2014年05月05日

山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)

山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
早朝、「霧のまち・みよし」近くの中国道・七塚原SAで仮眠から目覚める。
濃霧、視界50m弱。
三次ICからR54(島根県に入ると「出雲神話街道」)、ゆったり流れる江の川。山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
石州瓦、赤茶色の屋根・・・・島根県に来た~という思いに浸る。 気のせいか、近年、この瓦屋根も減ってきたような・・・。
赤名トンネルを抜けるとすっかり霧も晴れる。

山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
道の駅・赤木高原から指呼の距離に見える赤穴瀬戸山城(飯南町。標高631m。尼子十旗の一つ)。
この道の駅に、町や城についての詳細な説明パネルがある。
神戸川沿いに建ち並ぶ石見銀山街道(大森⇔尾道)の宿場町。

1900年代初頭の百年レールを再利用したバス駅舎など街並み散策を楽しみながら登山口に向かう。
途中、山側に並んだ6ヶ寺。これは有事の際、兵の駐屯施設として、また、攻め上る敵を防ぐため、城に続く谷筋ごとに計画的に配置されたとのこと。
2本の石柱、赤名小学校の校門?の間をとおる農道、すぐ左に西蔵寺の案内板があり5台分のP空間。
小学校東北隅にある登山口を少し登り土塁上のような細い径を辿ると稲荷神社との分岐に出る。そこにも赤穴瀬戸山城の説明板、以下その要旨、

「赤穴瀬戸山城は、赤穴荘の地頭となった佐波常連(※鎌倉御家人三善氏の末裔)が永和3年(1377)に築城に着手・・・。出雲・石見・備後の国境に接し、戦国時代には月山冨田城の支城として度々、戦場となった。・・・江戸時代、堀尾吉晴からこの城を賜った松田左近は石垣を築くなど近世城郭化を図るとともに城下町を整備し赤名宿の基礎を築いた。・・・慶長20年(1615)の一国一城令により廃城となった。」

九十九折の坂の途中、今は廃路となっているかつての登城路らしき径と交差しながら、やがて五郭下を大きく回り込んで大手門跡の虎口に至る。山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)

虎口に入った後、右にある主郭とは反対側の東郭群に向かう。土橋になった馬の背状の尾根を進むと広い削平地に出た、堀尾期に拡張・整備されたものとのこと。副郭?。山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
典型的な1城2郭の縄張りとそれらから派生した尾根に梯子段状に郭群を構成。
さらに東に一段下がると赤穴期(毛利の占拠後?)の大きな郭がある。
山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
その先は、櫓台、土塁、堀切、竪堀などが狭い空間に密度濃く設けられており(赤穴・毛利の両軍が兵刃を交えるほどの至近距離で対峙していた跡なのか?)、毛利の陣城であった武名ヶ平城への尾根道となったところでブッシュも酷く径も荒れていたので引き返す。

山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
大手門の虎口まで戻り、僅かに残る石垣に沿いながら南西側の二郭へ進み、2段上がって内升型の虎口から主郭に入る。変則的な五角形、副郭よりも少し狭いか? 城の縄張りも良く分かる。木々は刈られているので、360度の素晴らしい展望。
山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
二郭まで下りてからその下、北西部をまわり南側に土塁が残る三郭へ。
その下の郭にも「くの字」形に2段の石組みのうえに土塁が築かれている。
この郭ある北西尾根は、下に小さな郭が続いているよう・・・、当初はこちらが登城口であったか?

山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
主郭下、大手門の虎口まで戻り、四郭から1段下がって五郭に入る。破城により崩された石垣で歩き難い。
主郭、二郭、三郭それぞれに少しずつ石垣が残っているが、この四郭と五郭を繋ぐ石段の両脇の石垣が最も残りが良い。

