この広告は365日以上更新がないブログに表示されます。  

Posted by 滋賀咲くブログ at

2014年06月20日

大和国・平群の谷を歩く~古代の祭祀遺構を訪ねて(その1)

少し甘く考えていた。
1日あれば思っている所のすべてを巡ることが出来る、時間を要しても半日ほど足せば・・・。

結果、延べ3日もかけることとなった奈良県の北西部、東西を生駒山地と矢田丘陵に挟まれ、中央に竜田川、南に開く「平群谷」の史跡探訪。



[初日]20,397歩
近鉄・平群駅⇒(中央公民館・教委)⇒ツボリ山古墳⇒(藤田家)⇒普門院⇒白山神社⇒楢本神社⇒紀氏神社⇒吉備内親王墓⇒長屋王墓⇒三里古墳⇒船山神社⇒平等寺春日神社⇒椿井井戸⇒宮山塚古墳⇒椿井春日神社⇒宮裏山神社⇒椿井城(南郭)跡⇒椿井石仏⇒烏土塚古墳⇒平群神社⇒西宮古墳⇒(教委)⇒平群駅

[2日目]24,561歩
平群駅⇒(白石畑集落)⇒三里城跡⇒船山神社⇒船上神社跡⇒下垣内城跡⇒西宮城跡⇒西宮古墳⇒近鉄・竜田川駅

[3日目]24,516歩
平群駅⇒船上神社跡⇒船石⇒(白石畑集落)⇒三里城跡⇒平群駅/竜田川駅⇒石床神社旧社地⇒石床神社・消渇神社⇒四ツ辻古墳⇒剣上塚古墳⇒竜田川駅/近鉄・元山上口駅⇔まぐわ淵

それでは、初日から・・・。
近鉄・生駒線、以前に乗車してから10数年・・・所どころ単線、4両編成、ワンマン運行、車内のロングシートに乗客は1~2名で空気を運んでいる状態、朝夕の通勤時はどうなんだろう?
電車は、谷間に田園と丘陵に広がる新興住宅地の中を進む。平群駅で下車。
ご同輩の姿が、チラホラ・・・。
西に信貴山城を仰ぎながら、整備中の埃っぽい駅広を抜け、まずは、西に~。


由緒ありそうな勝出山長楽寺
門前には、『本尊 聖観音立像(勝出山観音) 用明天皇2年(586)聖徳太子が建立・・・聖徳太子が仏敵の物部守屋を討伐に於いて、ここで石上に坐り、軍法を鑑み、護法四天王に祈念して曰く、我をして敵軍に勝たし給えば必ずここに寺塔を建立して神仏を弘通せんと、毘沙門天王が現れて軍法の授けあり。 戦勝を得られ、ここで聖徳太子は毘沙門天本地仏聖観音立像を刻まれて安置さる。・・・(鑑石は今本堂の前にあり)』と縁起を書いた札が掲げれている。


寺の前に町役場、観光産業課で観光マップほかを入手。
竜田川にかかる橋を渡ったところの中央公民館内にある教委で烏土塚古墳の鍵を借用し、展示されている上山1号墳の出土物などを見学。



公民館を出て、灰田川に並行して福貴住宅団地の南沿いを西に上がっていくと右側にツボリ山古墳の表示。
住宅地の中、1区画だけ残された墳丘は、辺20mほどの方墳? 

[概要]7C初頭。
両袖式横穴石室で南に開口。
石室床は石敷。
前庭部に人頭大の閉塞石。
玄室のL=4.25m、W=2.2~2.55m、H=2.45m。
羨道のL=4.65m、W=1.7~1.82m、天井石なし。
玄室と羨道に各1基の二上山白石凝灰岩製の刳抜式家形石棺。
玄室内石棺の蓋石が奥壁側にずり落ちた状態で半分残存。








さらに西に上り、ハウス畑の中、田舎道に入る。
間もなく、藤田家
ここは、重文の大和棟民家。
当初、ここまで足を延ばす予定はなく予約を入れてなかったので見学は不可。 




築地塀沿いに進むと普門院跡
荒廃していた法隆寺夢殿を再建した高僧・道詮律師の住坊で、重文の貞観仏・聖観音立像を祀っている。


南の谷に下って白山神社
道詮律師の隠居寺・福貴寺の神宮寺。



このあと東に坂道を下って、再び竜田川を渡り、住宅地の外れ、畑地の中に楢本神社
目立つのは狭い境内を取囲む石灯籠。祭神は菊理姫命。
水滴に宿る神で、産土神(生命の根源の神)にあたる。
元は東 500m付近の丘の上にあった雲甘寺という寺の鎮守社で、明治初年に寺が廃されことに伴い現在地に遷座されたとのこと。



栽培されている菊畑の中を東に向かう。
平群を散策していると、アチコチに菊畑を見る。



近鉄線を越えて外川に沿って東進すると大きな木が印象的な紀氏神社。 
平群に鎮座する紀氏の氏神の社で、平群氏の同族・紀氏の末裔である紀船守が、祖神の平群木菟宿禰を祀ったもの。
元々、現在地より2kmほど南の「椿井」にあったとか~。



南に向かって進み、楢本神社の御旅所下を過ぎた先、丘陵斜面の石段を登りつめると、家々に囲まれて吉備内親王墓


すぐ南東の御陵公園に長屋王墓


いずれも小円墳(Ф=20m、Ф=15m)、後者は前方後円墳・梨本南2号墳の後円部を再利用したものとか・・・。
周辺には10基ほどの古墳が建造されていたそうな・・・。

続日本紀の「巻第十 聖武天皇 天璽国押開豊桜彦天皇」天平元年二月十三日に、
遣使葬長屋王吉備内親王屍於生馬山。
と、「長屋王と吉備内親王の遺骸を生駒山に葬った」とあるのだが・・・ここも生駒山? いや、改葬したのかな??

