出発時は、今にも降りだしそうな空模様・・・
午後は、しっかりと降るという悪天候でしたが、
イベントに参加して大原の里の寺院などを廻ってきました。
京阪三条から京都バスに乗ったのですが、
超満員。
集合場所の
出町柳BSでは長蛇の列。
とてもイベント参加者全員が乗車できそうもない。
運転手は営業所に臨時便を要請して発車。
20人以上の積み残し。
私たちが乗るバスは次の便・・・
さて、いかがなることやら~。
ということで、次発、20数分後
遅れてきた「大原行き」バスはガラ空きで、全員が座れました。
大原の一つ手前、「戸寺」BSで下車。
ここからボランティアガイドさんの案内で、
まずは惟喬親王墓へ向かったのですが、
途中から防獣柵に阻まれて、
農作業をしていた親切な地元の方に案内いただき何とか辿り着くことができました。
ガイドさんの道不案内~(+_+)
惟喬親王墓。
文徳天皇の第1皇子だったのですが
母方が藤原氏の出身でない(紀氏の出身)ため
皇位に就くことができずに
世を避けてこの地に隠棲したそうです。
右隣下に親王の御霊を祀る
小野御霊神社があります。
惟喬親王って言えば、 滋賀県民にとって、ある意味親しみのある方で、
貞観14年(872年)病のため出家して素覚と号し、近江国滋賀郡小野に隠棲。
その後、山崎・水無瀬にも閑居し、在原業平・紀有常らと交流した
とも伝わっています。
また、東近江市の山際・永源寺町のさらに山奥、
君ケ畑の山中に幽棲した
とも言われています。
その折り、親王は法華経の巻物の紐を引くと、巻物の軸が回転するのを見て
轆轤を考案発明したと伝えられており、轆轤を使って、椀、盆などを作る人を
「木地師」といいますが、以来この地が「木地師発祥の地」と言われ、
江戸時代には 全国最大の木地師集団の支配組織がここにあったそうです。
現在も君ケ畑には、その製作技術が伝わり、それを求めて
他所から移り住む方もおられるようで、集落の道沿いに
真新しい数軒の作業小屋を見ることができます。
杉の大木に囲まれて惟喬親王を祭神とする大皇器地祖神社や皇室の紋章である菊花が刻まれた石製の扉を持つ親王の墓があります。
なお、君ケ畑に行く途中には、日本最古(≒1万3千年前)の土偶が出土した
相谷熊原遺跡の近くを通ります。
少し脱線しましたが、再び大原散策へ戻ります。
農道に出て、
紫蘇などを育てる棚田を見つつ北に進むと
直ぐに十一面観音、地蔵菩薩と阿弥陀如来を祀る
浄楽堂と大木・上野の
一本杉。
この日は地蔵盆ということで多くの村人が集まっていました。
さらに北に進むと
仰木峠道の分岐に出て、
ここから西に向かい
高野川を過ぎたところにある
里の駅・大原にて、紫蘇ジュースで一息~。
駐車場の隅に、
行儀よく並んだ お地蔵さん (^J^)
さらに西に進み
金毘羅山の麓に、乱積みの石垣を施した旧家が並んでいます。
その家並みの北の外れに、
石垣だ囲まれた小さな
祖世野池(そよのいけ)の湧水と
その池の水を使って備前の鍛冶真守が斉藤別当実盛(源義朝の家来)が刀を研いて鍛えたという
真守鉄盤石(さねもりかなとこいし)。
少し北に伝説の地・
乙が森。
大原川の上流にある女郎ヶ淵に身を投げた
「おつう」という女性が、
蛇身となって川を下り、
この森で自分を捨てた若狭の領主の行列を
待ち伏せして妨害したので、
松田源太夫という侍が退治して、
その尻尾を花尻の森に埋め、
頭の方を乙か森に埋めたとも・・・。
林の中に
大蛇が絡まったような大きな藤蔓があり、
中央に龍王大明神の碑が建てられていました。
高野川の支流・草生川に沿って西進すると
朧の清水の小さな湧水。
建礼門院が
京都からはるばる寂光院へ隠棲するための道すがら、 この清水のあたりで日が暮れて、
月明かりのもとに映ったご自身のやつれた姿に
嘆かれたとか・・・。
古来、多くの人に詠われた清水ですが、
ここは蕪村の句を
春雨の 中におぼろの 清水かな
ふたつの小川が合わさるところに
落合の小滝。
建礼門院陵。
寂光院。
聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立。
平清盛の娘・高倉天皇の中宮・安徳天皇の母・徳子が、平家滅亡後29歳で出家し
建礼門院として平家一門の菩提を弔った尼寺。
紫葉漬と大原女発祥の地。
里人が建礼門院に献上した夏野菜を阿波内侍に命じ、塩漬にしたのが紫葉漬の起こりとか・・・。
まずは、
門前に紫葉漬などを売る店が並んでいますので
試食したあと、境内の石段を上がり
再建された真新しい本堂へ。
境内に、
後白河法皇と建礼門院が再開したという
汀の池、 諸行無常の鐘楼、 千年姫小松
「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる 中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」(平家物語・灌頂巻「大原御幸」)。
※ 比叡山の宗教を民衆の中に布教するための手段として
『平家物語(全12巻)』が出来上がってから
百年ほど後、比叡山の手を完全に離れた後に付け加えられた「灌頂巻」。
そこには、徳子の事として、「女院御出家」、「大原入り」、「大原御幸」、「六道の沙汰」
および「女院死去」の各段に、出家したことから大原に移り、そこでの生活や、
後白河法皇が訪ねてきたときの様子、そして亡くなったとき記事が細かく書かれている。
秀吉の寄進により桃山城から移されたという
南蛮鉄製の
雪見燈籠。
木々の奥に茶室・
狐雲。
宝物館には、旧本尊の内部に納められていた約3000体の胎内仏(5~11㎝)などを展示。
西に、
建礼門院庵跡。
収蔵庫に、焼損した旧本尊の地蔵菩薩立像。
沢を隔てて南側に阿波内侍ほか次女の墳墓。
このあと三千院に向かって東進しますが、
途中、BS近くの「さわだ」で昼食。
ここからは雨中の散策となり、半分、もういいかな~っていう心持ちで 歩を進めることに・・・。
樹木で所どころ薄暗くなった
呂川沿いの道を
三千院へ進む。
延暦7年(788年)、
最澄が比叡山延暦寺を開いた時に、東塔南谷に
自刻の薬師如来像を本尊とする「円融房」を開創したのが
その起源。明治4年(871)、現在地に移転。
客殿から
聚碧園。
往生極楽院の前庭。
後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵。
承久の乱 に敗れた後鳥羽天皇(第82代)は
隠岐に、順徳天皇(第84代)は佐渡に、
それぞれ島流しにされて、その地で亡くなったが、
遺骨はこの地に運ばれて埋葬された。
墓域右に石造十三重塔。
当初予定していた来迎院には行かずに
声明の流れる勝林院から
律川に沿って
実光院の門前まで足を伸ばしたあと、
途中、魚山橋を渡ったところにある
来迎院町集会所で地蔵菩薩立像を見学し、
大原BSから、
ほぼ貸切状態の京都バスで帰路に着きました。
午後は雨中の散策となりましたが、
それでも
小野霞(雨上がり、大原を囲む山の中腹を白い大蛇のように伸びる層雲)
を見ることができるなど収穫も有りました。
この日の総歩数 17,326歩
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