2014年02月04日

摂津の国・豊能を歩く

またまた風もなく暖かい日に、阪急電鉄・石橋駅から池田駅の間、ほぼ半世紀振り?の大阪大学・・・、その後、久し振りにインスタントラーメン発明記念館を訪ねてきた。


摂津の国・豊能を歩く
摂津の国・豊能を歩く
阪急電鉄・石橋駅(豊中市)
宝塚本線に箕面線が結節する3面5線の複雑な配線をもつ駅。
大阪大学(豊中キャンパス)の最寄駅のひとつ。駅西側の商店街は阪大生で賑わう。




大阪大学総合学術博物館(待兼山修学館。豊中市)
石橋駅南東の待兼山西端、徒歩10分弱。
企画展「野中古墳と倭の五王の時代」を覘いてきた。摂津の国・豊能を歩く


野中古墳(大阪府藤井寺市)
古市古墳群のほぼ中央部、墓山古墳の北にある一辺が37m・5m高ほどの小さな二段築造の方墳。5世紀中~後半。
1964年、阪大による発掘調査により、組合式木棺と木櫃による並列した5列の主体部から大量の副葬品が出土。とくに鉄製の武器・武具類(甲冑11領ほか)。摂津の国・豊能を歩く


野中古墳における2種類の甲冑の組合わせ
①短甲(板甲)・頸甲(あかべよろい)・肩甲・眉庇付冑・(3号短甲のみ草摺(くさずり))=上半身を鉄製武具で覆った「重装備の武人」。鋲留技法の採用。
・・・2種類の鋲留短甲:三角板(細長い鉄板、帯金の間に三角形の板を用いる5領)と横矧板(横長の長方形の板を用いる3領)
・・・小札鋲留眉庇付冑:透かし彫りの入った眉庇、冑頂部に鉢状の飾りである受鉢・伏鉢、長方形の小型の鉄板である小札で帯金の間を埋めて作られている。
・・・11号短甲は、もっとも新しい横矧板鋲留短甲。この短甲のみ他の甲冑(第1列)とは離れた位置(第2列)に埋納。
②三角板革綴襟付短甲・革製衝角付冑(冑は1領のみ付随)=「伝統的・儀礼的な装束の武人」。革綴技法の採用。
・・・革製衝角付冑:冑の前方部分が船の先端のように尖る。1枚の鉄板で作られた錣(しころ)。冑頂部に金銅を用いた三尾鉄。摂津の国・豊能を歩く摂津の国・豊能を歩く摂津の国・豊能を歩く摂津の国・豊能を歩く摂津の国・豊能を歩く




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冑は、短甲の中に納められ、入れ子状態で埋納。





鉄刀(片刃の直刀、平均の長さは87.4cm)153本、
鉄剣(両刃、64.0cm)16本、
鉄鉾3本。
一部は第1列に埋納されていたが大部分は第4列。
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出土した鉄鏃の型式と個体数
740本、それぞれが束ねられた10のまとまり(1~10群)出土。
平面形状から5種類に分類。
①腸抉柳葉式鏃(わたくりやないばしきぞく):腸抉と呼ばれる刳り込みを持つ。
②鳥舌鏃(ちょうぜつぞく):細身で刃がS字を描く。
③短頸鏃(たんけいぞく):矢柄の接続部に軸状の頸部を持つ。
④独立片逆刺鏃(どくりつかたかえしぞく):刃部だけでなく頸部に逆刺を持つ。
⑤長頸鏃(ちょうけいぞく):長い頸部を持つ。
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摂津の国・豊能を歩くその他の出土品
鉄製農工具、鉄釘、36kgの鉄鋌、石製模造品、陶質土器・須恵器・土師器、円筒埴輪、形象埴輪など

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駒ヶ谷北古墳出土の方格規矩鏡
・・・三角縁神獣鏡より気になる存在



常設展示室にマチカネワニの化石の復元骨格などの展示有り。




阪大を出て北西に進み、箕面線を渡り、国道176号を西に向かい池田駅方面に進む。
鉢塚交差点を北に住宅街を進むと神社の杜が見える。

五社神社・鉢塚古墳(祭神:穴穂大神ほか。池田市)
社伝では、聖武天皇の天皇神亀元年(724)、僧行基が当地に多羅山若王寺を創建し、その鎮守として神社を勧請したとか。摂津の国・豊能を歩く


