2014年10月23日

京都・鷹峯を訪ねて・・・

随分と歩きやすくなったこの日、「京都の角窓と丸窓のあるお寺に行きませんか~」とのお誘いをいただきましたので、京都市街地の北西端にある常照寺、源光庵、光悦寺の3ヶ寺を訪ねてきました。













まずは、京都駅前でOne-day Passを購入。

地下鉄を利用すれば早く目的地に着けるのだけれど、風景を見ることが出来るバスのほうが楽しいかな~。














駅前から市バスに乗って、四条大宮で他系統のバスに乗換え。

BSの前が、かの「餃子の王将」1号店。
















鷹峯源光庵前BSで下車。 

この系統、経過道路が狭隘なので、佛教大学前を過ぎると時計回りのループになっている。

紅葉前の観光客が少ない時期だったので、どちらのバスも最初から座ることができた。




BSからほんの少し東に下ると常照寺(鷹峰壇林旧跡)。
二代目吉野太夫(灰屋紹益の妻)が寄進したという朱塗りの山門「吉野門」を入ると、
右に帯塚


















女性の心の象徴としての帯に感謝し祈りをささげ供養。
四国吉野川産の吉野石ということなのだが、
縞状の筋は有るけれど色が随分と黒ずんでいて、
私の好きな「青石」ではなかった。





受付を済ませたあと、受付の方に急かされて、
本堂の隣の書院で当寺の紹介ビデオを観たあと境内を案内表示に従って散策。






書院の床に掛けられた吉野太夫































本堂に「御会式(おえしき、日蓮の命日である10月13日を中心に行われる法要)」の花飾り


















紅葉にはまだまだなのだが、
緑色の葉の濃淡もまた風情がある。








鬼子母尊神堂









片岡仁左衛門丈らによって建てられたという吉野太夫と紹益の比翼塚と歌碑








一字一石法華経が埋納された上に建つ顕彰碑・白馬観音と白馬池








茶席「遺芳庵」に吉野太夫が好んだという大丸窓(「吉野窓」)。


















毎年、桜の季節の4月第2日曜日に、吉野太夫を偲ぶため「吉野太夫花供養」が行われ、
島原の太夫道中による墓参、供茶法要が営まれ、境内の随所に野点茶席が設けられるそうだ。





境内を出て、バス道を戻り源光庵(曹洞宗、鷹峰山寶樹林)に・・・。

総門を入るとすぐに参道は左に折れ、駐車場の手前で今度は右に折れて山門
ここにも丸窓(^J^)

方形の敷石を配した山門に至る道、決して広くはないが良く手入れされた庭は、いかにも京都のお寺~という雰囲気を醸し出している。













広い庭を介して正面に本堂








その右手前の建物内にお茶の製造に使われたという
炭火を入れ、その上に和紙を貼った障子に似た物を置いて、蒸した茶葉を揉みながら乾かしたとのこと。


本堂に、丸窓(悟りの窓)と角窓(迷いの窓)。
前者は、「禅と円通」の心を表わし(円は大宇宙を表現)
後者は、「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表わしているとか・・・。

前室の飾り窓から観える枯山水の庭園。










本堂の天井を見上げると血手形
慶長5年(1600)、鳥居元忠一党380余人が伏見桃山城で自刃したときの痕跡とのこと。
よくよく観ると、天井一面に血飛沫らしきモノが・・・。




源光庵を出て斜め向かいにある光悦寺へ~。

綺麗に設えた石畳を進み、本堂に通じる廻廊を潜ると庭園。







光悦垣




























境内には、大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室が散在。







南東に京都市街地、南から西に鷹峯三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を観る。






このあと御土居を観て、










しょうざんリゾート」で遅くなった昼食を摂る。








※この辺り、飲食店が少なく、また予め調べておいた店は平日は休業だった。







今出川通りに出て

人形作家・早川さんの工房
般舟院陵、考古資料館に立寄り、
京菓匠・鶴屋吉信で一服して帰宅。




この日の歩数:14,001歩


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Posted by あきさん at 12:30Comments(4)歴史京都散策

2014年10月04日

大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」


本薬師寺のホテイアオイを観たあと、
近鉄で北に1駅戻って八木西口駅下車。







JR線を支えるイギリス積の橋脚



















JR万葉まほろば線を潜って飛鳥川を蘇武橋で渡る。
今井町の東は、飛鳥川と環濠で2重に守られていた・・・。
橋の西詰に榎の大木、樹高15m・幹周5m・枝張20m。














その近くに
奈良縣里程元標(旧設置場所)の石標。









町を取囲む環濠はなくなっているのだけれど、
ここは北東側の入口・北尊坊門跡







飛鳥川に沿って2つの蘇武井(そぶのい)。
いかなる日照りが続いても涸れることはなく、
今井の里千軒の家々に使われていたそうな~。
川面に井戸と柳・・・時代劇さながらの景色・・・?