案内表示に従って南東に進み、三里の集落、農家の庭に続く坂道を上がると北側に石室の下部が剥き出しになった6C後半の三里古墳
羨道の手前には豊かに実った梅の実・・・。
以下、発掘調査結果から、全長≒35m、後円部Ф≒22mの前方後円墳?
奥壁下部に石棚が残存・・・紀ノ川流域の古墳に類似例、紀氏の関係?
横穴式石室は南西に開口する両袖式、玄室長4.9m、幅2.4m、高さ約3.2m羨道長約7.0m、幅1.3~1.4m。
玄室西寄りに組合せ式家形石棺、羨道奥の東寄りに組合せ式箱式石棺、その他玄室東側・石棚上下・羨道前面に複数の木棺を追葬。
(※ データは直近の平群町教委資料に依ったもので、現地の奈良県教委による案内表示とは齟齬がある。)



南へ船山神社に向かう路傍に野仏。



祭神は、船山神、天津兒屋根命と住吉大明神。
春日神社の境内地に、大正4年頃、中ノ宮の船山神社(旧社地は南東200mで、東光寺の東側)を合祀したとのこと。
拝殿に続く石段を上がり切った右手に船形の手水石。
さらに、その先に鳥居・・・拝殿は石壇によって一段高くなっているのだが、その石壇から突き出た陽石。
下には、それを支える2個の円形状の石。 
陽石の左下にも陽石(石棒)。





境内下の説明板に「境内後方の矢田丘陵八合目付近には丸木船状の三つの巨石があり、神が乗って地上に下ってきた船石として信仰されてきた。
・・・、近世に船石付近に祀られていた船上(船神)神社を山麓の船山神社に合祀したともいう。」とあったので、船石を求めて本殿の裏山を急斜面・落葉に悪戦苦闘しながら30分ほど探索したものの見つからず退却。

山麓を南に進み、平等寺春日神社(祭神は、天兒屋根命。「なもで踊り」の奉納絵馬あり。)


途中、「近畿自然歩道」案内柱の近くに矢穴のある数個の転石・・・昔、石切場だった?


椿井春日神社は、甲大明神とも・・・境内の宮山塚古墳から出土した兜を御神体としていた?
先ほど訪ねた紀氏神社、元は椿井邑にあったとのこと・・・この春日神社かも~

境内の北西部、椿井城の土塁遺構(基底部幅7m・高さ2.5m・上部幅2m)の南端・楼台の下部に宮山塚古墳の石室が開口。
東西≒26m・南北≒24m・高さ≒.7mの円墳。
奈良県では最古級の横穴石室を持つ玄室は、L=4.1m・W=2.9m・H≒3.3mの右片袖式。壁はいずれも、紀ノ川流域・岩瀬千塚古墳などに見られるような平板の割石を小口積み、下部1mを垂直、上部をドーム状に持ち送った「穹窿型石室」。奥壁中央の上下2ヶ所に龕状施設(壁を窪ませた燭台?)。羨道は、L≒0.8m・W=1m・H=1m。近畿地方の導入段階となる5C中期~末期の築造。





椿井城跡の南ルート登山口の下に椿井井戸があり、説明板に「聖徳太子と平群神手将軍の逸話」として、以下のような記載、



物部守屋を征伐する際に苦戦し、神手将軍が領地のこの地に椿の杖を突き立て、戦勝を祈願された。(平群氏の祖先を祀る春日神社を参拝した時ともいわれる)
すると一夜にして杖が芽を吹いて葉が繁り、傍から冷泉が湧き出し、汲めども尽きなかった。
これは、戦いへの瑞祥であると大いに喜ばれ、太子と共に飲まれた。
兵士達にも振舞ったところ士気が大いに上がり、守屋戦に大勝することが出来たという。
以来、「椿井」と称して大切にされ、地名の興りとなったとのこと。


登り始めると、すぐに宮裏山古墳
径≒15m・H≒4.5mの円墳。6C後半~7C初頭の築造。
羨道部が、僅かに開口。
天井石の一部が露出しており、その隙間から玄室の一部を窺うことが出来る。
石室には入れないのだが、玄室のL=3.9m・W=2.0m・H≒3.2m、羨道L≒4.4m・W=1.1m。
奥壁は縦長の台形で垂直、側壁及び前璧は内傾し、天井は奥ほど高くなっている・・・とか。



山腹を10分ほど登り詰めると尾根の三叉路に出た。
尾根を北側に進み、小堀切を過ぎると土橋のかかる堀切と東西両側に竪堀。



これを上がると椿井城南郭の出郭(南副郭、標高217m)。
平坦な郭の最南端に僅かに残る土塁遺構。


真西に信貴山城跡を望める。


さらに進むと大堀切。




南郭の主郭側の斜面に石垣遺構? 上がって、南郭の主郭部、標高220m。ここも最南端部に土塁遺構。





北に進み尾根の鞍部。
ここから先は遺構保全のため立入禁止なので北郭には入れず、北ルート(大手道)を春日神社に向かって下山。 
途中、マムシに遭遇・・・久し振り~。

椿井城・・・中世・戦国時代に平群谷を支配していた嶋氏(島氏とも。
「三成に過ぎたるものが~」と謳われ、石田三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕えたあの嶋左近清興の出自?)あるいは、それ以前に椿井氏によって築かれたなど諸説あるそうな~。
南北2つのピークに主郭と副郭を設け、それぞれに陵線上に曲輪を配置する連郭状の山城。
現在、立入禁止となっている主郭(北郭)の早期整備、見学の制限解除が待たれる。