拝殿前に天保5年(1834)に寄進された「浪花型狛犬摂津の国・豊能を歩く摂津の国・豊能を歩く







拝殿の右、東側を奥に進むと古墳がある。羨道までは自由に入れるが、そこから先に柵があるので玄室(奥の院)に入るには社務所に申し出ると開錠してくれる。 要300円以上の賽銭。
摂津の国・豊能を歩く

摂津の国・豊能を歩く

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以下、説明板の記載
本墳は上円下方墳と云う特異な墳形と巨大な横穴式石室を有する大阪府下有数の古墳である。
その兆域は五社神社境内に含まれる南面の周濠や墳丘の一部が削られている外は累々完好な状況を保ち周濠の形跡も明瞭である。
石室は両袖式で南面に開口し奥行全長15米(内玄室7米、羨道8米)玄室高さ5米、幅4米、羨道高さ2米、幅2米を算える。
被葬者は不明であるが6、7世紀頃この地方を統轄した首長の墳墓と見られる。 
尚、玄室内には重要文化財指定の石造十三重塔が祀られ相輪が後補である以外はよく旧規をとゝめ各屋蓋に上層の軸部を造出す形式のもので軒口厚く隅反りがあり鎌倉時代の特色を示している。

とあるが、池田市による平成5年の外形調査では基底部径約45mの円墳、また平成6年の石室実測で全長14.8m、玄室の長さ6.48m・高さ5.2m・幅3.2m、羨道の長さ8.4m・高さ平均約2m・幅平均1.8mを得ている。

神域なので、写真撮影は2~3枚にして欲しいとのこと。
石室・羨道とも中段から下の壁面には大きな石、上段は持ち送りのドーム状。
玄室・羨道ともに3枚の天井石。
壁石の所々にクラックが見られ、石の間にモルタルを施し補強している。

ところで、一説にはこの神社、4Cの初め頃、神功皇后が三韓征伐の後、新羅から持ち帰った鉄鉢を当地に埋めた。のち、奈良時代になって行基が掘り起し聖武天皇の勅により「鉢多羅山・若王寺 釋迦院」を建立し、その鎮守社として「五社神社」が建てられた、とか。
さて、何故、神功皇后はここに鉄鉢を埋めたのか?
古代史研究家・池田仁三は、コンピュータによる画像解析により、石室内から陵主の墓碑銘(?)「息長宿禰命」(2世紀?頃の皇族、第9代開化天皇の玄孫・神功皇后の父)を読み取ったとか。
だとすれば、釈迦の鉄鉢を戦勝記念に父が眠る墓に埋めたということか・・・?

なお、この神功皇后の三韓征伐勝利にあやかり、後に秀吉が朝鮮出兵に出向いた際、ねねが戦勝祈願に訪れたとか ~ 。


境内を出て国道176号、阪急線を越えて「有馬道」方面へ・・・

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猪名津彦神社(祭神:猪名津彦とは阿知使主・都加使主の親子。池田市)
猪名津彦大明神由来として、以下の顕額あり、
当猪名津彦神社は後漢の孝献皇帝(霊帝)の聖裔阿智王都加王の両人を祀る所で延喜式に云う摂津國豊島郡鎮座の神社である。 
日本書紀に応神天皇20年秋9月阿智使主其子都加使主は部下17県の人達を連れて我國に渡来し大和國桧隈に住居を與へられ同天皇37年春2月両人を勅使として呉國に縫工女を求めしめんとされ呉王より兄媛弟媛烏沙架女幾利区珥女の4婦女を與へられ同41年春2月阿智使主等呉國より筑紫に帰着したがムナ形大神の乞に兄媛を差し上げ他の3婦女を伴い摂津國武庫に到る時天皇崩御の報に接し献ずるを得ず後仁徳天皇は居館を豊島郡為那野に造営し羅綾織絍の業を専らにされその功績により此の地を呉服と名付け反成天皇は勅令を持って送り名をされ猪名津彦大明神とし之が倭漢直の祖である。 
降って允恭天皇の時その子孫忘奴手直に坂上姓を弟奴留間直に秦姓を賜う。 
文化年間に古墳の盗掘がはやり、阿智使主の傳えられた所も其の例に漏れず行はれ此の所より珠塗の棺の破片人骨の若干を持帰へり猪名津彦大明神跡に埋葬し御霊は現地に御祀りしものです。(伊居太神社の文章を書写・・・から)