南北2つの蘇武井の間の細い水路は、
かつてここに環濠があったことを示しており、
濠に降りる「洗い場」も復元されていた。

















中尊坊門跡、南尊坊門跡を過ぎると華甍(今井まちなみ交流センター)。
明治36年(1903)建築の旧高市郡教育博物館。






エントランス。



















手焙り。















町屋の復元模型
(17C後半の音村家主屋(推定))

格子の間から室内を覗いてみた・・・。





建物北側に、かつての環濠を復元。

この復元水路と
その先にわずかに残る細い水路に沿って西進。





辻に祀られている井上地蔵尊ほか。








今井町を
東西に分かつほぼ中心にある
辰巳口門跡を過ぎると
間もなく、唯一、
往時の姿に復元された南口門跡、土居。





ここから町内に入り
北に進むと称念寺







真宗。
山門は明治10年、
明治天皇行幸に際して多武峰から移築、
太鼓楼は弘化2年(1845)建設。
本堂をはじめ、庫裏や客殿は
17C初期の建物だということなのだが、
修理中のため見学できず・・・。

そのため、道路際に写真パネルにより修理の模様を展示・説明。
(※ 後日、修理完了後に説明会を開催したそうな・・・)



今井町・・・16C中頃に、本願寺の一家衆であった今井氏により武装宗教都市としての「寺内町」が形成され、称念寺はその中核として興隆した。
武士と僧侶を兼ねていた今井氏が代々世襲していたが、江戸時代から釈門に専念したとのこと。
往時は東西4町半(約610m)・南北2兆20間(約31m)、
6町・1,200戸からなる町場を幅3間以上の環濠と土塁で囲まれていたとのこと。
現在は760戸ほどであるが、うち約550戸が江戸時代の伝統的形式の町屋だそうだ。


称念寺の向かいに夢ら咲長屋(案内・休憩所)。








中庭に、煙突の付いた甕。
・・・かつて、醤油の原料が不足していた時代、昭和初期に、大豆粕のタンパク質を加水分解したものを水酸化ナトリウムで中和してアミノ酸と食塩水を作り出し、このアミノ酸液に風味を加えたり醸造醤油とブレンドして、代用アミノ酸醤油を作っていたそうな~。
この煙突は、加水分解の際に圧力を逃がすとともに塩酸が漏れるのを防ぐ還流塔とのこと。











中橋家(米屋、のちに肥料、金物も商う)、細格子の出窓。
19C初期に上部の柱を継ぎ足して低い「つし2階(中2階)」建てに変更されたとのこと。

町内を歩くと、エリアごとに軒高が低い家と高い家が並んでいることに気がつく。

この街を歩くと平屋から2階建てへの町屋の変化を観ることが出来る。










豊田家・・・豪壮な町屋。材木商『紙八』。








玄関口に駒つなぎ、
1階の太い大和格子、2階に白い漆喰の塗り込め壁。






遅くなった昼食は、
路地に入り、一筋北にある古伊で、
「柿の葉寿司&そば」を食する。






田舎づくりなのか醤油辛い出汁は、
そばを活かせていない。



























本町筋を西に進み、
今西家の西側・西口門跡で復元された環濠を見る。






今西家・・・町の西端、城郭のような八ツ棟造。
もとは中世に当地を治めていた十市氏の一族で、
代々今井町の惣年寄の筆頭として、
町方支配の一翼を担っていたそうな・・・。
















2階の壁に
ご当家旧姓の河合氏定紋と
3段菱形の旗印。















ここから南東隅の環濠は、
内、中、外と3重になっていたそうで、
外環濠は発掘調査中だった。



環濠に挟まれた中堤を進み、
壁絵が印象的な春日神社へ・・・。

復元された船着場の南側から境内に入る。




端正な佇まいの旧常福寺観音堂と
一面二体の『叶』地蔵尊。







この後、家並みの中をぶらぶら歩く。







上田家・・・ここも江戸時代の惣年寄の一つ。片岡城主片岡氏の子孫。酒造業『壺屋』。「つし2階」の低い2階建て。
米谷家・・・農家風の民家のイメージ。金物・肥料商『米忠』。「つし2階」の低い2階建て。
音村家・・・金物商『細九』。「つし2階」の低い2階建て。
などなど~。