下山後、西に向かう。 
石棺仏のような笠石仏如来像、竜田川、近鉄・竜田川駅を経て、烏土塚山古墳


西の釣り池側から墳丘に上がり前方部から後円部の南に開口する横穴式石室に至る。古墳時代後期の6C後半の古墳。石室石材は、ご当地・越木塚の井文字川産(片麻状黒雲母花崗岩)
丘陵上に北面する前方後円墳。L=60.5m、後円部Ф=35m・H≒8m、前方部W=31m。 両袖式石室の玄室L=6m・W=2.8m・H=4.3m、羨道L=8.2m・W=1.6~1.9m・H=2m(天井石なし)。前璧・奥壁は垂直、側壁は内側に傾斜。
玄室に二上山産の白色凝灰岩製・組合式家形石棺の底石と3面の側石が残存。石棺の東外側面に斜格子文の線刻があるそうなのだが・・・確認できず。
羨道にも石棺底石が残存。
平群谷の展望良好。北側に西宮古墳、西宮城跡、平群神社の杜。
なお、石室は施錠されているが、教委で鍵を貸出し。
羨道部石に石切時の加工痕があるが、・・・新しい??











フェンス沿いの細道、畑の中を通り平群神社
由緒掲示板によると、祭神は大山祇神、平郡氏の祖・武内宿禰が神宮皇后と共に朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願しこの地に祀ったとある。
割拝殿になっているが、本殿は格子のあいだから僅かに見ることが出来る。



西に上り中央公園入口に西宮古墳
辺=36m・H≒7.5m・三段築成の方墳。南面を除く3面に周溝。
南に開口した整美な石室は床面が2段目のテラス面、天井石の上面が1段目のテラス面に合わされている様子。
玄室は、奥壁・側壁・天井のすべてが越木岩産の1枚石で構築されており、それら石材の間隙を埋める漆喰を確認できる。
玄室L=3.6m・W=1.8m・H=2.1m、羨道L=(床面)10.1m・(天井部)5.7m・W=1.7~1.8m・H≒1.8m。
石室内、玄室と羨道の両方に跨る位置に棺蓋のない棺身だけの竜山石製・刳抜式家形石棺。
7C中頃~後半の築造。







西宮城跡・下垣内城跡の表示に気をひかれつつ中央公園を抜け、剣上塚古墳まで0.3kmの表示を横目に中央公民館に到着したのは17時過ぎ。 教委に鍵を返却し、平群駅に至る。


※ 平群氏・・・浮き沈みの激しい氏族だったようで、書紀「巻第十 譽田天皇 應神天皇」に、
是歳、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。
~ つまり、「この年(応神3年に)百済の辰斯王が王位に就いたけれど貴国(倭)の天皇に礼を失することをしたので、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を遣わして、その礼に背くことを責めさせた。・・・」と。

八月、遣平群木菟宿禰・的戸田宿禰於加羅、仍授精兵詔之曰「襲津彥久之不還、必由新羅之拒而滯之。汝等急往之擊新羅、披其道路。」於是木菟宿禰等、進精兵、莅于新羅之境。新羅王、愕之服其罪。乃率弓月之人夫、與襲津彥共來焉。
~ 「(応神16年)8月、遣平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に遣わした。・・・木菟宿禰らは精兵を進めて、新羅の国境に臨んだ。新羅王はこれを恐れてその罪に服した。・・・」とあり、軍事に従事する氏族として活躍していたことが覗える。

次の「巻第十一 大鷦鷯天皇 仁德天皇」に
元年春正月丁丑朔己卯、大鷦鷯尊卽天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波、是謂高津宮、卽宮垣室屋弗堊色也、桷梁柱楹弗藻飾也、茅茨之蓋弗割齊也、此不以私曲之故留耕績之時者也。初天皇生日、木菟入于産殿、明旦、譽田天皇喚大臣武內宿禰語之曰「是何瑞也。」大臣對言「吉祥也。復、當昨日臣妻産時、鷦鷯入于産屋、是亦異焉。」爰天皇曰「今朕之子與大臣之子、同日共産、並有瑞。是天之表焉、以爲、取其鳥名各相易名子、爲後葉之契也。」則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子、取木菟名號大臣之子曰木菟宿禰、是平群臣之始祖也。
~「・・・。仁徳天皇が生まれた日、木菟(ミミヅク)が産屋に入ってきた。翌朝、応神天皇が武内宿禰を呼んで「これは何のしるしだろうか」と言われた。武内宿禰は答えて「めでたいしるしです。きのう私の妻が出産するとき、ミソサザイが産屋に入ってきました。これもまた不思議なことです。」と言った。そこで天皇は「今、わが子と大臣の子が同じ日に生まれた。どちらにもめでたいしるしがあった。これは天の思召しだから、その鳥の名をとって交換し子に名づけ、後のしるしとしよう。」とおっしゃった。それでサザキの名をとって太子の名とし大鷦鷯皇子、ミミヅクの名をとって大臣の子に名づけ木菟宿禰といった。これが平群の臣の始祖である。」

子どもの名前を取り換えるとの申し出が天皇からあるほど、平群氏の力があったことを窺い知ることができる逸話である。
この平群の地は、仁徳天皇の時代となる5世紀前半にまで遡る古墳がなかった地域である。

さらに「巻第十二 去來穗別天皇 履中天皇」に、
爰仲皇子畏有事、將殺太子、密興兵圍太子宮。時、平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主、三人啓於太子、太子不信。
~ 帝位につく前、太子が同母弟の住吉仲皇子が兵を興したとき、平群木菟宿禰が近侍していたことなどが記載されている。

