて、このあたりに鏡作師が住み、鏡池で身をきよめ鏡作りに励んだといい、鏡に神様としては最も由緒の深い神社である。
石凝姥命の「石凝(イシコリ)」は、鋳型の中で金属が凝り固まって鏡、矛などになること。 「姥(トメ)」は老女。 したがって、石凝姥とは、鋳型の中に溶けた青銅を流し込み、鏡などを鋳造する老女のこと。 石凝姥が女性なのは、鋳型の凹型を人格化して女性とみたもの?
天糠戸命は、邇芸速日命に随伴して天降った一人で石凝姥神の親神?
『書紀 神代 上』「天の岩屋」の段の「一書(第一)」に、石凝姥を工として天香山の金を採って日矛を造らせた。
「一書(第二)」に、鏡作部の遠い先祖の天糠戸神に鏡を作らせた。
「一書(第三)」に、鏡作りの遠い先祖の天抜戸の子、石凝戸辺命が作った八咫鏡・・・
とある。また、『神代 下』「葦原中国の平定」の段に、「天照大神は瓊瓊杵尊に、八坂瓊勾玉及び八咫鏡・草薙剣の三種の神器を賜った。また中臣氏の遠祖の天児屋命、忌部の遠祖の太玉命、猿女の遠祖の天鈿女命、鏡作りの遠祖の石凝姥命、玉作の遠祖の玉屋命、全部で五部(イツトモノオ)の神たちを配して、つき従わせた。」とある。

境内に、涸れることがなく、鏡の製作に必要な水を採ったという「鏡池」がある。伊多・麻気の両社にも有り。
境内にあるこれは? 御降臨地?
鏡作座天照御魂神社を出て東に向かい寺川に架かる芥屋前橋を渡り土手の上を北進すると東に鎮守の森が見える。


鏡作麻気神社(田原本町小坂。祭神=麻比止都称命)
国道24号方向、東面して飾り気のない小さな一間社、隅木入り春日造が建つ。
説明板に以下の記載がある。
祭神の麻比止都称命は、日本書紀に「作金者」と記される「天目一箇神」であり、鍛冶に関わる神とされる。 この事は、弥生時代、唐古・鍵遺跡で、銅鐸など、金属鋳造技術集団が、古墳時代になり、鏡作部に継承され、この鏡作郷の地で、金属鋳造が行われてきたのであろう。 現在、大阪府の東大阪を中心とした小坂・今里・八尾で、金属加工業界が多いが、この金属加工の人々の先祖は、大和の田原本付近だと伝えられ、田原本町にこれら小坂・今里・八尾の地名が共通する事と関係するかもしれない。
天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)は、『書紀 神代 下』「葦原中国の平定」の段の「一書(第二)」に、天目一箇神を鍛冶の役をされた、とある。「目一箇(マヒトツ)」は「一つ目(片目)」の意で、片目を瞑って作業していたから、あるいは、片目を失明する職業病があったことから呼ばれた?
「作金者(カナダクミ、鍛冶)」、ひょっとこ(火男)の原型?
このあと、江戸時代の家並みが残る新町を通らずに青垣障害学習センターに向かう (道の選択ミス!)
唐古・鍵考古学ミュージアム(田原本町)
何度も近くに来ていたが、新しくなってはじめての訪問。 以前の体育館の片隅での展示とは違って、遺物はガラスケースの中。 展示品も少なくなったような?・・・
第1室は絵画土器など、第2室は環濠集落内のものづくり、第3室は干支の「馬」に因んだ展示が行われていた。
特に、楼閣を描いた土器(唐古・鍵遺跡)や牛形埴輪(羽子田1号墳)をはじめ、楯持人埴輪、馬と馬曳きの埴輪(笹鉾山2号墳)、流水文土器(唐古・鍵遺跡)壺の変遷(第Ⅰ様式~第Ⅵ様式)など展示品は多くはないが見応えがあった。 なお、エントランスの床下には大型建物の柱穴の展示あり。










ミュージアム内に軽食コーナーがあるもののメニューの多くは販売中止で、ごく簡単なものしか注文できず・・・。
ミュージアムを出て新しく出来た道を西に進む。 途中、田原本小学校向かえの田原本幼稚園の運動場の片隅に径10mほどのマウンド、これは?
幼稚園のフェンスに「羽子田遺跡と郡界」についての説明書きがあるものの文字が消えかかっており判読できず。 ここは、先刻ミュージアムで見た牛形埴輪の出土地。

近鉄の橿原線と田原本線の踏切を渡り、引続きかつての郡界であった道を600mほどで宮古池の南に至る。池の南西部に宮古社があった。



鏡作伊多神社[宮古](田原本町宮古。祭神=石凝姥命)
宮古の集落に向かう北面に鳥居、一間社流造の本殿は西面する。
以下、境内の案内板の記載、
宮古・鏡作伊多神社は大字宮古集落の南端、宮古池の西に鎮座し、神社南側、道路・水路を挟んで、約150m南に保津・鏡作伊多神社がある。 宮古と保津の間の道路・水路を境に宮古は城下郡、保津は十市郡で、この道路・水路は整然とした大和国条里に沿わず、西は大字富本から南南東に太子道・下ツ道を横切り、村屋座彌富都比売神社の中ツ道まで延びる仮称阪手道(磯城下横道)で、太子道・下ツ道の交わる場所では、奈良時代以降の交易の場所である巷(ちまた)又は、役所に伴う遺構等が見つかっている重要な場所に鏡作伊多神社が存在する。 ・・・。 本殿の北側に、布(富)屋社があり、覆屋の中に板葺本殿、前に「□屋大明神」の石燈籠があり、この布(富)屋社が本来の鏡作伊多神社とも伝えられている。 尚、現在、浄蓮寺に安置されている大日如来坐像は元布(富)屋社又は鏡作伊多神社の本地佛である。



鏡作伊多神社[保津]・保津環濠集落(田原本町。祭神=石凝姥命)
宮古神社の南、郡界の道路は保津集落の北辺であり、この道路そのものが環濠であったかのように道路端に水路が残っている。 暗渠となっている環濠の上を南へ家々の間を進むと環濠が折れ曲ったその先に保津・鏡作伊多神社があった。 本殿は隅木入春日造。
以下、案内板の記載、
保津・鏡作伊多神社は大字保津環濠集落の南西端に鎮座し、保津環濠集落北側、道路・水路を挟んで、約150m北に宮古・鏡作伊多神社がある。 保津と宮古の間の道路・水路を境に宮古は城下郡、保津は十市郡で、この道路・水路は整然とした大和国条里に沿わず、西は大字富本から南南東に太子道・下ツ道を横切り、村屋座彌富都比売神社の中ツ道まで延びる仮称阪手道(磯城下横道)で、太子道・下ツ道の交わる重要な場所に保津・鏡作伊多神社が存在する。 保津集落は近世以前には、現在の集落の東側、中垣内、奥垣内にあり、大正12年(1923)の磯城農学校の敷地造成時に採土され、現在集落跡の畑地は少なくなっているが、屋敷地の面影は残っている。 平成18年の奥垣内の西、宮古池東堤改修工事時に、集落跡に伴う、檜曲物井戸枠が数基出土している。又、保津・鏡作伊多神社も、近世以前の保津集落の約200m東、小字「伊多敷」にあったと推定される。
北本殿 基壇上に、二殿並び建ち、旧は檜皮葺、現在銅板で覆う春日造で、千木、勝男木、向拝角柱、向拝との繋部分は直材、軒廻りは二軒繋垂木、正面扉口は方立柱を立て、向拝柱に斗拱(とぐみ、ますぐみ)を組み、象鼻を取付ける。身舎(もや)は角柱で土台上に建ち、登階5級、三方に縁を廻し、脇障子を付ける。
南本殿 旧は檜皮葺、現在銅板で覆う春日造で、千木、勝男木、向拝角柱、身舎との繋材はなく、珍しい手法で、向拝虹梁を組み象鼻の木鼻を取付け、向拝柱に斗拱を組み、象鼻の木鼻を取付ける。身舎は円柱で土台上に建ち、軒廻りは一軒繋垂木、正面扉口は方立柱を立て、登階7級、三方に縁を廻し、脇障子を付ける。 この南本殿は「隅木入春日造」の珍しい手法の春日造である。・・・。