道標



















右往左往して町の東端に出たところで、きょうの散策はおしまい。

旧家が、線ではなく面としてたくさん残っていて、
街もキレイで歩きやすく
「凄~い!」とは思うのだけれど
そのことが逆に数時間も滞在していると、
変化を感じなくなって(面白みもなくなり)
少々、食傷気味になって、観察する眼もお疲れモードに・・・
無料の休憩所もあるのだけれど・・・なにか物足りなさを感じる。
そんな印象の町だった。

この日の歩数:14,709歩

ところで、町を歩いていて気になったこと・・・豊かさの表れなのか、この街には銅を使った雨といが目につく
帰宅後、ネットで検索したが、意外と雨といに関する記事が少なく、見つかったのがPanasonicのHP。他にも記事はあったが、多くはPanaの記事を転用したものか・・・。で、以下Pana記事の要約。

雨といのはじまり・・・多棟住宅の谷の部分「あわい」に取り付けた「受け樋」(「懸樋(かけひ)」とも)で、雨水を排水する役目よりも、むしろ飲料水や生活用水として貴重であった雨水を、屋根から水槽に導く「上水道」の役割を果たしていた。
屋根の雨水を排水するという役割の雨といで、わが国に現存する最古のものは、奈良時代(733年)に建立された東大寺三月堂の木製、厚さ約5cmの板3枚をU字型に組み立てたもの。
雨といは江戸時代まで、神社仏閣を中心に普及。当時の神社仏閣には、すでに飛鳥時代に中国、朝鮮から伝来した瓦が使われ、雨水を処理する雨といが必要だった。
しかし、一般の住宅は「草ぶき」や「かやぶき」がほとんどで、屋根自体が水分を吸収することや、軒先を作業場として利用する必要から庇(ひさし)を長く張り出して軒を深く取っていたため、雨といの必要がなかった。

雨といの普及・・・江戸時代に入ると商業が盛んになり、江戸、大阪、京都などを中心に人口が集中し、都市が形成されるに伴って住宅も密集して隣家と軒を接するようになり、隣家の雨水が流れ込む、雨だれが跳ね返って壁を汚す、土台を腐らせる、といったトラブルが起こる。
一方、密集した「かやぶき、板ぶき屋根」の町家は火災に弱く、ひとたび出火すれば次々と類焼して、町中が火の海ということがたびたび起こった。大火に悩んだ幕府は1720年、防火のために民家の屋根を「瓦ぶき」にするよう奨励。
また、商家では財産を火災や盗難から守る土蔵をはじめ、経済力にものをいわせて住宅を豪華にすることで武士階級に対抗したため、瓦屋根でしかも複雑な屋根構造の町家が出現。
瓦ぶき屋根の普及により、雨水の落下で柱の根元や土台が腐ったり、傷んだりするのを防ぐため、雨といが使われるようになる
当時は、雨といの材料として一般的に手に入るものとしては、木や竹など自然のもの。とりわけ竹は、奈良時代の「懸樋」の頃から利用されており、節を抜けばパイプ状になる、半分に割れば半円形になるなど、雨といの材料としてはたいへん好都合であったことから、最もよく使われた。
当時の施工方法は、軒先の垂木に板を削った雨とい受けを打ちつけ、その上に竹製の雨といを乗せていた。その他には、板をU字型に打ちつけた「箱とい」や2枚の板をV字型に打ちつけた簡素なものがあった。