二年・・・冬十月、都於磐余。當是時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・圓圓、此云豆夫羅大使主、共執國事。
~ 履中2年に平群木菟宿禰は、国の政治に携わるようになった。

このあと暫く平群氏の記事は無くて「第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇」に、
十一月壬子朔甲子、天皇、命有司設壇於泊瀬朝倉、卽天皇位、遂定宮焉。以平群臣眞鳥爲大臣、以大伴連室屋・物部連目爲大連。
~ 「・・・平群臣眞鳥を大臣(おおおみ)とし・・・」と木菟宿禰の子・眞鳥が単独でトップに就いたことが記載されている。眞鳥は、この後、清寧・顕宗・仁賢天皇と4代に亘って大臣として国政に携わったが、

「巻第十六 小泊瀬稚鷦鷯天皇 武烈天皇」に
十一年八月、億計天皇崩。大臣平群眞鳥臣、專擅國政、欲王日本、陽爲太子營宮、了卽自居、觸事驕慢、都無臣節。・・・。太子、・・・此夜、速向大伴金村連宅、會兵計策。大伴連、將數千兵、傲之於路、戮鮪臣於乃樂山。・・・。
冬十一月戊寅朔戊子、大伴金村連、謂太子曰「眞鳥賊、可擊。請討之。」太子曰「天下將亂、非希世之雄不能濟也。能安之者、其在連乎。」卽與定謀。於是、大伴大連、率兵自將、圍大臣宅、縱火燔之。所撝雲靡、眞鳥大臣、恨事不濟、知身難兔。計窮望絶、廣指鹽詛。遂被殺戮、及其子弟。詛時、唯忘角鹿海鹽、不以爲詛。由是、角鹿之鹽、爲天皇所食、餘海之鹽、爲天皇所忌。

~ 「(仁賢天皇11年に)天皇が崩御された。大臣の平群眞鳥臣が、専ら国政を欲しいままにして、日本の王になろうと欲した。表向きは太子(後の武烈天皇)のため宮を造ることにして、出来上がると自分が住んだ。事ごとに驕り高ぶって、臣下としての節度をわきまえなかった。・・・。この夜、太子は早速、大伴金村連の家に向かい、兵を集め計画した。大伴連は、数千の兵を率い、逃げ道をふさぎ、鮪(眞鳥の子、木菟宿禰の孫)を平城山で殺した。・・・。大伴大連は兵を率いて自ら将となり、大臣の家を囲み、火をかけて焼き払った。人々は指揮に雲のように靡き従った。眞鳥大臣は、自分の思うようにならなかったこと、免れがたいことを知った。計画は挫折し望みは絶たれ、広い海の潮を指さして呪いをかけ、遂に殺された。その科は子弟に及んだ。・・・。」と、平群氏一族は、(後の)武烈天皇の命により殺されたとのこと。 影媛の一件を契機に平群氏の一族が処分されたのである。

この後、平群氏は歴史の表舞台から姿を消すこととなるが、
「第廿一 泊瀬部天皇 崇峻天皇」に、
秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。・・・。大伴連嚙・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣闕名字倶率軍兵、從志紀郡到澁河家。大連、親率子弟與奴軍、築稻城而戰。於是、大連昇衣揩朴枝間、臨射如雨、其軍强盛、塡家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、三却還。
の記載がある。
軍臣・平群氏が復活したのか・・・?

その後の足跡を探してみると、
「巻第廿九 天渟中原瀛眞人天皇 下 天武天皇」の十三年に、
十一月戊申朔、・・・平群臣・・・、凡五十二氏賜姓曰朝臣。
とあり、さらに続日本紀の「巻第九 元正天皇 日本根子高瑞浄足姫天皇」養老七年正月十日に、
正六位・・・平群朝臣豊麻呂・・・並從五位下
「巻第十 聖武天皇 天璽国押開豊桜彦天皇」神亀四年正月二十七日に、
・・・從五位下平羣朝臣豊麻呂從五位上・・・
「巻第十一 聖武天皇 天璽国押開豊桜彦天皇」天平三年正月二十六日に、
從五位上・・・平群朝臣豊麻呂 並從五位上・・・
同じく四月二十七日に、
正五位下平羣朝臣豊麻呂爲讃岐守。
「巻第十八 孝謙天皇」天平勝宝二年正月十六日に、
授正三位藤原朝臣仲麻呂從二位。正四位上多治比眞人廣足從三位。從四位上多治比眞人占部正四位下。從四位下平群朝臣廣成。藤原朝臣永手並從四位上。・・・
「巻第十九 孝謙天皇」天平勝宝五年正月二十八日に、
從四位上平群朝臣廣成卒。
とあるので、廣成までは上級官人として存続していたことが確認できる。

※ 紀氏・・・紀ノ川流域を中心に水運に長けた古代の豪族。
平群から竜田川を南下すれば斑鳩で、富雄川、葛城川とも合流する。 大和川にも近く、紀氏はここを大和平野での拠点とし、大和と瀬戸内をつなぐ紀の川と大和川の両方を押さえようとしたのか・・・?
あとに訪ねる三里古墳は紀ノ川流域に分布する石棚を有する古墳と同形式。この神社と三里古墳の存在は、紀氏の一派が平群を拠点としていた証。
紀ノ川流域で勢力を持っていた豪族・紀氏が、紀直と紀臣とに分裂して、紀臣が平群谷に移住してきたのだろうか?