なお、この保津環濠集落とその東隣地に今でも環濠を見ることができる。
以下、案内板から、
保津環濠集落は奈良県下に於いて、大和郡山市・稗田、天井、広陵町・南郷、橿原市・五井、御坊、櫻井市・三輪上ノ庄、安堵町・窪田、大和高田市・有井と共に大和平野に数ある環濠集落の中でも代表的な環濠集落である。 古代から室町時代、応仁の乱までの農村集落は散村形態の集落が多かったが、乱世になって集落は防衛や又、大和平野の河川の氾濫による防衛の為に次第に集村集落になり、集落(垣内)の周りに濠を廻らし、堀を揚げた土砂で堤を築き、堤には外からの目隠しに竹等を植え、特に河川の氾濫の多い集落(垣内)では堤を高く築き請堤を築き、又、防御を特に強固にする為に濠を二重に廻らし、集落(垣内)の二ヶ所位の出入口には夜間、集落(垣内)外より進入防止のため引橋とした。 保津環濠集落は東西約120m×南北約120m。南西部に東西約70m×南北約60mの出張りがあり、環濠を廻らし、北側には特に(仮称)磯城下郡横道の側溝水路で二重の濠を廻らした状況になっている。 元禄17年(1704)正月の絵図では南東角を主売れ悪の正面入口とし、木橋を掛け入口西側に高札場・共同井戸、東側に御赦免地(公有地)、その北に道場屋敷(現・誓願寺)、南西部の出張部中心に鏡作伊多神社があり、神社東側より環濠を内濠を引き入れている。 集落西面にも細い木橋を掛け西側出入口とし、環濠四周総て内側土塁を廻らし、竹を植えている。 集落の戸数は元禄17年で約30戸、現在22戸。 なお、この(仮称)磯城下郡横道の北側は式下郡で南側は十市郡になっている。 保津環濠集落の築造は先示の社会情勢から室町時代に遡ると考えられるが、この環濠保持のために定期的に濠の浚渫工事が行われていたと考えられるが宝暦4年(1753)に濠の浚渫工事が行われその様子が「堀御普請人足割帳」に書かれている。
保津環濠集落から南に畦道を通り、磯城野高校の前を経て近鉄駅に至る。