雨といの発展・・・文明開化とともに海外との交流が盛んになり、洋風の建築技術も流入。
そのなかに、すでに高度な加工技術による装飾性にすぐれた雨といも当然含まれていた。
「ブリキ(Brrick、薄い鉄板に錫をメッキしたもの)屋」と呼ばれる専門職の誕生。
当時は輸入したレンガの包装材料や石油の容器などに使われており、これらの廃品を加工して、
煙突や流し台、半円形の軒とい、円筒のたてといなどをつくる職人が出現した。これが現在の「板金店」のルーツ。
金属性の雨といが出現する下地となった金属加工技術は、古く鎌倉時代から、なべ、かま、農具などの修理をしていた鋳掛(いかけ)屋、銅を加工して長もち、たんす、灯籠などの装飾金物をつくっていた銅(あかがね)細工師、江戸時代後期には錺(かざり)師と呼ばれた人たちの技術による。
明治になって海外から入ってきた新しい材料の金属板を加工するうえで役立った。 金属材料による雨といづくりが一般に普及していった明治時代、当時の板金職人たちは、お互いの技能を磨くために諸国をまわり、各地の職人たちを訪ねて修行の旅をして自分独自の流儀をつくり上げた。
また、この頃に銅板が徐々に普及し、高級感や緑青の発生などが、わび、さびといった風流好みの日本人の感覚に受け入れられて、一文字屋根や雨といの材料として使用された。
一部の高級な建物には、雨といに竹や梅のデザインを細工したものや、縁起をかついで蛇や龍などの飾り物を取り付けた「装飾雨とい」が出現。
こうした技術や軒先を引き立てる装飾性が、雨といの顔といわれる集水器(アンコー)に引き継がれ現在に至っている。
なお、一般住宅では、ブリキ板や後にトタン板と呼ばれる亜鉛引鉄板が登場し主流となった。

とあり、銅製の雨といの採用は、明治以降の風流の結果であることを再確認した。


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Posted by あきさん at 23:22Comments(0)歴史散策奈良神社資料館

2014年10月01日

大和の国を歩く ~ 本薬師寺

碧花の海に浮かぶ寺跡を訪ねてきた。


出発は、近鉄・畝傍御陵前駅の東口。
駅広にあるモニュメント・・・何?? (※1)






東に、本薬師寺跡(※2)に向かう。





ホテイアオイ


































西には、西塔跡と畝傍山


東には、東塔跡と天香久山



東塔跡の礎石。 帯状の凹が四角に廻る。








本薬師寺跡に建つ「白鳳山醫王院」と「本薬師寺金堂の礎石」。







その壁に張られた1枚の紙。
(※ 表記は原文のまま)

無題(「わが憩いの場所」欄)
拙宅から20分ほどゆけば、大和盆地への峠がある。
それをこえて3、40分もゆくと飛鳥の古墳と丘陵のむれのなかに入る。
近所だと思って、ときどきゆく。
飛鳥はおなじ大和でも奈良、西ノ京、斑鳩などとはちがい、荒れることからややまぬがれている。
修学旅行団も、観光バスもここまではあまり来ない。
きょう、田の中にある元薬師寺の礎石の群れをさがしあてた。
礎石のむこうは葦牙のにおいたつような万葉ふうの野、といいたいが、そこまで注文どおりにはいかない。
畝傍の裏のただの麦畑である。
(昭和41年6月「司馬遼太郎が考えたこと 3」)



























この後、近世の家並みが残る環濠集落の今井町に向かった。


(※1) 帰宅後、橿原市に照会したところ、以下の回答を得た。

 「モニュメントは、‟龍の玉″です。モニュメントの北側に喫茶店があります。その裏手に龍の噴水があり、駅前整備の際に龍の噴水と合わせて、当時、建設コンサルタントの意見を基に設置されました。」とのこと。

「なんで、‟龍の玉″なんだろう?」との疑問をMFさんに伝えたところ、以下の記事をご教示いただいた。

「畝傍御陵前駅の東側、社会福祉総合センターのあたりには、昔、池があった。「雨字池(あめじいけ)」、通称「大久保池」と呼ばれた。雨字池とは、雨水をイメージして名付けられたという。その昔、何人もの人が入水自殺をしたという伝聞もある。雨字池は、畝傍御陵前駅周辺の都市開発のため、1988(昭和63)年、橿原市によって買収され、1989(平成元)年埋め立てられた。
社会福祉総合センターの玄関前には、龍の噴水がある。駅の東側ということで、東方を守護する四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)の一人「青龍」を設置したということである。また、水の神といわれる龍を設置したことは、ここに池があったことを後世に伝えるためでもあり、入水者たちの霊を慰めるためでもあるといわれている。
また、地元の要望により、池の由来が記された石碑も残され、市営立体駐車場の北西の角に移転された。」
出典:植田寿之HP「対人援助のお勉強ブログ」2013年1月6日(日)、10日(木) 奈良県 介護支援専門員実務研修 から抜粋