      [「船石」探索は続く・・・]


下のバナー「考古学・原始・古墳時代」をクリックしてね
・・・ 「歴史」のブログがいっ~ぱい見れるよ (^J^)
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村
  


Posted by あきさん at 21:07Comments(0)散策古墳古代奈良神社

2014年06月06日

古都逍遥・・・佐紀路の古墳群を巡る

奈良市北部、前回歩いた佐紀路の西側地域を、東から西に歩いて来た。

スタートは近鉄・新大宮駅。

駅前の通りを北上し佐保川に架かる大宮橋を渡り、さらにR24を北に進むと一条通りとの交差点。
ここに一条高校があるが、その塀外に芸亭(うんてい)伝承地の標柱。
古代の有力豪族であった物部氏の末裔である石上氏に生まれた宅嗣は、晩年、自分の邸宅を阿閦寺(あしゅくじ)として改築した際に敷地の一郭に古今の漢籍を中心とした書籍を収蔵し希望者に閲覧を許可したのが始まり、日本最初の公開図書館。

続日本紀巻第卅六の天応元年(七八一)六月辛亥に、以下のような石上宅嗣の死亡記事。
「石上大朝臣宅嗣薨。・・・捨其旧宅。以為阿閦寺。寺内一隅。特置外典之院。名曰芸亭。如有好学之徒。欲就閲者恣聴之。仍記条式。以貽於後。其略曰。内外両門本為一体。漸極似異。善誘不殊。僕捨家為寺。帰心久矣。為助内典。加置外書。地是伽藍。事須禁戒。庶以同志入者。無滞空有。兼忘物我。異代来者。超出塵労。帰於覚地矣。其院今見存焉。・・・」

つまり、「自分の旧宅を喜捨して阿閦寺となし、寺内の一隅に特別に外典(仏教以外の書物。ここでは、主に儒教の書物を指している?)のための院を設け芸亭と名付けた。もし、学問好きの人が来て閲覧したいと望んだらそれを許し、そのための規則を定め、後世に残した。その概略は、内(仏教)と外(儒教)はその根本は一体である。漸新さと急進さの違いはあるにしても、上手く導いていければ(その道は)異なることはない。私が家を喜捨して寺として仏教に帰依してから久しくなる。内典(仏教の経典)の理解の助けとするため、外書(儒教などの他分野の本)も加え置く。ここは(仏教の修行のための)寺なので、その修行を妨げることは何事も禁じ戒める。どうか私と同じ志(仏教への信仰)をもってここに来た人には、(様々な考え方の)空か有か(といった瑣末な事)を論じて(志を)滞らせることなく、自分の欲望を忘れて(学問や修行に励み)、後進の人達には世俗の埃や苦労を超越して悟りの境地を開いて欲しいと願うものである。」とのこと・・・。

ところで、紀には、この年、8回も地震が起こったことが記載されている。結果、年末に光仁天皇が亡くなり、皇統は桓武天皇に継がれた。

東に、在原業平が開基したと伝えられる不退寺の屋根を観ながら進むとウワナベ古墳(大和1号墳。5C中頃)の濠に出た。

古墳外堤上に造られたバイパス道路から外れ、周濠に沿って東南部から北西部まで移動。

墳裾に立札「宇和奈邊陵墓参考地 みだりに域内に立ち入らぬこと 魚鳥等を取らぬこと 竹木等を切らぬこと」と書かれている。

西側だけに造出し。

ちょうどその部分に対応するかのように濠堤が西に凹形。

拝所は、どこ?

航空自衛隊幹部候補生学校の正門前を通って
コナベ古墳(大和27号墳。5C前半)。

明治の初め、W・ゴーランドが精密な実測図を作製し、日本の古墳研究しに足跡を残した。
ここも周濠の東南部から時計回りに北部に至る。
造出しが波打つように見える。

所々、墳丘が崩れており、そこに人頭大の石、少し大きめの土器(円筒埴輪の破片なのか?)が散らばっている。
2009年の護岸整備工事に伴う発掘調査で「葺石は10センチ大の石の上に30センチ大の石を重ねる二重構造」であることが分かったとの新聞報道。
また円筒埴輪をはじめ、家形や柵形の形象埴輪の破片が見つかったとも・・・。

周濠の南西から北西にかけて10基の古墳(陪塚?)が取囲むように並んでいる。
北東部の航空自衛隊幹部候補生学校の構内にも、かつて多くの古墳が存在したが、敗戦後、占領米軍のキャンプ施設建設のため殆んどが破壊されてしまったという。

北西部からヒシアゲ古墳(仁徳天皇皇后磐之媛命平城坂上陵、5C中~後半)
南側は二重周濠の様子。
満開のカキツバタを見つつ時計回りに一周。

一重となった周濠の北東部には、発掘調査で分かった内堤と外濠、埴輪列出土位置などが示されている。


ヒシアゲ古墳の南にある水上池の西畔に沿って、朽ち果てた養魚場や市庭古墳(平城天皇楊梅陵、古墳時代中期の5C前半)の杜を見ながら南下。

陵墓の柵内には、墳頂に続く数本の踏み分け道。
前方部は平城宮の造営に伴い削平され、古墳への参道となっている。


市庭古墳の南、眼前に平城宮大極殿。発掘調査により、かつてここに神明野古墳(墳長117m)があったことの確認されている。


西進して佐紀神社(超昇寺村の式内村社)に至る。 境内に陰陽石?