西田原本駅・田原本駅(田原本町)
大正7年(1918)、大和鉄道が新王寺・田原本間を開業。信貴生駒電鉄に合併された後、近鉄へ統合。 西田原本駅は、現在、田原本線の起点駅であるが、かつての大和鉄道時代には桜井まで軌道があったそうで、駅構内には往時のホームが残っている。
橿原線の田原本駅とは離れているが駅広整備により、バス・タクシー乗り場を一体として使用している。
当初、多神社まで足を延ばす予定だったが、時間オーバーで断念。
中心市街地にある津島神社なども訪ねられず、次回の楽しみが残った。
本日、「下ツ道」を軸に鏡作5社の探訪踏査の所要時間=5時間(11時~16時)
風もない好天気で、真冬だというに寒くもなく、陽射しがあっても汗ばむこともなく散策には最高!の一日だった。
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神社? ~ 「銅鏡」とくに「三角縁神獣鏡」ファンなら気になる5社を訪ねた。以下、備忘録。
「下ツ道」・・・奈良盆地の中央を南北にほぼ4里(約2.1km)の等間隔をなして並行する3本の縦貫道のうち最も西側、藤原京の西京極から北上し平城京の朱雀大路となる。 藤原京の南、見瀬丸山古墳の西端をかすめて南進していることが知られている。 田原本辺りでは、国道24号の100mほど西側に流れる寺川とほぼ重なっている?
無人駅。集落名は「石見国」に由来。
4C頃、大和王権の屯倉となる。
5C後半~6C初頭頃、石見遺跡(前方後円墳?)を築造。「石見型盾形埴輪」などを出土。
平安時代、興福寺の荘園となる。
15C後半~16C後半(戦国時代)、周囲に掘をめぐらす環濠集落となる。
石見駅の北東200m、石見集落の北端に鎮座。環濠集落なのか周囲は暗渠?
高いブロック塀に囲まれて春日造の本殿3棟が並ぶ。 一座は石凝姥命だが、残り2座の祭神は不明(火明命と大糠戸命?)。
隣接して白鬚神社(祭神=猿田彦?)あり。
境内の案内には、「平安中期平安中期に著された延喜式にも当神社名が見られ、大字石見の氏神として古き由緒ある神社である。鏡作神社の由来は、古事記にある天の岩戸神話に、天照大神が天の岩戸にこもられ、困った神々が相談し、天の香久山の榊の中枝に吊り下げた八咫鏡云々とあるが、その鏡を鋳造したのが、この神社の祭神・石凝姥命である。よって、鏡作神社と呼ばれるようになった。そして、鏡作工人の祖人とされている・・・」とある。
ところで、この石見鏡作神社と後に訪ねた八尾の天照御魂神社、共に朝日・夕日による『日読み(「日知り」とも)』の場所であったのでは? という説がある。
『日読み』とは、太陽の動き(冬至・夏至・春分・秋分の二至二分あるいは立春・立夏立秋・立冬の四立といった季節変移の節目)を知ること。 この『日読み』は、春の種蒔き、秋の収穫などの適期を知るために必要なもので、古代の大王や族長等が行うべき重要な農耕儀礼であり、豊作を祈願するマツリゴト。
八尾の天照御魂神社では、ほぼ立春と立冬の日には、三輪山の頂上から朝日が昇り、同じ日の夕日は二上山の雄岳・雌岳の間の鞍部に沈み、春分と秋分の朝日は竜王山山頂から昇る。
石見の鏡作神社では、朝日が冬至に三輪山山頂から夏至には高峯山山頂から昇り、夕日は冬至に二上山鞍部に、春分秋分には明神山山頂に、夏至には十三峠に沈む、とか。
八尾は立春、石見は冬至の頃に三輪山山頂から昇る朝日を拝する場所であり、この両社は別々の社というより、両社が一体となって『日読祭祀』が行われていたものか?
天照御魂神とは日の御子としての穀霊であり、その穀霊の誕生を促す祭儀がお田植祭とすれば、今日、八尾の天照御魂神社で行われている御田植祭は、立春の日に三輪山山頂から昇る朝日と二上山の鞍部に落ちる夕日を拝して、五穀豊穣を祈った『日祀り』を再現したもの?
この神社の周りは暗渠によって囲まれており、「環濠集落 この地域は一帯に低湿地であったので、集落の周辺に濠を掘り回らして塁をつくり外敵から集落を守るのに役立っていた。 外部との通行はその都度掛橋を移動していた。・・・」や「迷路 集落内の通路は「袋小路」L型・T型等の箇所が多くて、直進するには極めて不便であるが、昔は外敵との交戦を逃れるのに好都合であった。」といった案内表示がある。
石見鏡作神社から南東へ300mほど進むと新池に出る。 その南東畔のポケットパークに石見遺跡展示場があり(※説明板記載内容の写真を撮り忘れ)、『椅子に腰かけた男』・『顔に入れ墨をした男』・『石見型楯』のレプリカを展示。
この辺りの南西部一帯では、整然とした景色に条里遺構を見ることが出来る。
今里の浜(田原本町)
橋の東詰め、堤防上にある案内板には、「今里の浜は、鉄道交通が発達する明治25年頃まで、大和川船運の寺川筋の船着場でした。 慶長年間(1600年前後)に、片桐且元による亀瀬峡流の開削によって、大坂と物資交流が盛んになりました。 今里の浜は寺川最上流に位置する川船の港で、東には近世の主要な交通路「中街道」が通っていることから、奈良盆地の物資流通で重要な位置を占めました。 亀瀬上流の大和へは魚梁(やな)船で、下流の大阪側は剣先船で、大坂から遡行する際には塩・雑貨・肥料(干鰯、油粕)を、大和から下る際には農作物(米・綿・穀物類)を運びました。 今里の浜は、これらの物資の荷揚場として、船問屋が建ち並び、問屋町田原本の外港として大いに栄えました。」とある。
今は、整備されてしまった護岸に昔を偲ぶこともできない。
杵築神社(田原本町)
堤防を降りた北側にある。
境内の南側、道沿いの大木に捲かれた蛇綱が「今里の蛇巻」(道路工事の車両が邪魔になって案内板の説明を読むことができず)。
蛇巻
麦わらで作る、全長18m・重さ200kg。
農作物の豊作を祈るとともに、男の子の成長祝う旧暦5月5日(今は6月第一日曜日)に行われる端午の節句にちなんだ行事。
折角ここまで来たので、唐古池に建つ復元・楼閣の写真を撮るために東進。
下ツ道(中街道)を交差して、国道24号へ。 途中の畑はこれまで発掘調査が行われたところ・・・。
小学生の歴史の教科書にも出てくる弥生時代前期から古墳時代前期にわたる複合遺跡。 とくに、弥生時代中・後期のムラは、周囲に多条の環濠をめぐらせた「多条環濠集落」として知れている。
なんども来ているところなので、鶏頭型土製品の出土地点近く、中世の在地武士・唐古南氏の居館跡付近からマンガのような楼閣と鍵池方向の写真を撮った後、下ツ道(中街道)を南下し、万侍寺、八坂神社を通過。 この辺り、相当立派な家並みが続く・・・。
八坂神社の境内に、ご当地の歴史=紫式部の夫・藤原宣孝(?~1001)の荘園『田中荘』についての説明板あり。以下、
「・・・平安時代中期の官人・・・官位は左衛門尉・六位蔵人・判官代・筑前守・右衛門佐兼山城守に任じられる。長保元年(999)またいとこの紫式部と結婚。宣孝46歳、紫式部29歳、同年末か翌年に娘・賢子(かたこ)が誕生。 長保3年(1001)4月25日に山城守正五位で卒去。宣孝の性格は磊落で御嶽(吉野吉峰山)に派手な装束で詣でたことが「枕草子」に見える。 又、詩歌を嗜み「玄々集」にも歌があり紫式部との贈答歌も多く残されている。そして、歌舞に長じ賀茂祭で舞人に選ばれたり、臨時祭に調楽に、神楽の人長を勤めて褒められたりしている。官人としての宣孝は若い頃は粗相を咎められ官を追われたこともあったが後は先示の官職を勤め晩年は宇佐神宮の勅使に遣わされるなど有職に詳しかった。 そしてかなり筆まめで天元(978)年間から亡くなる長保3年(1001)まで20年間の日記を残している。この田中荘は宣孝卒去約70年後の延久2年(1070)には興福寺の荘園となっておりその面積は16町2反半であった。 現在、小字田中が唐古池の東側にありこの付近一帯に田中荘が存在していたと思われる。 宣孝と紫式部の結婚生活は二年間であったが紫式部は宣孝の卒去後「源氏物語」を起筆する。・・・」
鍵の蛇巻(田原本町)
ここのは、木に捲きつけずに木と木に渡すように架けてある。
先に訪れた今里の蛇巻と合わせて無形民俗文化財に指定されている。
八尾大橋を渡り、ひたすら西に向かう。
笹鉾山古墳(田原本町)
近鉄線の東の田圃の中、1号墳は全長88mの2重周濠をもつ6世紀前半の古墳。
墳頂の後円部に稲荷平野神社の社、前方部先端の法面に民家。
2号墳は、1号墳の北側28mのところにあるとのことだが荒地で気づかず。 この周濠から、馬子と飾り馬のセットが2組出土しており、馬子の顔面に入れ墨を表現する線刻がみられる。 蓋形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪・笠形木製品などが出土。 これらの一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示。
田圃の中、曲がりくねった道を東南東に進む。・・・こういうところの散策は気持ちがいい~。
安養寺(田原本町)
寺川の堤防の西側にあり、仏師快慶の作「木造阿弥陀如来立像」があるそうな・・・。
いかにも旧街道といった雰囲気を残す道を再び南下。
この整備された中街道、カラー舗装された道路、所々あにある案内表示にも工夫がされている。
首切地蔵尊(田原本町)
「八尾の薬師堂の入り口、中街道に面した所に「首切地蔵尊」がまつられています。 むかしむかし、この地は罪人の首切り場であったことから、村人はここに地蔵をまつり、以降「首切り地蔵」と呼ぶようになったということです。」(田原本町「郷土の歴史教室」より)
ここには、ご当地『八尾村』についての説明と村内社寺などを案内、以下その概要、
「当「八尾村」は古道「下ツ道」中世の「中街道」沿いにあり、街道沿いを常盤町、その西の集落を本村と謂ひ、その全体を八尾村と称した。 ・・・。 本村は農業を主体とした村落、常磐町は医師や職人、酒造等商業を主体とした集落で双方一体して八尾村が構成され、江戸時代は大和郡山藩に属して居た。・・・」
少し南下すると西に森が見えた。
朱塗りの大鳥居が立ち、鏡作5社のなかでは最も広い境内を有する。
鏡作座天照御魂神社
(田原本町八尾。祭神=天照国照彦火明命(アマテルクニテル ヒコ ホアカリ)・石凝姥命・天糠戸命(アメノヌカト))
東面した5間社流造の本殿
(本殿3社と2つの合間)。
田原本町のHPに
「石凝姥命は、天照大神の御魂の神爾の鏡として内待所に祀る鏡を鋳造したとされる。 社伝は、その試鋳の鏡がご神体であると伝え、神宝として三神二獣鏡が伝えられている・・・。」
といったことがUPされているが、
境内の石碑「御由緒」には、
「上代人が己が魂の宿るものとして最も崇敬尊重した鏡類を、製作鋳造することを業としていた鏡作部がこの地一帯に住居し、御鏡(天照国照彦火明命)並びに遠祖(石凝姥)を氏神として奉祀したのが当神社であって、・・・崇神天皇の頃、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居にお祀りすることは畏れおおいとして、別の処にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をお祀りになった。 その神鏡を、八咫鏡をお造りなった石凝姥の子孫の鏡作師が、この地に於いて崇神天皇6年に鋳造した。 それを内侍所の神鏡と称するが、その鋳造に当たって試鋳せられた像鏡は、之を天照国照彦火明命と称えてお祀りした。 これが当社の起源・・・」
とあり、伊勢の神宮創祀と深く関わっている?
ちなみに、上記のほか、「由緒」についての案内板に、以下のような説明がある。
「倭名抄」鏡作郷の地に鎮座する式内の古社である。 第十代崇神天皇のころ、三種の神器の一なる八咫鏡を皇居の内にお祀りすることは畏れ多いとして、まず倭の笠縫邑にお祀りし(伊勢神宮の起源)、更に別の鏡をおつくりになった。 社伝によると、「崇神天皇六年九月三日、この地に置いて日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。 今の内待所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言う。」とあり、ご祭神は鏡作三所大明神として称えられていた。 古代から江戸時代にかけて、このあたりに鏡作師が住み、鏡池で身をきよめ鏡作りに励んだといい、鏡に神様としては最も由緒の深い神社である。
石凝姥命の「石凝(イシコリ)」は、鋳型の中で金属が凝り固まって鏡、矛などになること。 「姥(トメ)」は老女。 したがって、石凝姥とは、鋳型の中に溶けた青銅を流し込み、鏡などを鋳造する老女のこと。 石凝姥が女性なのは、鋳型の凹型を人格化して女性とみたもの?
天糠戸命は、邇芸速日命に随伴して天降った一人で石凝姥神の親神?
『書紀 神代 上』「天の岩屋」の段の「一書(第一)」に、石凝姥を工として天香山の金を採って日矛を造らせた。
「一書(第二)」に、鏡作部の遠い先祖の天糠戸神に鏡を作らせた。
「一書(第三)」に、鏡作りの遠い先祖の天抜戸の子、石凝戸辺命が作った八咫鏡・・・
とある。また、『神代 下』「葦原中国の平定」の段に、「天照大神は瓊瓊杵尊に、八坂瓊勾玉及び八咫鏡・草薙剣の三種の神器を賜った。また中臣氏の遠祖の天児屋命、忌部の遠祖の太玉命、猿女の遠祖の天鈿女命、鏡作りの遠祖の石凝姥命、玉作の遠祖の玉屋命、全部で五部(イツトモノオ)の神たちを配して、つき従わせた。」とある。
境内にあるこれは? 御降臨地?
鏡作座天照御魂神社を出て東に向かい寺川に架かる芥屋前橋を渡り土手の上を北進すると東に鎮守の森が見える。
鏡作麻気神社(田原本町小坂。祭神=麻比止都称命)
国道24号方向、東面して飾り気のない小さな一間社、隅木入り春日造が建つ。
説明板に以下の記載がある。
祭神の麻比止都称命は、日本書紀に「作金者」と記される「天目一箇神」であり、鍛冶に関わる神とされる。 この事は、弥生時代、唐古・鍵遺跡で、銅鐸など、金属鋳造技術集団が、古墳時代になり、鏡作部に継承され、この鏡作郷の地で、金属鋳造が行われてきたのであろう。 現在、大阪府の東大阪を中心とした小坂・今里・八尾で、金属加工業界が多いが、この金属加工の人々の先祖は、大和の田原本付近だと伝えられ、田原本町にこれら小坂・今里・八尾の地名が共通する事と関係するかもしれない。
天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)は、『書紀 神代 下』「葦原中国の平定」の段の「一書(第二)」に、天目一箇神を鍛冶の役をされた、とある。「目一箇(マヒトツ)」は「一つ目(片目)」の意で、片目を瞑って作業していたから、あるいは、片目を失明する職業病があったことから呼ばれた?
「作金者(カナダクミ、鍛冶)」、ひょっとこ(火男)の原型?
このあと、江戸時代の家並みが残る新町を通らずに青垣障害学習センターに向かう (道の選択ミス!)
何度も近くに来ていたが、新しくなってはじめての訪問。 以前の体育館の片隅での展示とは違って、遺物はガラスケースの中。 展示品も少なくなったような?・・・
第1室は絵画土器など、第2室は環濠集落内のものづくり、第3室は干支の「馬」に因んだ展示が行われていた。
特に、楼閣を描いた土器(唐古・鍵遺跡)や牛形埴輪(羽子田1号墳)をはじめ、楯持人埴輪、馬と馬曳きの埴輪(笹鉾山2号墳)、流水文土器(唐古・鍵遺跡)壺の変遷(第Ⅰ様式~第Ⅵ様式)など展示品は多くはないが見応えがあった。 なお、エントランスの床下には大型建物の柱穴の展示あり。
ミュージアム内に軽食コーナーがあるもののメニューの多くは販売中止で、ごく簡単なものしか注文できず・・・。
幼稚園のフェンスに「羽子田遺跡と郡界」についての説明書きがあるものの文字が消えかかっており判読できず。 ここは、先刻ミュージアムで見た牛形埴輪の出土地。
近鉄の橿原線と田原本線の踏切を渡り、引続きかつての郡界であった道を600mほどで宮古池の南に至る。池の南西部に宮古社があった。
鏡作伊多神社[宮古](田原本町宮古。祭神=石凝姥命)
宮古の集落に向かう北面に鳥居、一間社流造の本殿は西面する。
以下、境内の案内板の記載、
宮古・鏡作伊多神社は大字宮古集落の南端、宮古池の西に鎮座し、神社南側、道路・水路を挟んで、約150m南に保津・鏡作伊多神社がある。 宮古と保津の間の道路・水路を境に宮古は城下郡、保津は十市郡で、この道路・水路は整然とした大和国条里に沿わず、西は大字富本から南南東に太子道・下ツ道を横切り、村屋座彌富都比売神社の中ツ道まで延びる仮称阪手道(磯城下横道)で、太子道・下ツ道の交わる場所では、奈良時代以降の交易の場所である巷(ちまた)又は、役所に伴う遺構等が見つかっている重要な場所に鏡作伊多神社が存在する。 ・・・。 本殿の北側に、布(富)屋社があり、覆屋の中に板葺本殿、前に「□屋大明神」の石燈籠があり、この布(富)屋社が本来の鏡作伊多神社とも伝えられている。 尚、現在、浄蓮寺に安置されている大日如来坐像は元布(富)屋社又は鏡作伊多神社の本地佛である。
鏡作伊多神社[保津]・保津環濠集落(田原本町。祭神=石凝姥命)
宮古神社の南、郡界の道路は保津集落の北辺であり、この道路そのものが環濠であったかのように道路端に水路が残っている。 暗渠となっている環濠の上を南へ家々の間を進むと環濠が折れ曲ったその先に保津・鏡作伊多神社があった。 本殿は隅木入春日造。
以下、案内板の記載、
保津・鏡作伊多神社は大字保津環濠集落の南西端に鎮座し、保津環濠集落北側、道路・水路を挟んで、約150m北に宮古・鏡作伊多神社がある。 保津と宮古の間の道路・水路を境に宮古は城下郡、保津は十市郡で、この道路・水路は整然とした大和国条里に沿わず、西は大字富本から南南東に太子道・下ツ道を横切り、村屋座彌富都比売神社の中ツ道まで延びる仮称阪手道(磯城下横道)で、太子道・下ツ道の交わる重要な場所に保津・鏡作伊多神社が存在する。 保津集落は近世以前には、現在の集落の東側、中垣内、奥垣内にあり、大正12年(1923)の磯城農学校の敷地造成時に採土され、現在集落跡の畑地は少なくなっているが、屋敷地の面影は残っている。 平成18年の奥垣内の西、宮古池東堤改修工事時に、集落跡に伴う、檜曲物井戸枠が数基出土している。又、保津・鏡作伊多神社も、近世以前の保津集落の約200m東、小字「伊多敷」にあったと推定される。
北本殿 基壇上に、二殿並び建ち、旧は檜皮葺、現在銅板で覆う春日造で、千木、勝男木、向拝角柱、向拝との繋部分は直材、軒廻りは二軒繋垂木、正面扉口は方立柱を立て、向拝柱に斗拱(とぐみ、ますぐみ)を組み、象鼻を取付ける。身舎(もや)は角柱で土台上に建ち、登階5級、三方に縁を廻し、脇障子を付ける。
南本殿 旧は檜皮葺、現在銅板で覆う春日造で、千木、勝男木、向拝角柱、身舎との繋材はなく、珍しい手法で、向拝虹梁を組み象鼻の木鼻を取付け、向拝柱に斗拱を組み、象鼻の木鼻を取付ける。身舎は円柱で土台上に建ち、軒廻りは一軒繋垂木、正面扉口は方立柱を立て、登階7級、三方に縁を廻し、脇障子を付ける。 この南本殿は「隅木入春日造」の珍しい手法の春日造である。・・・。
以下、案内板から、
保津環濠集落は奈良県下に於いて、大和郡山市・稗田、天井、広陵町・南郷、橿原市・五井、御坊、櫻井市・三輪上ノ庄、安堵町・窪田、大和高田市・有井と共に大和平野に数ある環濠集落の中でも代表的な環濠集落である。 古代から室町時代、応仁の乱までの農村集落は散村形態の集落が多かったが、乱世になって集落は防衛や又、大和平野の河川の氾濫による防衛の為に次第に集村集落になり、集落(垣内)の周りに濠を廻らし、堀を揚げた土砂で堤を築き、堤には外からの目隠しに竹等を植え、特に河川の氾濫の多い集落(垣内)では堤を高く築き請堤を築き、又、防御を特に強固にする為に濠を二重に廻らし、集落(垣内)の二ヶ所位の出入口には夜間、集落(垣内)外より進入防止のため引橋とした。 保津環濠集落は東西約120m×南北約120m。南西部に東西約70m×南北約60mの出張りがあり、環濠を廻らし、北側には特に(仮称)磯城下郡横道の側溝水路で二重の濠を廻らした状況になっている。 元禄17年(1704)正月の絵図では南東角を主売れ悪の正面入口とし、木橋を掛け入口西側に高札場・共同井戸、東側に御赦免地(公有地)、その北に道場屋敷(現・誓願寺)、南西部の出張部中心に鏡作伊多神社があり、神社東側より環濠を内濠を引き入れている。 集落西面にも細い木橋を掛け西側出入口とし、環濠四周総て内側土塁を廻らし、竹を植えている。 集落の戸数は元禄17年で約30戸、現在22戸。 なお、この(仮称)磯城下郡横道の北側は式下郡で南側は十市郡になっている。 保津環濠集落の築造は先示の社会情勢から室町時代に遡ると考えられるが、この環濠保持のために定期的に濠の浚渫工事が行われていたと考えられるが宝暦4年(1753)に濠の浚渫工事が行われその様子が「堀御普請人足割帳」に書かれている。
保津環濠集落から南に畦道を通り、磯城野高校の前を経て近鉄駅に至る。
大正7年(1918)、大和鉄道が新王寺・田原本間を開業。信貴生駒電鉄に合併された後、近鉄へ統合。 西田原本駅は、現在、田原本線の起点駅であるが、かつての大和鉄道時代には桜井まで軌道があったそうで、駅構内には往時のホームが残っている。
橿原線の田原本駅とは離れているが駅広整備により、バス・タクシー乗り場を一体として使用している。
当初、多神社まで足を延ばす予定だったが、時間オーバーで断念。
中心市街地にある津島神社なども訪ねられず、次回の楽しみが残った。
本日、「下ツ道」を軸に鏡作5社の探訪踏査の所要時間=5時間(11時~16時)
風もない好天気で、真冬だというに寒くもなく、陽射しがあっても汗ばむこともなく散策には最高!の一日だった。
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2014年01月16日
河内の国・丹比野を歩く
前日(1月10日)、夜明け前まで降り15cmほど積った雪も好天気により昼前まですっかり融けてしまった。
今回は、近時、何かと話題(徳洲会病院)の多い松原市界隈を歩いた。