また、「呉服校区の歴史よもやま話 宇保と猪名津彦」として
(前略)宇保町は13世紀の初め鎌倉時代にはすでに律令制による豊嶋北条宇保邑19条として「勝尾寺文書」に記録されています。 
平安時代この一帯は河内国土師氏の子孫坂上氏が来て開墾した「呉庭の庄」と呼ばれた荘園でした。 
坂上氏の祖先は「猪名津彦神社」の祭神「阿知主使」「都加主使」の親子で中国後漢霊帝の曾孫に当たる渡来人です。 
池田の呉織・穴織伝説の織姫を呉の国から連れて来て仁徳天皇に奉った人物です。 
神格化された猪名津彦となられました。 
また源義仲が多田に勢力を持つようになり多田院を中央政所とし東政所を宇保に定めました。 
このような由来で宇保は坂上氏の菩提寺「禅城寺」が建てられ「池田の観音さん」として有名でした。 
猪名津彦神社は元猪名津彦を葬った横穴式円墳と小さな祠でした。 
今も境内には古墳に用いられた巨石や古木の切り株が残っています。 
文化2年(1805)石棺が開けられると朱に染まった遺物が発見され伊居太神社の神官がこれを持ち帰って境内に埋葬し直しました。 
長い年月が経過して伊居太神社に預けられていた古墳のご神体は昭和33年高床式本殿と拝殿が建てられて再び神体が勧請されて祀られたのが現在の社殿です。・・・・

摂津の国・豊能を歩く

この神社そのものが古墳(宇保猪名津彦神社古墳)の墳丘上に建っている?
境内の隅に注連縄を施した大岩・・・これは古墳の石室に使われていた?


摂津の国・豊能を歩く染殿井(池田市)

呉織・穴織の二人の姫が糸を染めるのに水を汲んだと伝わる井戸跡に立つ石。

染めた糸や反物を干したのが山上の「衣懸の松」・・・。
空を仰いで故国を偲んだという。

また、夜遅く暗がりの中で熱心に機織りをしていると7つの星が降ってきて光が満ちたお蔭で作業を進めることができた、とか
・・・秦氏が持ち込んだ「妙見信仰」か?








北に進むと、

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インスタントラーメン発明記念館(日清食品。池田市)

1958年、安藤百福は池田の自宅裏庭に建てた小屋で研究を重ねチキンラーメンを生み出した・・・とか。 

いま、発明記念館の1階に小屋が復元され、館外に銅像が立つ。
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また、館内1階に日清食品の歴代パッケージが展示されたインスタントラーメン・トンネルやカップヌードルの発明に至るエピソードを映すドラマシアター、売店、2階にオリジナル・カップヌードルを造ることができるマイカップヌードルファクトリー(要300円)、手作り体験工房のチキンラーメンファクトリー(要500円)がある。
この日は土曜日、ちびっこを連れた家族などで賑わっていた。。

引続き北進すると
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阪急電鉄・池田駅(池田市)

駅前広場に「衣被(きぬかずき)」のモニュメント。

駅舎の2F西端に「いけだ市民文化振興財団」、
駅の南東(インスタントラーメン発明記念館方向)に観光案内所・物販。


この日、11時~16時頃まで散策。
渡来系氏族である秦氏の痕跡が多く残る池田市。
次回、機会があれば、今回、訪ねることが出来なかった阪急・池田駅の北側、伊居太神社(上・下の両宮)、池田城跡、娯三堂・茶臼山・五月ケ丘・二子塚などの古墳を訪ねてみたい・・・。

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Posted by あきさん at 10:35│Comments(0)古代大阪古墳歴史神社
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