2014年10月04日

大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」

大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
本薬師寺のホテイアオイを観たあと、
近鉄で北に1駅戻って八木西口駅下車。






大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
JR線を支えるイギリス積の橋脚


















大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
JR万葉まほろば線を潜って飛鳥川を蘇武橋で渡る。
今井町の東は、飛鳥川と環濠で2重に守られていた・・・。
橋の西詰に榎の大木、樹高15m・幹周5m・枝張20m。













大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
その近くに
奈良縣里程元標(旧設置場所)の石標。








大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
町を取囲む環濠はなくなっているのだけれど、
ここは北東側の入口・北尊坊門跡






大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
飛鳥川に沿って2つの蘇武井(そぶのい)。
いかなる日照りが続いても涸れることはなく、
今井の里千軒の家々に使われていたそうな~。
川面に井戸と柳・・・時代劇さながらの景色・・・?





大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
南北2つの蘇武井の間の細い水路は、
かつてここに環濠があったことを示しており、
濠に降りる「洗い場」も復元されていた。


大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」













大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
中尊坊門跡、南尊坊門跡を過ぎると華甍(今井まちなみ交流センター)。
明治36年(1903)建築の旧高市郡教育博物館。





大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
エントランス。


















大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
手焙り。














大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
町屋の復元模型
(17C後半の音村家主屋(推定))

格子の間から室内を覗いてみた・・・。




大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
建物北側に、かつての環濠を復元。

この復元水路と
その先にわずかに残る細い水路に沿って西進。




大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
辻に祀られている井上地蔵尊ほか。







大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
今井町を
東西に分かつほぼ中心にある
辰巳口門跡を過ぎると
間もなく、唯一、
往時の姿に復元された南口門跡、土居。




大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
ここから町内に入り
北に進むと称念寺






大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
真宗。
山門は明治10年、
明治天皇行幸に際して多武峰から移築、
太鼓楼は弘化2年(1845)建設。
本堂をはじめ、庫裏や客殿は
17C初期の建物だということなのだが、
修理中のため見学できず・・・。

そのため、道路際に写真パネルにより修理の模様を展示・説明。
(※ 後日、修理完了後に説明会を開催したそうな・・・)


大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」

今井町・・・16C中頃に、本願寺の一家衆であった今井氏により武装宗教都市としての「寺内町」が形成され、称念寺はその中核として興隆した。
武士と僧侶を兼ねていた今井氏が代々世襲していたが、江戸時代から釈門に専念したとのこと。
往時は東西4町半(約610m)・南北2兆20間(約31m)、
6町・1,200戸からなる町場を幅3間以上の環濠と土塁で囲まれていたとのこと。
現在は760戸ほどであるが、うち約550戸が江戸時代の伝統的形式の町屋だそうだ。

大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
称念寺の向かいに夢ら咲長屋(案内・休憩所)。







大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
中庭に、煙突の付いた甕。
・・・かつて、醤油の原料が不足していた時代、昭和初期に、大豆粕のタンパク質を加水分解したものを水酸化ナトリウムで中和してアミノ酸と食塩水を作り出し、このアミノ酸液に風味を加えたり醸造醤油とブレンドして、代用アミノ酸醤油を作っていたそうな~。
この煙突は、加水分解の際に圧力を逃がすとともに塩酸が漏れるのを防ぐ還流塔とのこと。










大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
中橋家(米屋、のちに肥料、金物も商う)、細格子の出窓。
19C初期に上部の柱を継ぎ足して低い「つし2階(中2階)」建てに変更されたとのこと。

町内を歩くと、エリアごとに軒高が低い家と高い家が並んでいることに気がつく。

この街を歩くと平屋から2階建てへの町屋の変化を観ることが出来る。









大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
豊田家・・・豪壮な町屋。材木商『紙八』。







大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
玄関口に駒つなぎ、
1階の太い大和格子、2階に白い漆喰の塗り込め壁。





大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
遅くなった昼食は、
路地に入り、一筋北にある古伊で、
「柿の葉寿司&そば」を食する。





大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
田舎づくりなのか醤油辛い出汁は、
そばを活かせていない。

















大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」








大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
本町筋を西に進み、
今西家の西側・西口門跡で復元された環濠を見る。





大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
今西家・・・町の西端、城郭のような八ツ棟造。
もとは中世に当地を治めていた十市氏の一族で、
代々今井町の惣年寄の筆頭として、
町方支配の一翼を担っていたそうな・・・。















大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
2階の壁に
ご当家旧姓の河合氏定紋と
3段菱形の旗印。





大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」








大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
ここから南東隅の環濠は、
内、中、外と3重になっていたそうで、
外環濠は発掘調査中だった。
大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」


大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
環濠に挟まれた中堤を進み、
壁絵が印象的な春日神社へ・・・。

復元された船着場の南側から境内に入る。




大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」端正な佇まいの旧常福寺観音堂と
一面二体の『叶』地蔵尊。







この後、家並みの中をぶらぶら歩く。
大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
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大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
大和の国を歩く ~ 江戸時代の風情を今に伝える「今井町」
上田家・・・ここも江戸時代の惣年寄の一つ。片岡城主片岡氏の子孫。酒造業『壺屋』。「つし2階」の低い2階建て。
米谷家・・・農家風の民家のイメージ。金物・肥料商『米忠』。「つし2階」の低い2階建て。
音村家・・・金物商『細九』。「つし2階」の低い2階建て。
などなど~。