近鉄・河内松原駅前バスターミナル③番から近鉄バス・余部行に乗って15分ほどで下黒山BS下車(運賃240円)。
ちなみに車両はISUZUの中型ERGAmio。乗客は私だけの貸切。DRさんに尋ねると午前中、駅発の乗客はほとんどいないとのこと・・・。

丹比神社(堺市美原区)
下黒山BSから東南東、古い家が並ぶ細い道を歩くと直ぐに新興住宅の並ぶその南に林が見えた。
反正天皇の名代である丹比部の管理者であった丹比連の祖神を祀る。のち宣化天皇の末裔・丹比公(のちに真人)の支配地に替わったため多治比真人一族の祖神を加えた?
主祭神は火明命と瑞歯別命とのことなのだが、この火明命(天照国照彦火明命)、がよく分からない。
書紀では天忍穂耳命の子で、邇邇芸命の兄とも父とも・・・。
古事記では天火明命と表記。
先代旧事本紀には物部連の祖である天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
播磨国風土記では大己貴神の子とも・・・。 さてさて、如何~。

境内に入ると直ぐに目に付いたのが「多遅比瑞歯別の命 産湯の井戸」。 以下、その碑文。
仁徳天皇と磐の媛の間にお産れになった皇子で若松宮と称し、この井戸の水で産湯を使わしめられたと云う事が今の世まで語り傳えられている この人は後の十八代反正天皇のことである。
「多治井(丹比)氏」には、左大臣となった嶋をはじめ、かぐや姫の求婚者のひとり平城京の造営長官であった池守や催鋳銭司(和同開珎の鋳造総責任者)であった三宅麻呂(※)がいる。
※『続日本紀 巻第四 元明天皇』和銅元年(708)2月11日。
なお、碑文には命の名の「遅」は「羊」ではなく「寺」をあてていた。
また、古事記(下巻)に反正天皇の出生記事があるがその場所の記載はなく、書紀(巻大十二)は誕生地を淡路島としている。
記紀ともに反正天皇の記事は異常に少ないが、何故?