(※2)本薬師寺跡(もとやくしじあと)

藤原京の薬師寺、後の持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、両寺を区別するために本薬師寺と呼ばれる。
発掘調査により、11世紀初頭まで存続していたことが認められた。


現在は、白鳳山醫王院の境内に、伽藍遺構のうち金堂の礎石の一部が残り、東塔や西塔の心礎などホテイアオイに囲まれた基壇が残存している。

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Posted by あきさん at 21:09Comments(2)歴史散策古代奈良作家

2014年09月15日

京都・伏見(三栖界隈)を訪ねて②


公園を出て昔の堤防を見ながら東に進むと京阪・中書島駅
支線である宇治線の起点駅。

駅広がなく、やっと確保された南口。 
でも狭すぎ~。




京阪本線を越えて竹田街道を北に進み、
京橋から蓬莱橋まで
宇治川派流の遊歩道を通り、
幕末動乱の舞台となった寺田屋へ。











柳並木の遊歩道に坂本竜馬・お龍






















蓬莱橋の袂では、托鉢する僧。





















寺田屋は、
坂本竜馬・お龍の出会いの場所だとか・・・。









庭に龍馬像や殉難九烈士の碑など。










油掛通りに入り油懸地蔵を祀る西岸寺を参詣した後、









竹田街道との交差点にある
「我が国における電車鉄道 事業発祥の地」の石碑(市電発祥の碑)を確認して東進し、黄桜。

わが国最初の電気鉄道(チンチン電車)は、
明治28年(1895)、
岡崎公園一帯で開かれた第4回内国勧業博覧会への客輸送のため、
明治27年に伏見(伏見下油掛)と京都駅(東洞院塩小路下ル)間、
約6kmを開通。
このとき使われた電気は、
琵琶湖疏水・蹴上発電所(日本初の水力発電)のもの。




カッパカントリー」の河童資料館でひと休み。
河童のプロフィール(別称、体の特徴、好き嫌い、泣き声など)、内外のカッパ、伝説等々についてのパネル展示や小物類の展示。







道路の向かいにある黄桜記念館では
酒造りの説明と当地「伏見」の語源となった「伏水(ふしみず)」。
1リットルまでなら取水可能とのこと
(ただし、取水時間を制限中)。




















このあと月桂冠大倉記念館鳥せいから










会津藩駐屯地(伏見御堂)跡を経由して京阪伏見桃山駅の近くへ・・・

駅の南西側は両替発祥のということなので、
それと分かるモノがないかと探して右往左往したが、無・・・















人通りの多いアーケード通りで「銀座発祥の地」碑を見たあと東に進み、京阪本線、近鉄京都線を過ぎたところの御香宮へ。

銀座発祥の地。
慶長6年(1601)に徳川家康が伏見に日本初の銀座(銀貨をつくる鋳造所)を開いたのがこの辺り。

















伏見の戦いの主戦地
通り(大手筋)の左手・北側の神社内に薩摩藩を中心にした官軍、
右手・南側の伏見奉行所に幕府伝習隊、会津・桑名両藩、新撰組などの幕軍が対陣。





御香宮(祭神:神功皇后)









貞観4年(863)、
境内から湧き出した水の良い香りが四方に漂い、
この水を飲むと忽ち病気が癒えた
という奇瑞により、清和天皇からその名を賜ったという。

伏見で誕生した紀伊、水戸、尾張の徳川三侯藩祖の産土神。

神社の表門は、伏見城大手門を移築。



境内の桃山天満宮に伏見城跡残石を集積。



















参拝路に並ぶ石も伏見城の残石か?




















境内に「伏見の戦跡」碑。









少々疲れてきたので、
本日の探訪はここまでにして、
JR桃山駅から帰路に着く。






[後日談]ブログUPの準備中に、この境内に亀甲飾りの瓦や家紋入りの金箔瓦など100点を見ることが出来る伏見城跡出土遺物展示室が有ることを知った。 次回、忘れずに訪ねたい。