道標
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右往左往して町の東端に出たところで、きょうの散策はおしまい。

旧家が、線ではなく面としてたくさん残っていて、
街もキレイで歩きやすく
「凄~い!」とは思うのだけれど
そのことが逆に数時間も滞在していると、
変化を感じなくなって(面白みもなくなり)
少々、食傷気味になって、観察する眼もお疲れモードに・・・
無料の休憩所もあるのだけれど・・・なにか物足りなさを感じる。
そんな印象の町だった。

この日の歩数:14,709歩

ところで、町を歩いていて気になったこと・・・豊かさの表れなのか、この街には銅を使った雨といが目につく
帰宅後、ネットで検索したが、意外と雨といに関する記事が少なく、見つかったのがPanasonicのHP。他にも記事はあったが、多くはPanaの記事を転用したものか・・・。で、以下Pana記事の要約。

雨といのはじまり・・・多棟住宅の谷の部分「あわい」に取り付けた「受け樋」(「懸樋(かけひ)」とも)で、雨水を排水する役目よりも、むしろ飲料水や生活用水として貴重であった雨水を、屋根から水槽に導く「上水道」の役割を果たしていた。
屋根の雨水を排水するという役割の雨といで、わが国に現存する最古のものは、奈良時代(733年)に建立された東大寺三月堂の木製、厚さ約5cmの板3枚をU字型に組み立てたもの。
雨といは江戸時代まで、神社仏閣を中心に普及。当時の神社仏閣には、すでに飛鳥時代に中国、朝鮮から伝来した瓦が使われ、雨水を処理する雨といが必要だった。
しかし、一般の住宅は「草ぶき」や「かやぶき」がほとんどで、屋根自体が水分を吸収することや、軒先を作業場として利用する必要から庇(ひさし)を長く張り出して軒を深く取っていたため、雨といの必要がなかった。

雨といの普及・・・江戸時代に入ると商業が盛んになり、江戸、大阪、京都などを中心に人口が集中し、都市が形成されるに伴って住宅も密集して隣家と軒を接するようになり、隣家の雨水が流れ込む、雨だれが跳ね返って壁を汚す、土台を腐らせる、といったトラブルが起こる。
一方、密集した「かやぶき、板ぶき屋根」の町家は火災に弱く、ひとたび出火すれば次々と類焼して、町中が火の海ということがたびたび起こった。大火に悩んだ幕府は1720年、防火のために民家の屋根を「瓦ぶき」にするよう奨励。
また、商家では財産を火災や盗難から守る土蔵をはじめ、経済力にものをいわせて住宅を豪華にすることで武士階級に対抗したため、瓦屋根でしかも複雑な屋根構造の町家が出現。
瓦ぶき屋根の普及により、雨水の落下で柱の根元や土台が腐ったり、傷んだりするのを防ぐため、雨といが使われるようになる
当時は、雨といの材料として一般的に手に入るものとしては、木や竹など自然のもの。とりわけ竹は、奈良時代の「懸樋」の頃から利用されており、節を抜けばパイプ状になる、半分に割れば半円形になるなど、雨といの材料としてはたいへん好都合であったことから、最もよく使われた。
当時の施工方法は、軒先の垂木に板を削った雨とい受けを打ちつけ、その上に竹製の雨といを乗せていた。その他には、板をU字型に打ちつけた「箱とい」や2枚の板をV字型に打ちつけた簡素なものがあった。

雨といの発展・・・文明開化とともに海外との交流が盛んになり、洋風の建築技術も流入。
そのなかに、すでに高度な加工技術による装飾性にすぐれた雨といも当然含まれていた。
「ブリキ(Brrick、薄い鉄板に錫をメッキしたもの)屋」と呼ばれる専門職の誕生。
当時は輸入したレンガの包装材料や石油の容器などに使われており、これらの廃品を加工して、
煙突や流し台、半円形の軒とい、円筒のたてといなどをつくる職人が出現した。これが現在の「板金店」のルーツ。
金属性の雨といが出現する下地となった金属加工技術は、古く鎌倉時代から、なべ、かま、農具などの修理をしていた鋳掛(いかけ)屋、銅を加工して長もち、たんす、灯籠などの装飾金物をつくっていた銅(あかがね)細工師、江戸時代後期には錺(かざり)師と呼ばれた人たちの技術による。
明治になって海外から入ってきた新しい材料の金属板を加工するうえで役立った。 金属材料による雨といづくりが一般に普及していった明治時代、当時の板金職人たちは、お互いの技能を磨くために諸国をまわり、各地の職人たちを訪ねて修行の旅をして自分独自の流儀をつくり上げた。
また、この頃に銅板が徐々に普及し、高級感や緑青の発生などが、わび、さびといった風流好みの日本人の感覚に受け入れられて、一文字屋根や雨といの材料として使用された。
一部の高級な建物には、雨といに竹や梅のデザインを細工したものや、縁起をかついで蛇や龍などの飾り物を取り付けた「装飾雨とい」が出現。
こうした技術や軒先を引き立てる装飾性が、雨といの顔といわれる集水器(アンコー)に引き継がれ現在に至っている。
なお、一般住宅では、ブリキ板や後にトタン板と呼ばれる亜鉛引鉄板が登場し主流となった。

とあり、銅製の雨といの採用は、明治以降の風流の結果であることを再確認した。


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Posted by あきさん at 23:22│Comments(0)資料館散策奈良歴史神社
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