拝殿から見る参道は長い。
両側の新興住宅地を過ぎると道も狭く古い家並みが続き、往時の勢いを感じる。


丹比廃寺跡(徳泉寺跡。堺市美原区)
美原体育館とグランドの間の道を東進すると道路の右(南側)にコンクリートで固められ一段高くなったところに石碑と礎石が現われた。道路の北側の段上にも小さな祠、ということは遺構が道路により分断されている?
以下、説明板の表記、
塔の心礎と出土する古瓦から奈良時代前期に創建された丹比氏の氏寺と考えられる大寺の跡です。
いい伝えによると、弘法大師によって開創された徳泉寺は、天正年間織田信長に反旗をひるがえした松永久秀によって伽藍が破壊されるなど、破壊と再興を繰り返しましたが、昭和14年火災にあい、以後再建されることなく現在に至っています。
とのこと。
一方、「美原町史」には、
松永久秀が徳泉寺の伽藍を破却して徳泉寺城を構えたが、久秀の敗退により破棄されたという。
「河内志」に「在多治井村 松永久秀所拠」とみえる。字名の「徳泉寺」周辺に「城北」・「城北上」・「城北下」・「城山」・「城山南」などがある。
多治井地区の東は、南から北へ台地を浸食して流れる東除川に面する急崖になっており、東からの敵に備えるにはうってつけの場所である。推定地は、古代の丹比廃寺と重複するものと思われる。
とあることから、説明板記載の『破壊』は松永久秀による城への転用(再構築)のことか?

みはら歴史博物館(堺市美原区)

丹比神社まで戻って阪和自動車道の北にある歴史博物館ニ立ち寄る。
以前来た時(15年ほど前?)にはなかった施設。
メインの展示は、河内鋳物師(常設展示室1)と黒姫山古墳(常設展示室2)の2つ。
前者は、平安時代から室町時代にかけて美原地域で活躍した鋳造技術者集団。
展示室のガラス床の下に真福寺(黒山)遺跡の「梵鐘鋳造土坑」を展示。
後者から出土した短甲、冑などを展示。
なお、今回訪れたときは、これらに加えて午年にちなんで「馬の郷土玩具」約100点の展示されていた。

黒姫山古墳(堺市美原区。古墳時代中期(5世紀中頃)、全長114m、二段築成の前方後円墳。後円部の埋葬施設は盗掘により破壊・消滅。)
前方部中央の竪穴式石室から鋲留短甲24領・衝角付冑11領・眉庇付冑13領のほか大量の鉄製武具・武器が出土。第17代履中天皇の皇后黒姫の墓とも伝えられているが丹比氏の古墳とも? 中世に砦として使用。
歴史博物館のすぐ西にあるが、一旦、南に下がって阪和自動車道沿いを西進しなければいけない。道路の新設整備中なので、これができれば迂回しなくても行けるようになる?

ガイダンス施設に立寄る。
古墳のリーフレットあり。
5回/日、決った時間に映像を流すだけ・・・管理人さん?がいたのだけれど、無愛想~で、話しかけるも応答なし。
施設の南に石室を復元展示。
天井石が2枚
残りはどこ?

周濠に沿って東北から南側を西北まで移動。
以前は陸橋があり墳丘に上がったような記憶があるのだが・・・水濠とフェンスで立ち入り不可。
前方部西面のテラスに復元・円筒埴輪が並べられていた。
黒姫山古墳の西、府道309号を北進。
鍋宮大明神碑(堺市美原区。日本御鋳物師発祥地)・太井遺跡(大保の南側)
道の西沿いに「日本御鋳物師発祥地碑」。 その奥に「鍋宮大明神碑」と「大保千軒之碑」。
この辺りは、百済系の鋳物師の集落跡。奈良時代には和同開珎や東大寺大仏、平安~室町時代には梵鐘(「河内国丹南郡○○」の銘)・鰐口・風呂釜の鋳造に従事したものの、南北朝の動乱の頃に新たな庇護者と需要を求めて全国に分散したとのこと。
「日本御鋳物師発祥地碑」には、
鍋宮大明神は別名烏丸大明神とも称し千余年以前この地域一円に居住していた御鋳物師達が、その祖神石凝姥命を主神として祭祀した御社であり、明治初年廃社となって広国神社に合祀されている。この地は鍋宮大明神神域の一部であって史蹟地として昭和四十四年十月、地元有志によって碑石を建立し永久に記念したものである。当時の御鋳物師達は中世紀以降全国各地に移住し、今では河内鋳物の往時をしのぶ面影もないが、この地域は鋳物発祥の地であり、日本文化発展に寄与貢献した御鋳物師達とその末裔の功績を永遠に讃え顕彰するものである。
また、「大保千軒之碑」には
国々の鋳物師、いづれにありても皆石凝姥命の苗末裔にて藤原朝臣河内国丹比の大保の系図にたがふことなし 皆大保村の鍋宮大明神の産土神なり
さらに、
平安時代末から室町時代にかけて、大保を中心に美原町(河内国丹南郡)周辺は、河内鋳物師と呼ばれた鋳造技術集団の本拠地であった。
河内鋳物師は高度な技術を駆使して、東大寺大仏の補修、鎌倉大仏の造営、社寺の梵鐘、仏具、農具、河内鍋、お釜等の生活用具まで、多種多様な鋳物製品を全国に供給しており、その繁栄ぶりを大保千軒と呼称された。
大保は、鋳物師の長に朝廷より賜った官位でそのまま地名になっている。
府道309号を挟んで鍋宮大明神碑の東北に
広国神社(堺市美原区。主祭神:第二十六代安閑天皇=廣國押武金日命)
本殿の横に鍋宮大明神(烏丸大明神)の小さな祠。



境内に黒姫山古墳石室の天井石一枚(水路の橋として利用されていた)と鋳物製の大鍋(「河内鍋」。径140cm)を展示。
鳥居横に説明板が有るのだけれど文字が消えて判読できない。ここまでの堺市市内の説明板は似たような状態、なんとかならないものか・・・。

畦道や昔ながらの路地を抜けて北進。


来迎寺(松原市。融通念仏宗)・丹南藩陣屋址
府道2号(竹内街道?)を背にして来迎寺があった。山門は南西側。
天平3年(731)、狭山池の水利工事で亡くなった方を供養するために行基が毘沙門天を祀ったのが始まりとか・・・。
門前に「丹南藩主高木主水正陣屋址」の石碑。
丹南藩? ・・・ 徳川氏の旗本。大阪夏の陣において「平野の戦い」で真田軍を敗退させた功績により当地で1万石の藩主になったそうな。
来迎寺から中高野街道を北上し、途中、右折(東進)して丹比柴籬神社へ。


途中、岡で竹内街道とクロス。 ポケットパークには「中高野街道」の石碑。
高野街道?・・・京・大坂から高野山への参詣道。京を起点とする東高野街道、大坂・杭全神社近くを起点とする中高野街道、大坂・四天王寺を起点とする下高野街道、堺を起点とする西高野街道の4ルートがあり、合流して河内長野市で一本になる。高野山近くの「町石道」は咋秋に訪ねた。
竹内街道?・・・難波と大和飛鳥を結ぶ幹線道路であった丹比道を整備・拡張して造設されたとも、日本最古の官道。書紀巻第二十二推古天皇二十一年(613)の条に「難波より京に至る大道を置く」とある。




