京都・山城国を訪ねる

あきさん

2014年04月11日 12:12


先月3月20日の京都新聞に『木津川市教育委員会は19日、奈良の興福寺が築き、戦国時代に山城に改修された鹿背山城跡で、築城より古い13世紀前半の別の遺跡の存在を示す遺物が初めて見つかったと発表した。市教委は「城の前身である鹿山寺(かせやまでら)の一部の可能性が高い」としている。』という記事がありました。

城の範囲確認を目的に実施されたというこの調査で、城の中心施設の一つ第2主郭の南端を掘削したところ、15世紀後半から16世紀前半に約800トンの土を使って作ったとみられる最大1・5メートルの高さの大規模な盛り土が見つかり、その中から13世紀前半の瓦器椀(がきわん)や土師器(はじき)の皿、須恵器の鉢の破片がまとまって出土したそうです。

鹿背山には、14世紀前半に興福寺の末寺「鹿山寺」があったことが文献(「大乗院寺社雑事記」、西念寺所蔵文書)に記述があり、その後15世紀後半から16世紀前半に山城へ改修されたと考えられてきたそうですが、今回の発掘調査で市教育委員会「築城以前の遺物から文献より古い、鎌倉時代にさかのぼる何らかの施設があったことを示す大きな成果。寺に関する集落か施設ではないか」と推測しているそうです。

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戦国時代、松永久秀は奈良市の北部、多聞城を本城として、北の守りに鹿背山城、大和盆地の南部の抑えに龍王山城、西には信貴山城を構えたとか。

中世城郭としては、山城国最大という、この鹿背山城、以前から気になっており訪ねたいと思っていたのですが・・・探訪結果は?


JR奈良線木津駅からスタートです。
ホームに立つと東北の方向、木津高校のある丘の左後ろに小高い鹿背山が見えます。



まずは、木津川市役所(教育委員会)に立寄って、最新の情報をget。
古い町並みを通り、和泉式部の墓
お寺のようなのですが・・・小さな御堂の脇に墓石。






古の著名人ともなるとあちこちに墓があるようで・・・、
案内板によると、
和泉式部は木津で生まれ宮仕えの後、木津に戻って余生を過ごしたとのことです。






東に向かい、JR奈良線をアンダ―パスした左に安福寺。










ここにあるのが源氏に与する東大寺を焼討ちした平重衡(清盛の五男)の墓・十三重石塔(供養塔?)。






なんでも重衡は、
一ノ谷の戦いで源氏に敗れた際、虜因となり
南都宗徒に引き渡された後、
首を刎ねられ般若寺にさらされたとのこと。
(京都市伏見区日野にも墓があるそうです。)















すぐ東に御霊神社。 この北に上津遺跡(奈良時代の官衙)。往時、泉川(※)と呼ばれた木津川南岸に「泉津」と呼ばれる川港があって、木材をはじめ諸々の物資を調達する朝廷や南都諸大寺の「木屋所」があったそうです。

※ 万葉歌  泉川 渡瀬深み 吾夫子が旅ゆき衣漬づちなむかも     作者不詳・巻13-3315



関西線の踏切をわたり、さらに東へ・・・

井関川、木津用水宮裏分水場のところに
日露戦争(明治37年~38年)記念碑


















燈篭橋をわたり
石垣の並ぶ峠集落を過ぎ
関西線をくぐると
鹿背山麓の集落にやっと辿り着いた。






集落内を右往左往しながら
木津小学校鹿背山分校に到着。

掲示板のマップで位置を確認し
登山口の西念寺を目指す。
古びた石標・・・・。




西念寺の門前に山城の概要、案内図と俯瞰図の掲示あり。
「守る会」作成の城跡配置図をget。入山届に記載後、登山開始。 

イベントの下見に来たという下山する9人グループにで遭う。
登城中に遭ったのは、この団体だけ、静かな山行となった・・・??



両側を尾根に挟まれた馬蹄形の真ん中、谷筋の大手道を進む。

谷の中央部は階段状に湿地(溜池?)。 

尾根筋にも階段状に削平地(曲輪?)がある模様・・・。


























溜池の向こう、西側の斜面に竪堀





















谷の最奥部を左、右に進むと主郭とⅡ郭の間、虎口に出る。
左の主郭に向かうと南に開いた枡形虎口、その両側に僅かに残る土塁の高まり。


東西に長い長方形の主郭(135mH)、西側に櫓台らしき跡と土塁。
直下は横堀。








眼下に木津川の流れと
木津川の市街地、








遠くに大阪府と奈良県の境
生駒山のTV塔も確認できる。









東側にも櫓台跡と土塁
切岸・堀切を挟んで東にⅡ郭。








隣りの尾根は、こちらより高い? 
・・・もしかして、こちら側の動きは丸見え??

※ 帰宅後、調べてみると204mHの大野山
藤堂高虎が1629年の大坂城修理の際に本丸、二ノ丸の石材(花崗岩)を切り出した山。運ばれなかった石は「残念石」として北側山麓に残っている。


主郭から北側に、落ち葉が積もった滑りやすい斜面降りると水の手。今も澄んだ水が溜まっている。

竪土塁?の上を進み、切岸の下を抜けると主郭とⅡ郭の間。 円形のⅡ郭(133mH)の南側に喰違い虎口。 堀切を挟んで東側にⅢ郭(132mH)。こちらも南側に平入り虎口。

Ⅲ郭の下を一周。Ⅱ郭との間には
竪堀と竪土塁


薬研掘








箱掘








再び主郭下に戻った後、西側の竪堀などを探訪し下山。
主郭、Ⅱ郭、Ⅲ郭、ほぼ同じ高さの3つのピークに郭を置き、それぞれ南に張り出した尾根に曲輪を設けた連郭式の山城遺構。
畝状竪堀群なども残っているが、落葉やその後の堆積土?により浅くなっている。

90分ほどの探訪でしたが、終始、現城主の藪蚊の攻撃に遭い、散々な山行になりました。
このあとJR関西本線沿いを歩き、加茂駅から帰宅。 総歩数26281歩で了。

【参考】
http://kizu1978.info/kaseyama.html

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