神社の西側に沿って北へ進み御前池と超昇寺城跡の間をとおり、佐紀神社(古超寺村の鎮守、東の佐紀神社を分神したもの?)。



神社を出て、竹で覆われた超昇寺城跡の西側を進み
山上八幡神社から、古墳時代前期後葉の3古墳に至る。 


まず、陵山古墳(垂仁天皇皇后日葉酢媛命・狭木寺間陵、4C末) 
19C頃?まで神功陵とされ、庶民の安産祈願に結びついた「神功皇后信仰」の存在。



一段下がって西にまわり、古墳群中、唯一、西向きの高塚古墳(孝謙・称徳天皇高野陵)。
真の「高野陵」ではなく、大型前方後円墳の被葬者に随伴する者の墓?・・・


戻って石塚山古墳(成務天皇狭城盾列池後陵)の周濠を時計回りに、埴輪群が出土した渡土堤から陵山古墳との周堤共有部まで進む。



北に向かい、陪塚の初期事例(神功皇后陵飛地い号、東ろ号、西ろ号)の傍を進み大社大神参道から丘陵上の陪塚(? に号、は号など)を観て、近鉄線を西に越え、福松大神から八幡宮を過ぎ、五社神古墳(ごさしこふん。仲哀天皇皇后・神功皇后狭城盾列池上陵)に至る。

近年、考古学・歴史学系16学協会による「立ち入り観察」が認められた初例だが、それに先立ち、墳丘裾護岸工事で西側くびれ部に造出し(※造出しの初期事例?)が確認されたことや採集された土器類など中期古墳に繋がる特徴を持つ資料が多く判明し、今後、前期後葉の築造とみられていた年代観の見直し・・・佐紀古墳群最初の大型前方後円墳という従来の評価が変わることが想定される。
なお、拝所に並ぶ8基の石燈籠は、近代になって神功陵とされた以降に御陵山古墳から移築されたものという。


近鉄・平城駅から帰路につく。 この日の歩数 22,117歩。


佐紀(盾列)古墳群は、近畿中部の大古墳群である大和・柳本古墳群、馬見古墳群、古市古墳群及び百舌鳥古墳群が築かれた北緯34°33′のラインから大きく北に外れている。・・・古墳時代中期の4C後半から5C、200m以上の全長をもつ8基の大型前方後円墳が東西に並んで築かれ、それらの間を陪塚や中小の前方後円墳が埋めている。 次回は、これら中小古墳を訪ねたい。


※ 大和から京都へ、奈良時代はこの古墳群を貫く歌姫越(下ツ道の延長)、平安時代以降は東の般若寺越が使われ、ともに奈良坂とも呼ばれている。

※※ 陵山古墳の西側堤にある事務所が老朽化したので建て替えるそうです。 
    遺構の上に乗っているこ とから場所を変えて、
    新しい事務所は、陵山古墳前方部前面西側を予定し、
    現在、遺跡の有無の確認調査が実施されているそうです。 
    以前、円筒棺が出た辺りだそうなので・・・何が出てくるかな~?? [6月11日追記]


下のバナー「考古学・原始・古墳時代」をクリックしてね
・・・ 「歴史」のブログがいっ~ぱい見れるよ (^J^)
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

  


Posted by あきさん at 12:55Comments(0)古墳古代奈良神社

2014年05月25日

古都逍遥・・・佐保路から奈良坂へ(その2)



多聞城、三好三人衆と組んで第13代将軍足利義輝を暗殺した松永久秀の平山城。 北の京都方を睨んで鹿瀬山城、西の大坂方には信貴山城、南は龍王山城、多聞城を取囲むかのように山城を配している。(※ 鹿瀬山城・龍王山城は既述。)
かつての武家屋敷跡なのか佐保川の北側は段丘上に民家が建つ。その間を抜けて若草中学校へ・・・、城跡の大部分は若草中学校の構内なので、「部外者は立入禁止」?


門前から眺めたあと、城下を一周することにした。
東大寺大仏殿の屋根や若草山を見ながら玉鐡稲荷神社を経由して佐保川沿いを進み、校舎とグランドの間にある大堀切に出る。城のある多聞山と善勝寺山を分断している。グランドの南沿いを東に善勝寺山を進む。
グランド東端、道側は絶壁。大堀切・グランド東端の間の南側にある林、気になって入ってみた。土塁状の高まり?と竪堀? 南麓に佐保川。


大堀切から城山の北にまわると呉竹町の住宅街。
ここは、南を城山に、北を尾根に挟まれた堀跡? 
北側の尾根は、城山よりも高そう~、またまた気になって尾根を登ってみると、城山よりは高い。 城内が丸見え? この尾根に郭などを構築しなかったのかな~?? 
尾根北側の下に鴻池陸上競技場、幅広の尾根、東側は少年刑務所に続く。 

尾根を下りて城山の西側に回る。 
路地を通って佐保山南陵(聖武天皇)・同東陵(仁正皇太后)の間の堀切?を確認。


佐保山南陵の西麓に眉間寺跡石碑。
礎石のように見える割石、17石すべて流紋岩質溶結凝灰岩で、宇陀郡一帯に分布する室生火山岩?で、近年に搬入されたもの??

奈良地方気象台前を通り、南陵前に至る。
現在の陵墓参道は、かつての眉間寺参道を転用したもの。拝所から見える平坦地は、かつてあった近世・眉間寺の跡で陵墓は山頂にあるそうだ。


拝所東側の平坦地を抜け東陵へ・・・。
御陵前面の東側平坦地は、幕末の修陵で形成されたもので眉間寺伽藍とは無関係。 崩落したのか修復が行われている。 鹿出没。 こちらの様子を窺っているようで、近寄る気配なし。

再び、若草中学校へ・・・。 
校内の城碑前で写真を撮っている人(中国人?)がいたので構内に入り、城碑石仏群(発掘調査で出土、石垣に使われていた?)を確認。
・・・多聞城の建物は筒井順慶によって取り壊され、石材は筒井城に運ばれ、さらに郡山城に使われたという。