丹比柴籬神社(松原市。5C後半の創建。河内丹比の柴籬宮)
第18代反正天皇(仁徳天皇第三皇子。「倭の五王」のひとり「珍」?)の都跡との伝承。
書紀に「冬十月、河内の丹比に都を造った。これを柴籬宮という。」とある。
この日、「開運松原六社めぐり(※)」の開催中のためか、多くの参拝者が見られた。
※ 年の始まりに阿保神社・阿麻美許曽神社・我堂八幡宮・柴籬神社・布忍神社・屯倉神社の六社を「めぐり・はじめる」参拝により、神々のご加護のもと、より良い年となるように開運を祈するものとのこと。
松原市郷土資料館(松原市)
丹比柴籬神社の北隣、松原市民ふるさとピアザ1階。無人・無料。
旧石器時代などの出土品の展示をはじめ、難波大道や大和川の付け替えの解説など。
丹比大溝(松原市)
近鉄河内松原駅前にある「ゆめニティまつばら」に付設された立体駐車場の南から南西方向に幅10mほどの未利用地がのびている。あるはずの説明板が見当たらない。
この大溝は、狭山池から大和川に流入している東除川と西除川を結んだ水路。延長4km、幅10m、深さ3m。羽曳野丘陵から派生する段丘上をほぼ標高23mの等高線に沿って開削されている。灌漑用だけではなく運河としての役割も担っていたか?
約3時間半の散策。
今回、予定していて行けなかった「大塚山古墳」と「大津神社」は、今後の楽しみ・・・。
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今回は、近時、何かと話題(徳洲会病院)の多い松原市界隈を歩いた。
近鉄・河内松原駅前バスターミナル③番から近鉄バス・余部行に乗って15分ほどで下黒山BS下車(運賃240円)。
ちなみに車両はISUZUの中型ERGAmio。乗客は私だけの貸切。DRさんに尋ねると午前中、駅発の乗客はほとんどいないとのこと・・・。
丹比神社(堺市美原区)
下黒山BSから東南東、古い家が並ぶ細い道を歩くと直ぐに新興住宅の並ぶその南に林が見えた。
反正天皇の名代である丹比部の管理者であった丹比連の祖神を祀る。のち宣化天皇の末裔・丹比公(のちに真人)の支配地に替わったため多治比真人一族の祖神を加えた?
主祭神は火明命と瑞歯別命とのことなのだが、この火明命(天照国照彦火明命)、がよく分からない。
書紀では天忍穂耳命の子で、邇邇芸命の兄とも父とも・・・。
古事記では天火明命と表記。
先代旧事本紀には物部連の祖である天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
播磨国風土記では大己貴神の子とも・・・。 さてさて、如何~。
境内に入ると直ぐに目に付いたのが「多遅比瑞歯別の命 産湯の井戸」。 以下、その碑文。
仁徳天皇と磐の媛の間にお産れになった皇子で若松宮と称し、この井戸の水で産湯を使わしめられたと云う事が今の世まで語り傳えられている この人は後の十八代反正天皇のことである。
「多治井(丹比)氏」には、左大臣となった嶋をはじめ、かぐや姫の求婚者のひとり平城京の造営長官であった池守や催鋳銭司(和同開珎の鋳造総責任者)であった三宅麻呂(※)がいる。
※『続日本紀 巻第四 元明天皇』和銅元年(708)2月11日。
なお、碑文には命の名の「遅」は「羊」ではなく「寺」をあてていた。
また、古事記(下巻)に反正天皇の出生記事があるがその場所の記載はなく、書紀(巻大十二)は誕生地を淡路島としている。
記紀ともに反正天皇の記事は異常に少ないが、何故?
拝殿から見る参道は長い。
両側の新興住宅地を過ぎると道も狭く古い家並みが続き、往時の勢いを感じる。
丹比廃寺跡(徳泉寺跡。堺市美原区)
美原体育館とグランドの間の道を東進すると道路の右(南側)にコンクリートで固められ一段高くなったところに石碑と礎石が現われた。道路の北側の段上にも小さな祠、ということは遺構が道路により分断されている?
以下、説明板の表記、
塔の心礎と出土する古瓦から奈良時代前期に創建された丹比氏の氏寺と考えられる大寺の跡です。
いい伝えによると、弘法大師によって開創された徳泉寺は、天正年間織田信長に反旗をひるがえした松永久秀によって伽藍が破壊されるなど、破壊と再興を繰り返しましたが、昭和14年火災にあい、以後再建されることなく現在に至っています。
とのこと。
一方、「美原町史」には、
松永久秀が徳泉寺の伽藍を破却して徳泉寺城を構えたが、久秀の敗退により破棄されたという。
「河内志」に「在多治井村 松永久秀所拠」とみえる。字名の「徳泉寺」周辺に「城北」・「城北上」・「城北下」・「城山」・「城山南」などがある。
多治井地区の東は、南から北へ台地を浸食して流れる東除川に面する急崖になっており、東からの敵に備えるにはうってつけの場所である。推定地は、古代の丹比廃寺と重複するものと思われる。
とあることから、説明板記載の『破壊』は松永久秀による城への転用(再構築)のことか?
みはら歴史博物館(堺市美原区)
丹比神社まで戻って阪和自動車道の北にある歴史博物館ニ立ち寄る。
以前来た時(15年ほど前?)にはなかった施設。
メインの展示は、河内鋳物師(常設展示室1)と黒姫山古墳(常設展示室2)の2つ。
前者は、平安時代から室町時代にかけて美原地域で活躍した鋳造技術者集団。
展示室のガラス床の下に真福寺(黒山)遺跡の「梵鐘鋳造土坑」を展示。
後者から出土した短甲、冑などを展示。
なお、今回訪れたときは、これらに加えて午年にちなんで「馬の郷土玩具」約100点の展示されていた。
黒姫山古墳(堺市美原区。古墳時代中期(5世紀中頃)、全長114m、二段築成の前方後円墳。後円部の埋葬施設は盗掘により破壊・消滅。)
前方部中央の竪穴式石室から鋲留短甲24領・衝角付冑11領・眉庇付冑13領のほか大量の鉄製武具・武器が出土。第17代履中天皇の皇后黒姫の墓とも伝えられているが丹比氏の古墳とも? 中世に砦として使用。
歴史博物館のすぐ西にあるが、一旦、南に下がって阪和自動車道沿いを西進しなければいけない。道路の新設整備中なので、これができれば迂回しなくても行けるようになる?
ガイダンス施設に立寄る。
古墳のリーフレットあり。
5回/日、決った時間に映像を流すだけ・・・管理人さん?がいたのだけれど、無愛想~で、話しかけるも応答なし。
施設の南に石室を復元展示。
天井石が2枚
残りはどこ?
周濠に沿って東北から南側を西北まで移動。
以前は陸橋があり墳丘に上がったような記憶があるのだが・・・水濠とフェンスで立ち入り不可。
前方部西面のテラスに復元・円筒埴輪が並べられていた。
鍋宮大明神碑(堺市美原区。日本御鋳物師発祥地)・太井遺跡(大保の南側)
道の西沿いに「日本御鋳物師発祥地碑」。 その奥に「鍋宮大明神碑」と「大保千軒之碑」。
この辺りは、百済系の鋳物師の集落跡。奈良時代には和同開珎や東大寺大仏、平安~室町時代には梵鐘(「河内国丹南郡○○」の銘)・鰐口・風呂釜の鋳造に従事したものの、南北朝の動乱の頃に新たな庇護者と需要を求めて全国に分散したとのこと。
「日本御鋳物師発祥地碑」には、
鍋宮大明神は別名烏丸大明神とも称し千余年以前この地域一円に居住していた御鋳物師達が、その祖神石凝姥命を主神として祭祀した御社であり、明治初年廃社となって広国神社に合祀されている。この地は鍋宮大明神神域の一部であって史蹟地として昭和四十四年十月、地元有志によって碑石を建立し永久に記念したものである。当時の御鋳物師達は中世紀以降全国各地に移住し、今では河内鋳物の往時をしのぶ面影もないが、この地域は鋳物発祥の地であり、日本文化発展に寄与貢献した御鋳物師達とその末裔の功績を永遠に讃え顕彰するものである。
また、「大保千軒之碑」には
国々の鋳物師、いづれにありても皆石凝姥命の苗末裔にて藤原朝臣河内国丹比の大保の系図にたがふことなし 皆大保村の鍋宮大明神の産土神なり
さらに、
平安時代末から室町時代にかけて、大保を中心に美原町(河内国丹南郡)周辺は、河内鋳物師と呼ばれた鋳造技術集団の本拠地であった。
河内鋳物師は高度な技術を駆使して、東大寺大仏の補修、鎌倉大仏の造営、社寺の梵鐘、仏具、農具、河内鍋、お釜等の生活用具まで、多種多様な鋳物製品を全国に供給しており、その繁栄ぶりを大保千軒と呼称された。
大保は、鋳物師の長に朝廷より賜った官位でそのまま地名になっている。
広国神社(堺市美原区。主祭神:第二十六代安閑天皇=廣國押武金日命)
本殿の横に鍋宮大明神(烏丸大明神)の小さな祠。
境内に黒姫山古墳石室の天井石一枚(水路の橋として利用されていた)と鋳物製の大鍋(「河内鍋」。径140cm)を展示。
鳥居横に説明板が有るのだけれど文字が消えて判読できない。ここまでの堺市市内の説明板は似たような状態、なんとかならないものか・・・。
畦道や昔ながらの路地を抜けて北進。
来迎寺(松原市。融通念仏宗)・丹南藩陣屋址
府道2号(竹内街道?)を背にして来迎寺があった。山門は南西側。
天平3年(731)、狭山池の水利工事で亡くなった方を供養するために行基が毘沙門天を祀ったのが始まりとか・・・。
門前に「丹南藩主高木主水正陣屋址」の石碑。
丹南藩? ・・・ 徳川氏の旗本。大阪夏の陣において「平野の戦い」で真田軍を敗退させた功績により当地で1万石の藩主になったそうな。
来迎寺から中高野街道を北上し、途中、右折(東進)して丹比柴籬神社へ。
途中、岡で竹内街道とクロス。 ポケットパークには「中高野街道」の石碑。
高野街道?・・・京・大坂から高野山への参詣道。京を起点とする東高野街道、大坂・杭全神社近くを起点とする中高野街道、大坂・四天王寺を起点とする下高野街道、堺を起点とする西高野街道の4ルートがあり、合流して河内長野市で一本になる。高野山近くの「町石道」は咋秋に訪ねた。
竹内街道?・・・難波と大和飛鳥を結ぶ幹線道路であった丹比道を整備・拡張して造設されたとも、日本最古の官道。書紀巻第二十二推古天皇二十一年(613)の条に「難波より京に至る大道を置く」とある。
丹比柴籬神社(松原市。5C後半の創建。河内丹比の柴籬宮)
第18代反正天皇(仁徳天皇第三皇子。「倭の五王」のひとり「珍」?)の都跡との伝承。
書紀に「冬十月、河内の丹比に都を造った。これを柴籬宮という。」とある。
この日、「開運松原六社めぐり(※)」の開催中のためか、多くの参拝者が見られた。
※ 年の始まりに阿保神社・阿麻美許曽神社・我堂八幡宮・柴籬神社・布忍神社・屯倉神社の六社を「めぐり・はじめる」参拝により、神々のご加護のもと、より良い年となるように開運を祈するものとのこと。
松原市郷土資料館(松原市)
丹比柴籬神社の北隣、松原市民ふるさとピアザ1階。無人・無料。
旧石器時代などの出土品の展示をはじめ、難波大道や大和川の付け替えの解説など。
丹比大溝(松原市)
この大溝は、狭山池から大和川に流入している東除川と西除川を結んだ水路。延長4km、幅10m、深さ3m。羽曳野丘陵から派生する段丘上をほぼ標高23mの等高線に沿って開削されている。灌漑用だけではなく運河としての役割も担っていたか?
約3時間半の散策。
今回、予定していて行けなかった「大塚山古墳」と「大津神社」は、今後の楽しみ・・・。
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2014年01月09日
近江の国・穴太の里を歩く
正月3ヶ日を過ぎてやっと新年の行動開始。
この間、家籠りの日々が続いたためか、体がだるく頭痛。
毎食後、鎮痛剤の世話になっている。

