陽射しはあるけれど風は吹かない・・・里歩きには、暑すぎる。
雲一つない青空。桜が満開。
そんな日に近鉄「てくてくまっぷ」のルート図を参考に、SNSのMFさん・お二人と右往左往の一日でした。・・・・・・・・《事後談》日焼けしたのか、暑くて寝苦しい夜でした。
それでは、近鉄宮津駅をスタートです。
佐牙神社(A)に詣でたあと、三山木小学校・遠藤川の桜並木を横に見て、区画整理事業で整然となったJR・近鉄三山木駅をスルーして寿宝寺(B)へ。
現生には期待するご利益もないことから十一面観音菩薩様にはご挨拶をすることもなく、門前の山本駅跡(C)の石碑に失望しつつ、田園風景の長閑な景色の中を「暑い、暑い」と言いながらひたすら歩き、木津川の堤防上にある飯岡の渡し場跡(D)でノドを潤す。
MFさんから、「あの岩、なあ~に?」と尋ねられても、ブロック状にきれいな割れ『め』をしていることから「溶岩が急に冷えてできた安山岩」(E)と思いつつも、周りには、それ以外の岩頭はなく、即答するだけの自信がありません。
渡し場跡碑を探し出したMFさんたちの後ろをついていきます。
隣の墓石? 洪水や旱魃から田畑を守るため資材を擲って河川改修した豊田武部兵衛翁の顕彰碑。
スダジイの巨木をもつ咋岡神社(F)、櫻井王令穿七井戸のひとつを観て飯岡古墳群の薬師山古墳(G)に出ました。
茶畑の丘陵には、古墳が散在しています。
ゴロゴロ山古墳(H)を降りて、もうひとつの七井があるところ、蓮花寺跡(I)付近で道を見失い、薬師山古墳の墳丘裾まで戻って、再スタート。
先刻の蓮花寺跡を通って車塚古墳(J)の石柱に辿り着く。ここの前の墓地には、穴山梅雪の墓(K)がある。
さすがに、道を間違うと疲れが出てきて、言葉も少なく、正午も過ぎたこともあり、只々、昼食のことを思いながら・・・歩く、歩く。
あの森が咋岡神社(L)・・・暑さと空腹と疲労で、譫言を言ったのではありません。Fと同名の神社です。草路城跡とか。土塁・隅櫓台を確認。堀?、何か変・・・。
ここで小休止のあと、斜め向かいの法泉寺(M)へ。十三重の石塔と端正な本堂が印象的でした。
「ここで終わり!」って、3人で確認しながら、足は食事に向かっていました。
坊賀川まで辿り着いたとき、『てくてくまっぷ』に書かれたゴール・新田辺駅ではなく、より近い興戸駅を選択。
で、駅に到着したものの、飲食できる店は?・・・ない? 勿論、コンビニは? あるわけない!
疲れ切った2人を置いて元気なMFが駅前の花屋さんへ・・・ラッキー、1軒だけ喫茶店があるとのこと。休みでないことを祈りながら急ぎ足。
『ヴィトリュ』 メニュ―は、いっぱいなんだけれど・・・??? 「鳥」料理のオンパレード。
「ハンバーグには、鶏肉入っていませんね~?」「分かりません!」
・・・「豚肉の照り焼き、お願いします(-_-;)」
メニューには20種類近く書いてあるのに、鶏以外は1種類だけ・・・それもささみを添えてある・・・鶏はダメだと言ったのに~。
食後、元気なMFさんは、急行の停まる隣駅「新田辺まで歩こう」って、「どうぞ」。
お二人とも元気、ついて行けません。
やっとのことで電車に、途中、急行に乗り換えることも無く・・・京都駅まで、ぐったりと寝入ってしまいました。(^J^)
(A)佐牙神社(中宮寺の恵日寺跡) 一間社春日造りの本殿は左右2殿(右殿:佐牙弥豆男、左殿:佐牙弥豆男、ともに酒の神)からなっています。境内から飛鳥時代後期から平安時代に及ぶ瓦が出土していることから「三山木廃寺」があったことが分かっています。
(B)寿宝寺 藤井寺、唐招提寺の千手観音像とともに三大傑作?といわれる十一面千手千眼観音立像があるそうですが・・・
(C)山本駅跡 寿宝寺の門前に石碑があります。「続日本紀 巻第五 元明天皇」和銅四年(711)の条に「春正月二日 初めて都亭(※都の近く)の駅を設けた。・・・綴喜郡には山本駅、・・・」とあります。古代、山陰道・山陽道・東山道へと続く要所として設けられたのでしようか。
(D)飯岡の渡し場跡 対岸の玉水に木津川を渡る地点です。豊田翁の碑と並んで渡し場跡の石柱があります。ベンチが設けられていました。
(E)千貫岩 渡し場の前に大きな岩が露出しています。まわりには、ブロック状に剥離した石が転がっています。
(F)咋岡(くいおか)神社 境内には、スタジイの巨木と柿本人麻呂の歌碑「春草を馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は宿り過ぐるなり」があります。
拝殿内には、米寿を祝って(?)奉納された額がたくさん懸けられています。額に枡を模った木枠と棒(杵・斗掻き棒?)がつ いているのが特徴ですが、これは山城地方に伝わるならわしだそうで、八十八と書いて「米」、食べるのに困りませんように…との願いが込められているのだそうです。今は一合升だけど、古くは一升枡を用いたとのこと。
G)薬師山古墳 裾に残っている周濠等から帆立形では・・・って思いましたが円墳だそうです。継体大王の孫・櫻井王の塚? 墳頂部には薬師堂。
(H)ゴロゴロ山古墳 円墳。広い墳頂には盗掘抗が2ヶ所。墳丘上に拳から人頭大の葺石が残存。継体大王の子・椀子(まりこ)王の塚?
(I)蓮花寺跡
(J)車塚古墳 墳長90mの前方後円墳だということですが、茶畑となっており、墳形の確認すらできませんでした。
(K)穴山梅雪の墓 墓地のほぼ中央に五輪塔墓が3基並んでいます。甲州武田氏が滅亡後、徳川家康に降り、家康とともに泉州堺におり、本能寺の変の知らせを受け、1日遅れで家康と同じ道筋で帰国しようとしたのですが、当地・草内で討たれたそうな。
(L)咋岡神社(草内城跡) 15世紀、応仁の乱の頃の城跡です。境内の四周は土塁で囲まれており、南東隅には櫓台状の高まりがありました。また、北側土塁の内側に水を湛えた堀がありますが・・・往時の遺構かは不明です。むしろ土塁の外側の細い水路が堀の遺構かも・・・。
(M)法泉寺 弘安元年(1278)建立の大きな十三十の石塔(国の重文)があります。弘安元年、二度にわたって襲ってきた元寇のちょうど間ですね。
草むらから本尊(十一面観音)が現れたことから、当地を「草内」と呼ぶようになったそうな。また、旱魃の際、この本尊に祈願したところ清泉が湧き出したので法泉寺と号するようになったとか。