佐保公民館に立寄り、多聞城の資料を見せていただいた後、一条通りを東に進み転害門へ・・・。
観光案内所の親爺さんと暫し談笑。 多聞城の天守があった場所、中学校を造った時に数十mの削平で低くなった、とか・・・これで北の尾根より低くなったってことで納得。















転害門からR369を北上し、京街道奈良坂方面に進む。
醤油の香り漂う向出醸造元、我が国最古の病院(ハンセン病患者のための救済施設)遺構である北山十八間戸、大正時代に建てられたレンガ造りの旧・奈良市水道計量器室、16世紀初めに作られたという夕日地蔵に掲げられた会津八一の歌「ならさかの いしのほとけのおとがひに こさめながるる はるはきにけり」、奈良で一番古い明治時代創業の上村牧場、均整のとれた端正な佇まいの般若寺楼門と鎌倉時代に東大寺再興のために来日していた宋の石工らによる重厚な十三重石塔、鹿煎餅を作っている武田商店を見つつ奈良豆比古神社に辿り着いた。

※ 1180年、平重衡が東大寺など南都を焼き払った際に、般若寺のすべての伽藍も焼失したそうな・・・。












奈良豆比古神社では謡曲や狂言の源流とも謂われている翁舞が奉納され、本殿裏の谷には樹齢1,000年とも謂われる(A4サイズの資料と大きさ比べてみると・・・)。 



京街道に面して立つ復元・高札


奈良坂資料館に気づかず素通りして奈保山東稜(元明天皇)。近道があったのか?・・・北から西にまわり南へ、ほぼ2/3周したような~。














県道を渡り、大仏鐡道路線跡を黒姫山方面に南進したあと戻り、西側の奈保山西陵(元正天皇)。


那富山墓を訪ねずに、喉かな田舎道を辿って、しかし急ぎ近鉄平城山駅。 



下のバナー「考古学・原始・古墳時代」をクリックしてね
・・・ 「歴史」のブログがいっ~ぱい見れるよ (^J^)
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

  


Posted by あきさん at 21:09Comments(0)古墳古代奈良神社

2014年05月22日

古都逍遙・・・佐保路から奈良坂へ(その1)


少し前に延べ3日間をかけて、旧・関西鉄道の①木津短絡線と②大仏線(大仏鉄道)の一部を歩いたのだけれど、途中、古墳などに立寄ったため完歩できなかったので、改めて③未踏区間を歩いて来た。

① 駅東の開発に伴い駅西側の駅前広場などもすっかり整備され、ひと昔前の雰囲気は全く無くなってしまったJR木津駅

下車後、駅前通りを西に進み資料入手のために市役所に立寄る。
北西の木津川堤近く、JR関西線(学研都市線)の北側に和泉式部の墓。 

少し東に進み新木津駅跡地らしきところから現行路線と別れ、廃線跡に並行して東進し、奈良線の下を潜って安福寺。

ここにあるのが平重衡の墓。 源氏に与する東大寺・興福寺を焼討ちしたことから、一の谷の戦いで敗れ虜因になった際、南都の宗徒に引き渡され木津川の河原で首を刎ねられ般若寺に晒されたとか・・・。
この安福寺の門前のすぐ東南側で再びJR関西線と合流。 この間600mほどの短絡線。


② これから先、JR線に並行して東進。 途中、鹿背城などを探訪しつつ、大規模な開発が進み、すっかり景色の変わった新道を歩く。
鹿背山トンネルを過ぎたところで開発地域とも別れ、落ち着いた景色の中をJR加茂駅に向かって進むと、直ぐに左手に枕木の柵列が現れた。その先に鹿背山アパット(橋台)がしっかりと残っている。JTB「鉄道廃線跡を歩くⅡ」の表紙を飾った遺構。


さらに線路跡の築堤沿いを進む。 
以前は、途中から線路跡を北に横切って進む「山道コース」が使えたのだが、水道橋が通行不能ということなので南の「山里コース」を使い、線路跡とは離れて里山と竹林のなかを進む。
竹林を出たところに観音寺小橋台。フェンスで囲まれJR線と並行している。


線路沿いに少し戻ったところで、築堤のまま続く旧関西線・大仏線と別れて現関西線が敷設されている様子が分かる。
観音寺小橋台まで戻って再び線路跡に沿って進むと観音寺橋台。


橋台の下を抜けて、暫く線路跡から離れ田園風景の中を進み、加茂小学校近くから再びJR線に沿って残る軌道跡を確認しつつ、C5756ランプ小屋(明治30年竣工のレンガ造り)を見学してJR加茂駅に着く。







再訪日。
JR加茂駅からの出発なのだが、同じ道を通るのも愉快ではなかったので、分岐まではルートを外れ古墳を探訪するつもりだったが、事前の準備不足で・・・。
古墳の所在が分からず右往左往。「???」っていう破壊された石組みを見つけたのだけれど探究せずに去る。(※ 帰宅後、前椚1号墳であったことを確認。全体で5基ほどの古墳群。)


南加茂台の住宅地にある塚穴古墳群(1号墳、2号墳)を観た後、大仏線跡地(分岐点)に向かう。

すっかり変わってしまった景色の中、造成工事により造られた新道を進む。
梶ヶ谷隧道。下半分は御影石組、上半分は長手積とイギリス積を併用したレンガ組。 


新道から別れ、大仏鉄道の軌道跡である築堤の旧道を少し南に進むと、大仏鉄道のメインキャスト(?)赤橋
橋台は、算木積の隅石とその間を埋めるイギリス積のレンガ。上を見上げると、橋台の天端石の間を繋ぐ橋桁は、何んと・・・石柱と丸太・・・折れた石柱部分を丸太で補修?