久し振りに冷え込んだ比叡山麓、京阪石坂線の穴太駅周辺を散策。

穴太駒込古墳群
穴太駅を降りて西側、県道伊香立浜大津線を渡る。ここは県道が建設された昭和43年度に、また長さ60mほどのコンクリート壁の場所は、歩道拡幅工事に先立って平成15年度に発掘調査が行われたところ。
今は見る影もないが、昭和43年度に調査した石室が近くの「びわこ老人の家」の敷地内に移築されているとのこと(確認せず!)

県道を横断して比叡山に向かって登ると直ぐに右側の木々の間に由緒ありそうな石の祠、これって何?



仲哀天皇産湯の水
「湖の美が丘」住宅団地・壺坂城跡方面に向け引続き緩やかな舗装道路(※)を登ると、右の林間に井泉に向かう分岐道。
以前はフェンスに囲まれた禁足地で入れなかったのだが、今回、進入口のフェンスだけが無くなっていた。
四ツ谷川を右下に見ながら進むと左方向、一段高くなったところに「高穴穂神社 お旅所」の石柱。裏側には「穴穂神」と彫り込まれている。
その後ろに、まるで古墳の石室のような石囲いの水場。
これが「仲哀天皇の産湯に使った井泉」?
(※)この道、以前、平子谷林道が崩落して登れなかった時に辿った路。
送電線鉄塔のピークを過ぎ、青山城跡の南麓を巻いて壺笠城跡に至る。
尾根にある小さな谷路。倒木が多く登り難いが、 戦国時代の登城路はかくありなんと想わせてくれる趣がある。

高穴穂神社(御祭神:景行天皇、本殿:一間社流造)
伝・高穴穂宮跡
来た道を下り京阪線を越え少し歩くと左手、新興住宅地の奥にある児童公園から「高穴穂神社」の境内に入る。




山側の一段高くなったところに「高穴穂宮趾」の石碑。裏側には謂れが刻まれているようだが風化して判然としない。
境内を本殿に向かう途中に小さな石祠。 これって、何?
正月明けで静かな境内に参拝者は、無し~。
成務天皇は、先帝・景行天皇の遺徳を追頌し高穴穂宮内に祀り「天徳前王社(全王宮)」と称し、これがこの社の発祥と伝わっているとのこと。
鳥居の横に以下のような解説
『第十二代景行天皇、第十三代成務天皇、第十四代仲哀天皇と三帝の都の跡が高穴穂宮と称せられるものである。景行天皇の御代六十一年、仲哀天皇のおられたのは半年にしかならない。穴太を中心に扇状台地を領し都を営まれる好適地であったろうと思われる。現在の高穴穂神社の社殿が内裏のあった跡だとか、又はその西の住宅の中がその跡だとか云われている。』



高穴穂神社から宝光寺・盛安寺に向かう道(古代北陸道?)の脇に、石仏群、祠などが・・・比叡山麓には数多くある。

宝光寺 真如堂とも。
永観2年(984)、一条天皇の生母東三条院藤原詮子(ふじわらのせんし)が、比叡山常行堂にあった阿弥陀仏を祀って今の京都市左京区に造立した真正極楽寺(真如堂)が起こりとされる。応仁の乱で焼け、文明2年(1470)に現在地に移したとのこと。
木造阿弥陀如来立像(重要文化財・鎌倉後期)があるそうな・・・。


盛安寺との間にある観世音菩薩堂の石垣には、石仏が多用されている。



盛安寺(天台真盛宗)
穴太衆積みの石垣が美しい。
一際目立つ太鼓櫓には、天正年間、敵の急襲を知らせた恩賞として、光秀から庄田八石を賜ったと伝わる「明智の陣太鼓」がかかっているそうだ。
山門をくぐると境内には本堂、客殿、そして六体地蔵尊の横に明智光秀公の供養塔。
社伝によると、越前朝倉氏の家臣・杉若盛安(すぎわかもりやす)が天文年間(1532~1555)に再建したとのこと。
坂本城主・明智光秀の祈願所だったこともあり、「明智寺」とも。
天正年間には、明智光秀はもちろん豊臣秀吉が相次いでこの寺に天下泰平、玉体安穏の祈念を行ったこともあったが、元亀年間の兵火で焼失したと伝わっているとのこと。
天智天皇の勅願寺「崇福寺」(すうふくじ)伝来の十一面観音菩薩(重要文化財)が安置されており、正月三が日は特別公開されていた?

門前ニは、昔ながらの「畳屋」さん。

ここで、小雪が散らついて来たので駅に向かう。
湖東の近江富士(三上山)が琵琶湖越しに良く見える。
ここまでで、散策開始から1時間弱ほど。
雪も止み、お昼にはまだ十分時間があるので、駅を通り越して平子谷林道を壺笠城跡へ進む。