※ 追記①:「伏見港
 
 港としての基盤を造ったのは、豊臣秀吉。
 昔より、宇治川は氾濫を繰り返し、洪水の被害にあってきた。
 桃山時代に豊臣秀吉が伏見に城下町を築き、宇治川と巨椋池を分離し、宇治川左岸沿いに宇治堤、巨椋池上に太閤堤・大和街道などの堤防を築くなど宇治川の治水事業を行うとともに、宇治川と濠川を結ぶ河川港「伏見港」を造営した。
 以来、江戸時代を通じて三十石船などが伏見と大坂の間を行き来した。
 明治維新後は、琵琶湖疏水が開通し、大津から大阪までの新たな水運のルートが開拓され、宇治川には三十石船などに代わって蒸気船(外輪船)が運航された。

※ 追記②:「河童資料館
 かっぱファン必見かな~。
 展示物は多くないけれど、結構、調べている・・・感心~。
 資料館のパネル解説の内容は、ネットでも見ることが出来る。
 黄桜ギャラリー・カッパミュージアム ↓
 http://www.kizakura.co.jp/ja/gallery/museum/index.html



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Posted by あきさん at 15:41Comments(1)歴史京都散策神社

2014年09月14日

京都・伏見(三栖界隈)を訪ねて①

三栖・・・この地名との出会いは、「都市交通審議会13号答申」において、
京都市の中央部を南北に貫く新線計画の南端であることを知ったことが最初だった。
以後、なんども外環状道路を通過していたのだが・・・

今春、琵琶湖疏水の起点、大津から蹴上まで歩いたこともあり、その行きつく先である宇治川への注ぎ口・・・。 今回、やっと訪ねることができた。



JR京都駅BSから市バス19系統に乗車し約40分、新油小路の三栖公園前BSで下車。
















公園に沿って大手筋通を東進すると、東高瀬川に架かる新大手橋の東詰に松本酒造のレンガ造りの建物と煙突。
瓦の葺き替え工事中。
残念ながら、建物と川の間に土手があり、水面に写る景色は撮れなかった。



さらに東に進んで濠川に架かる大手橋の西詰(右岸)に「坂本龍馬、避難の材木小屋跡」の石碑。

実際に材木小屋があった場所は碑から南東50m、橋を渡った東側(左岸)の南であったとのこと・・・。



さて、川の手前、西側の狭い道を南下すると屈曲したところに高瀬川の標識がある小さな橋に出た。



橋を渡ると直ぐに石段があったので下る。


高瀬川と濠川の合流点、角倉了以の記念碑



















この日、雨後のため水量が多いのか、端は川水に洗われている。
この川を観光十石舟が通って行ったが、船外機の推進では風情がない。




河川敷の遊歩道を南進むと、で対岸に三栖神社の鳥居が見えたので立ち寄る。

三栖神社(祭神は、天武天皇)。
壬申の乱のとき大海人皇子(のち天武天皇)の大津行幸に際して村人が大きな松明を灯して夜道を照らしたという故事に由来した「炬火祭」が10月に盛大に行われるそうだ。










左岸の河川敷遊歩道を進み京阪本線の下をくぐると伏見港公園に出た。







宇治橋を模したのか木橋のように仕立てられた
港大橋







川面に写って、なかなかのモノ。








対岸・右岸に渡ると伏見港の歴史を記したモニュメントなどがある。

静かな港内の所どころに釣り人の姿。
この辺りの静かな景色に心が和む。




橋上からも良く見えた閘門を目指し南に進む。


三栖閘門









江戸時代から明治時代において、京都~大阪(大坂)を結ぶ重要な輸送手段だった淀川舟運。

その流通拠点だったのが京都の玄関口・伏見港。

大正時代の淀川改修による築堤工事により伏見港と宇治川との間を船が通航できなくなったことから、水位の異なる宇治川と濠川の間に閘門を設けて通航できるようにしたもの。

最盛期には年間2万隻以上が通航したそうだが、陸上輸送の発達により次第に減少し、宇治川の洪水対策による河川改修や天ヶ瀬ダムの完成により、閘門の役割を終えたとのこと。






今、南北二つの門に挟まれた水路は、十石舟の船着場になっていた。
疎らな客で暇なのか、案内の親爺さんは、ベンチで横になり顔には週刊誌、お昼寝中?

閘門の横には、旧・操作室だった資料館。
三栖閘門の歴史を物語るパネルなどを展示。


ここで思わぬ収穫。
伏見城下、各大名の配置が分かる絵図が掲示されていて、その中に「徳川大納言源家康公御屋敷」の表示があり、徳川様御本丸・二ノ丸・三ノ丸などの表示・・・これは『向島城』?

敷地内、屋外に巻上機などを展示。





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