更に大仏線跡を南進。梅谷公民館から県道44号を進み梅美台西交差点の手前右(北西)側の畑に入ると県道の下に松谷川隧道のアーチ型レンガ積。トンネル奥は扉で閉じられている。

UR青山団地の傍を通って梅谷口交差点の向こう(南西)側の畑に入ると国境食堂の下近くに鹿川隧道。トンネル内の下端近くにある突起に板を渡して、上部を生活道、下部を農業用水路として使っていたとのこと。



2日目の探訪は、古墳探しに時間を費やし、日暮れが迫ってきたため、ここまでにして、奈良交通バスにて路線跡を通り近鉄・奈良駅。

③ 再々訪日。
JR奈良駅から、旧駅舎を抜け、奈良交通本社前、油坂などを通り、工事が続く高架前の路線跡に沿って北上。


県立大学から船橋商店街通(といっても商店はあまりありません・・・。)を進むと佐保川に架かる下長慶橋。 この橋から西側を観ると佐保川鉄橋橋脚の基底部レンガが露出している。
・・・下長慶橋の名前の由来は? まさか、三好長慶から来ているってことは・・・ないか?? (^J^)



橋を渡ったところに大仏鐡道記念公園(関西鉄道大仏駅跡)。



このあと一条通りから佐保川に沿って御屋敷などを観ながら北上し、多聞城跡に至る。


【後日談】
下長慶橋
・・・三好長慶とはまったく関係なかった。「阿波贔屓」(笑)
私費を投じて佐保川に石橋を架け、自身のアイデアによる夥しい石造物をお抱えの石工に彫らせた吉村長慶。
長慶橋ほか特異な石造物を各地に建立し長慶寺を開基した宗教人 世界平和を訴え宇宙教を唱導した実践的指導家で、激動の明治・大正・昭和を生き、既成権威にひとり立ち向かった奇豪の人。
維新前の奈良まちに生まれ、宇宙菴と称し三尺将軍と親しまれていた長慶は、珍しい石灯、如来像や大黒を近畿各地の社寺に奉納したほか、「如来道・宇宙教」を唱導し、僧籍に入って佐保山の麓に長慶寺を開基し、生涯に制作した200を超える特異な刻文碑や石造作品が今も各地に遺されている。
(参照 安達正興著「宇宙菴吉村長慶 : 幕末の奈良まちに生まれた奇豪」奈良新聞社, 2011.6)
・・・そういえば、「下長慶橋上流の護岸壁に仏像のレリーフがあったような~」って思い出し、辛うじて写っているのを確認。 画素数を落としているので拡大しても分かり難いが~。


気になって調べてみた。
世界の三聖人、左からキリスト,孔子、仏陀がその高きに光る神に向かって、礼拝しているモチーフと「喝汝及汝等信徒よ 此高光大御神に合掌禮拜せよ」が画かれている。 この高光大御神、即ち神仏森羅万象を統一する真理こそが世界の教祖たる天照太陽神とのことのよう~。
・・・このレリーフの左上にも、もう一枚。 そこには、以下~
「宇宙教典 夫レ天地萬有者 悉ク不平等ヲ以テ原則ト為シ 而シテ其レヲ主宰スル也 日有リテ輪在ル 違ワザル焉 即チ宇宙絶對ノ神髄也 是ニ由キテ吾ハ宇宙ノ教體ヲ開創スルヲ得ム 此ノ神髄ヲ善用スルコソ人ノ道ナランヤ 常ニ誠心ヲ以テ報国ス 本教唯一ノ義諦者也 宇宙菴吉村長慶」

下のバナー「考古学・原始・古墳時代」をクリックしてね
・・・ 「歴史」のブログがいっ~ぱい見れるよ (^J^)
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村






  


Posted by あきさん at 20:23Comments(0)散策古墳奈良

2014年03月08日

近江の国・湖西を訪ねる

冷たい北風の吹くなか、高島市で行われた上御殿遺跡発掘調査の現地説明会に参加。

この遺跡は、去年、双環柄頭短剣(オルドル式銅剣に類似?)の鋳型が出土したことで話題を呼んだところ。

















上記鋳型以外のこれまでの調査成果を見ると、土器棺墓(縄文時代中期後半)、方形周溝墓(弥生時代終末)、竪穴住居(古墳時代前期)、居宅・倉庫群・祭祀遺物(人形代・馬形代・墨書人名土器。奈良~平安時代)、掘立柱建物(奈良~平安時代)、馬具(轡。平安時代後期~鎌倉時代初期)、こけら経(室町時代後期)に加えて、今回の古墳(古墳時代後期)など多期にわたる様々な遺構・遺物が出土した複合遺跡。

鋳型出土地から北北西60mほどのところで確認された古墳は、径約12.8mの円墳。周溝の幅1.4~1.9m・深さ0.4m。
主体部は、長さ3.2m(棺内2,4m)・幅0.75m・棺材厚さ0.1mの木棺直葬墳。頭部と脚部の両端小口部分に石と白色粘土。丹後地方の5C後半~6C末の古墳に観られる特徴に類似。・・・日本海側地域との交流があった?
墓壙は、南北4.7m・東西1.7m(南端・脚部)~1.9m(北端・頭部)。棺内の底面全体に赤色顔料。

ガラス玉7点出土、今後、調査の進展により増加するかも?





【追記】
3月8日 第102回滋賀県埋蔵文化財センター研究会「平成25年度滋賀県発掘調査成果報告会」が大津市内で行われました。 報告のあった遺跡は、水口岡山城遺跡(第2次調査)・曼荼羅山古墳群など9遺跡。




  続きを読む


Posted by あきさん at 22:14Comments(0)古墳古代近江