下山後、北麓にある堀尾氏時代の城主・松田左近の墓を参った後、離城、道の駅へ。


この後、三沢城に直行する予定だったが、少し寄り道して、三刀屋尾崎城(雲南市。標高130m。尼子十旗の一つ)へ。
満開の桜並木が2km以上続く三刀屋川沿いのR54。
山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
三刀屋大橋を渡り対岸の城跡山腹の馬舎跡(大手門跡)から伸びる尾根・大門郭にP。
登城路の幅員は広くはないものの信号を配置し上下の交互通行なので安心してクルマで上がれる。
この郭と本丸との間の谷が大手の登城道であったという。
山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
桜が満開。郭跡に植えられた下から、横から、上から、御衣黄・八重桜などを愛でながら本丸に登城。西北を除く展望良好。本丸の東北部に櫓台。その東に三の丸、四の丸と続くようだが繁茂する木々のため不明。その下に、本丸と同規模の館跡があり堀切を挟んでさらに東に天神丸があるとのことだが確認せず。
本丸の西側、一段下がったところに二の丸。西隅に稲荷神社。その先に大きな堀切で尾根筋を切っているとのことなのだが、ここも樹木で確認できず・・・。 稲荷神社の南側に登り石垣の上端を観ることが出来る。

この三刀屋尾崎城は、承久の変(1221年)で戦功のあった諏訪部氏(のち三刀屋氏)が当地の地頭に補せられ築城したとか・・・。 東西450m・南北260mの巨大な山城。 南北に派生する尾根筋は全て階段状に削平し郭としている。

三刀屋尾崎城の近くに三刀屋じゃ山城、古墳時代前期の松本古墳群、風土記に記載のある三屋神社などがあるのだが、今回は割愛。 機会を作って再訪したい。

R314から山間の細い県道51号を通って要害山三沢城(奥出雲町。標高418m。尼子十旗の一つ)へ向かう。
河内ダム湖岸からの道標「みざわの館」をたよりに山中に入る。 道は広くはないものの舗装されている。「みざわの館」前で行き止まりとなった道に区画された10台分ほどの駐車スペースがあり、そこが登城口。 この駐車位置から北側すぐ近くに出郭の十兵衛坦(じゅうべえなり)が見えている。

山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)
登山を開始して数分で大手門(三郭の枡形状虎口)に到着。 人身大の巨石など虎口周りは石垣の壁。 のちに改修されたものか? 織豊系城郭の景色が漂う。
この三郭は広い、主郭と同じくらいの広さがある平坦地。

主郭に登る前に北側の十兵衛坦に向かう。
副郭の東下、堀切を挟んで東に伸びる尾根に「コの字」形に土塁で囲み、更にその東に平坦地。ここにも東側に土塁を配し、その先に堀切といった2段構成の郭。 郭下の北側には横矢がかかる横堀。 これも後世に整備されたものか?
この先に水の手・三沢池。

大手門から九十九折の坂を登り切ると主郭と副郭(鳥居ヶ丸)を分かつ大きな堀切に出る。
まずは右(北)側の副郭に上がる。郭内の南に古井戸と一段高くなった諏訪社壇。古井戸は、深さ9mほどあったそうだが、明治のはじめに牧場として使われた折り、牛が落ちたため埋めてしまったとか・・・。諏訪社壇は、三沢氏の祖である飯島氏(伊那源氏)が承久の変(1221年)の軍功により信州から来住した際に故郷の諏訪神を祀ったものとか・・・

三刀屋尾崎城の三刀屋氏もそうであったが、承久の変の軍功により信州からどれほど地頭として来住したものか~?
副郭から北に伸びる尾根筋に大堀切を経て階段状に幾重もの郭が続いている模様。 郭は、全山で48坦あるとか・・・。

南側の主郭に上がる。副郭とほぼ同じ高さ。こちらも南東と南西に伸びる尾根に郭の確認ができる。とくに南西側の郭(岩棚郭)に土塁が確認できる。 主郭の西端にある亀岩、三沢氏がこの地を離れるとき(1589年)に秘かに岩の下に伝来の財宝を埋めたと伝えられているそうな・・・。
山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)

















この三沢城は独立峰で、東・南・北の三方を川(三沢川・阿井川・斐伊川)で囲まれ、西方は200m余りの崖という天然の要害を上手く利用している。 東北に連なる支城・布広城との複合式遺構は山陰地方では最大級とか・・・。
山陰の雄『尼子氏』の山城を訪ねて・・・出雲紀行(その2-①)



















この山城周辺にも三沢氏の出城がいくつかある模様。 現在でも耕作地は少なく、交通不便な山深い地に城を構えたのは、鉄の産出と関係しているのか・・・?
この辺りの城跡を探訪し、一つひとつ塗りつぶすのも面白そう~(^J^)

下山後、「砂の器」ロケ地の湯野神社や出雲の国・四大神の一つ能義神社を経由して米子の宿に向かう。


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Posted by あきさん at 18:37│Comments(0)出雲歴史
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