穴太野添古墳群(古墳時代後期の群集墳。昭和54年の分布調査で152基を確認)
盛安寺の墓地にはお参りの人がチラホラ・・・。
林道の北側(墓地の反対側)の木々が伐採されている。
墓地を拡張するのだろうか・・・近々に発掘調査が行われる?
古墳が5基ほど確認できる。墳丘上に天井石が露出しているものも。
奥の墳丘は中央部が凹んでいる。盗掘にあったというより壁石そのものが持ち去られた?
この墳丘の裾、西側の藪の中に石組みが見えるが、これは?
歩を進め、昭和61年~62年に17基を発掘調査が行われた古墳公園へ。
12号墳と16号墳のみ石室が露出展示(天井石なし)。
西端の17号墳に掌大の開口部があったので石室内部を撮影。
この比叡山麓穴太周辺の古墳からミニチュア炊飯具・カマドなど煮炊き用土器の副葬やドーム状の天井を持つ石室が、また古墳群から琵琶湖側に下がったところには弥生時代のオンドルや大壁つくりの建物遺構が出土しており、往時、朝鮮半島からの渡来系の人達が住んでいたと考えられている。
風も冷たくシャッターを切る手も凍えてきたので、
林の中の古墳群は次回に持ち越し・・・。
1時間半ほどの散策。
【参考】
12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇は実在性に疑問がもたれている。
景行天皇(大足彦忍代別天皇)は、垂仁天皇の第三皇子。
晩年、即位58年(西暦340年頃?)に磯城宮を離れ、近江の高穴穂宮に移り、当地で即位60年に106歳で亡くなり、翌々年、倭の山辺道上陵に葬られた。
成務天皇(稚足彦天皇)は、景行天皇の第四皇子。即位60年に107歳で亡くなり、倭の狭城楯列陵に葬られた。
仲哀天皇(足仲彦天皇)は、日本武尊(景行天皇の第二皇子)の第二子。即位9年にして病を患い、翌日、橿日宮(香椎宮?)にて死亡。52歳。河内の長野陵に葬られた。
(以上「日本書紀」)
兵主大社の社伝(「兵主大明神縁起」)によれば、『景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社?)に八千矛神(兵主大神)を祀らせた。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太に社地を定め、遷座した(高穴穂宮跡の「元兵主」)。のち欽明天皇の時代、播磨別(兵主族の祖先)らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している』とのこと。
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この間、家籠りの日々が続いたためか、体がだるく頭痛。
毎食後、鎮痛剤の世話になっている。
久し振りに冷え込んだ比叡山麓、京阪石坂線の穴太駅周辺を散策。
穴太駒込古墳群
穴太駅を降りて西側、県道伊香立浜大津線を渡る。ここは県道が建設された昭和43年度に、また長さ60mほどのコンクリート壁の場所は、歩道拡幅工事に先立って平成15年度に発掘調査が行われたところ。
今は見る影もないが、昭和43年度に調査した石室が近くの「びわこ老人の家」の敷地内に移築されているとのこと(確認せず!)
県道を横断して比叡山に向かって登ると直ぐに右側の木々の間に由緒ありそうな石の祠、これって何?
仲哀天皇産湯の水
「湖の美が丘」住宅団地・壺坂城跡方面に向け引続き緩やかな舗装道路(※)を登ると、右の林間に井泉に向かう分岐道。
以前はフェンスに囲まれた禁足地で入れなかったのだが、今回、進入口のフェンスだけが無くなっていた。
四ツ谷川を右下に見ながら進むと左方向、一段高くなったところに「高穴穂神社 お旅所」の石柱。裏側には「穴穂神」と彫り込まれている。
その後ろに、まるで古墳の石室のような石囲いの水場。
これが「仲哀天皇の産湯に使った井泉」?
(※)この道、以前、平子谷林道が崩落して登れなかった時に辿った路。
送電線鉄塔のピークを過ぎ、青山城跡の南麓を巻いて壺笠城跡に至る。
尾根にある小さな谷路。倒木が多く登り難いが、 戦国時代の登城路はかくありなんと想わせてくれる趣がある。
高穴穂神社(御祭神:景行天皇、本殿:一間社流造)
伝・高穴穂宮跡
来た道を下り京阪線を越え少し歩くと左手、新興住宅地の奥にある児童公園から「高穴穂神社」の境内に入る。
山側の一段高くなったところに「高穴穂宮趾」の石碑。裏側には謂れが刻まれているようだが風化して判然としない。
境内を本殿に向かう途中に小さな石祠。 これって、何?
正月明けで静かな境内に参拝者は、無し~。
成務天皇は、先帝・景行天皇の遺徳を追頌し高穴穂宮内に祀り「天徳前王社(全王宮)」と称し、これがこの社の発祥と伝わっているとのこと。
鳥居の横に以下のような解説
『第十二代景行天皇、第十三代成務天皇、第十四代仲哀天皇と三帝の都の跡が高穴穂宮と称せられるものである。景行天皇の御代六十一年、仲哀天皇のおられたのは半年にしかならない。穴太を中心に扇状台地を領し都を営まれる好適地であったろうと思われる。現在の高穴穂神社の社殿が内裏のあった跡だとか、又はその西の住宅の中がその跡だとか云われている。』
高穴穂神社から宝光寺・盛安寺に向かう道(古代北陸道?)の脇に、石仏群、祠などが・・・比叡山麓には数多くある。
宝光寺 真如堂とも。
永観2年(984)、一条天皇の生母東三条院藤原詮子(ふじわらのせんし)が、比叡山常行堂にあった阿弥陀仏を祀って今の京都市左京区に造立した真正極楽寺(真如堂)が起こりとされる。応仁の乱で焼け、文明2年(1470)に現在地に移したとのこと。
木造阿弥陀如来立像(重要文化財・鎌倉後期)があるそうな・・・。
盛安寺との間にある観世音菩薩堂の石垣には、石仏が多用されている。
盛安寺(天台真盛宗)
穴太衆積みの石垣が美しい。
一際目立つ太鼓櫓には、天正年間、敵の急襲を知らせた恩賞として、光秀から庄田八石を賜ったと伝わる「明智の陣太鼓」がかかっているそうだ。
山門をくぐると境内には本堂、客殿、そして六体地蔵尊の横に明智光秀公の供養塔。
社伝によると、越前朝倉氏の家臣・杉若盛安(すぎわかもりやす)が天文年間(1532~1555)に再建したとのこと。
坂本城主・明智光秀の祈願所だったこともあり、「明智寺」とも。
天正年間には、明智光秀はもちろん豊臣秀吉が相次いでこの寺に天下泰平、玉体安穏の祈念を行ったこともあったが、元亀年間の兵火で焼失したと伝わっているとのこと。
天智天皇の勅願寺「崇福寺」(すうふくじ)伝来の十一面観音菩薩(重要文化財)が安置されており、正月三が日は特別公開されていた?
門前ニは、昔ながらの「畳屋」さん。
ここで、小雪が散らついて来たので駅に向かう。
湖東の近江富士(三上山)が琵琶湖越しに良く見える。
ここまでで、散策開始から1時間弱ほど。
雪も止み、お昼にはまだ十分時間があるので、駅を通り越して平子谷林道を壺笠城跡へ進む。
穴太野添古墳群(古墳時代後期の群集墳。昭和54年の分布調査で152基を確認)
盛安寺の墓地にはお参りの人がチラホラ・・・。
林道の北側(墓地の反対側)の木々が伐採されている。
墓地を拡張するのだろうか・・・近々に発掘調査が行われる?
古墳が5基ほど確認できる。墳丘上に天井石が露出しているものも。
奥の墳丘は中央部が凹んでいる。盗掘にあったというより壁石そのものが持ち去られた?
この墳丘の裾、西側の藪の中に石組みが見えるが、これは?
歩を進め、昭和61年~62年に17基を発掘調査が行われた古墳公園へ。
12号墳と16号墳のみ石室が露出展示(天井石なし)。
西端の17号墳に掌大の開口部があったので石室内部を撮影。
この比叡山麓穴太周辺の古墳からミニチュア炊飯具・カマドなど煮炊き用土器の副葬やドーム状の天井を持つ石室が、また古墳群から琵琶湖側に下がったところには弥生時代のオンドルや大壁つくりの建物遺構が出土しており、往時、朝鮮半島からの渡来系の人達が住んでいたと考えられている。
風も冷たくシャッターを切る手も凍えてきたので、
林の中の古墳群は次回に持ち越し・・・。
1時間半ほどの散策。
【参考】
12代景行、13代成務、14代仲哀の3天皇は実在性に疑問がもたれている。
景行天皇(大足彦忍代別天皇)は、垂仁天皇の第三皇子。
晩年、即位58年(西暦340年頃?)に磯城宮を離れ、近江の高穴穂宮に移り、当地で即位60年に106歳で亡くなり、翌々年、倭の山辺道上陵に葬られた。
成務天皇(稚足彦天皇)は、景行天皇の第四皇子。即位60年に107歳で亡くなり、倭の狭城楯列陵に葬られた。
仲哀天皇(足仲彦天皇)は、日本武尊(景行天皇の第二皇子)の第二子。即位9年にして病を患い、翌日、橿日宮(香椎宮?)にて死亡。52歳。河内の長野陵に葬られた。
(以上「日本書紀」)
兵主大社の社伝(「兵主大明神縁起」)によれば、『景行天皇58年、天皇は皇子・稲背入彦命に命じて大和国穴師(奈良県桜井市、現 穴師坐兵主神社?)に八千矛神(兵主大神)を祀らせた。近江国・高穴穂宮への遷都に伴い、稲背入彦命は宮に近い穴太に社地を定め、遷座した(高穴穂宮跡の「元兵主」)。のち欽明天皇の時代、播磨別(兵主族の祖先)らが琵琶湖を渡って東に移住する際、再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を世襲している』とのこと。
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2013年12月30日
古代の河内・金山古墳を訪ねる

近鉄長野線・富田林駅から金剛バス「東見分」行きに乗って約20分(300円)、「芹生谷(せるたに)」で下車。
府道27号をバスの進行方向・南南西に向かって2分ほど歩くと民家の裏に墳丘が見える。

狭い路地を抜けると、眼前に2基の円墳が現われる。
2基・・・どう見ても円墳が2つ並んでいるように見えてしまう。
確かに、同じ濠で囲まれているのだが・・・・。
双円墳?
・・・期待していたのは、円丘の裾が接している姿。
目の前にあるのは、瓢箪型の平坦な地山の上に大小二つの墳丘が10m以上?の間隔を空けて並び立っている。
整備後の墳形は造成時の姿を反映している?
調査前の写真は??・・・微妙・・・くびれ部にトレンチを入れていない???
「金山古墳および大籔古墳の調査(小林行雄・楢崎彰一1953)」では、どのように報告されているのだろう・・・?
調査後、きれいに整形された墳丘・周濠。
周濠を含む全長104m・墳丘長85.8m、くびれ部西側のみ葺石。
南丘径55.4m・高9.4m、北丘径38.6m・高6.8mの瓢形双円墳。

南丘の墳頂部から見た北丘&石室開口部。
北丘の横穴式石室が開口。
花崗岩製の側壁。


両袖式。
玄室と羨道には、蓋には左右の長辺に各二個、前後の短辺に各一個縄掛突起がキレイに残る凝灰岩(二上山白石?)製の家形石棺。
奥の玄室にある石棺(6C後半、長2.36m・幅1.33m・高1.53m)は輝くように白い。
手前の羨道にある石棺(7C初頭、長2.26m・幅1.19m・高1.40m)は風雨にさらされているためか一部に苔、盗掘痕なのか角が擦れているような・・・。
2基とも盗掘を受けており、羨道部石棺の盗掘抗から棺内を覗くと、底に溜まった水と悪戯で入れたのか沢山の拳~人頭大の石が見えた。
南丘についても墓道などの遺構を確認していることから石室の存在が想定されているが、未調査ため詳細は不明。
南丘の墳頂から見た墓道(暗渠)。
コンクリートで蓋されている。
・・・ それでも、双円墳??? (^J^)
※ 近傍の御旅所古墳、御旅所北古墳(石棺2基)、いずれも6~7C
には行かず。 機会を作って訪ねたいと思う。
出土品を展示している千早赤坂村の郷土資料館も忘れずに・・・。
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