少し甘く考えていた。
1日あれば思っている所のすべてを巡ることが出来る、時間を要しても半日ほど足せば・・・。
結果、延べ3日もかけることとなった奈良県の北西部、東西を生駒山地と矢田丘陵に挟まれ、中央に竜田川、南に開く「平群谷」の史跡探訪。
[初日]20,397歩
近鉄・平群駅⇒(中央公民館・教委)⇒ツボリ山古墳⇒(藤田家)⇒普門院⇒白山神社⇒楢本神社⇒紀氏神社⇒吉備内親王墓⇒長屋王墓⇒三里古墳⇒船山神社⇒平等寺春日神社⇒椿井井戸⇒宮山塚古墳⇒椿井春日神社⇒宮裏山神社⇒椿井城(南郭)跡⇒椿井石仏⇒烏土塚古墳⇒平群神社⇒西宮古墳⇒(教委)⇒平群駅
[2日目]24,561歩
平群駅⇒(白石畑集落)⇒三里城跡⇒船山神社⇒船上神社跡⇒下垣内城跡⇒西宮城跡⇒西宮古墳⇒近鉄・竜田川駅
[3日目]24,516歩
平群駅⇒船上神社跡⇒船石⇒(白石畑集落)⇒三里城跡⇒平群駅/竜田川駅⇒石床神社旧社地⇒石床神社・消渇神社⇒四ツ辻古墳⇒剣上塚古墳⇒竜田川駅/近鉄・元山上口駅⇔まぐわ淵
それでは、初日から・・・。
近鉄・生駒線、以前に乗車してから10数年・・・所どころ単線、4両編成、ワンマン運行、車内のロングシートに乗客は1~2名で空気を運んでいる状態、朝夕の通勤時はどうなんだろう?
電車は、谷間に田園と丘陵に広がる新興住宅地の中を進む。
平群駅で下車。
ご同輩の姿が、チラホラ・・・。
西に信貴山城を仰ぎながら、整備中の埃っぽい駅広を抜け、まずは、西に~。
由緒ありそうな勝出山
長楽寺。
門前には、『本尊 聖観音立像(勝出山観音) 用明天皇2年(586)聖徳太子が建立・・・聖徳太子が仏敵の物部守屋を討伐に於いて、ここで石上に坐り、軍法を鑑み、護法四天王に祈念して曰く、我をして敵軍に勝たし給えば必ずここに寺塔を建立して神仏を弘通せんと、毘沙門天王が現れて軍法の授けあり。 戦勝を得られ、ここで聖徳太子は毘沙門天本地仏聖観音立像を刻まれて安置さる。・・・(鑑石は今本堂の前にあり)』と縁起を書いた札が掲げれている。
寺の前に町役場、観光産業課で観光マップほかを入手。
竜田川にかかる橋を渡ったところの
中央公民館内にある教委で烏土塚古墳の鍵を借用し、展示されている上山1号墳の出土物などを見学。
公民館を出て、灰田川に並行して福貴住宅団地の南沿いを西に上がっていくと右側に
ツボリ山古墳の表示。
住宅地の中、1区画だけ残された墳丘は、辺20mほどの方墳?
[概要]7C初頭。
両袖式横穴石室で南に開口。
石室床は石敷。
前庭部に人頭大の閉塞石。
玄室のL=4.25m、W=2.2~2.55m、H=2.45m。
羨道のL=4.65m、W=1.7~1.82m、天井石なし。
玄室と羨道に各1基の二上山白石凝灰岩製の刳抜式家形石棺。
玄室内石棺の蓋石が奥壁側にずり落ちた状態で半分残存。
さらに西に上り、ハウス畑の中、田舎道に入る。
間もなく、
藤田家。
ここは、重文の大和棟民家。
当初、ここまで足を延ばす予定はなく予約を入れてなかったので見学は不可。
築地塀沿いに進むと
普門院跡。
荒廃していた法隆寺夢殿を再建した高僧・道詮律師の住坊で、重文の貞観仏・聖観音立像を祀っている。
南の谷に下って
白山神社。
道詮律師の隠居寺・福貴寺の神宮寺。
このあと東に坂道を下って、再び竜田川を渡り、住宅地の外れ、畑地の中に
楢本神社。
目立つのは狭い境内を取囲む石灯籠。祭神は菊理姫命。
水滴に宿る神で、産土神(生命の根源の神)にあたる。
元は東 500m付近の丘の上にあった雲甘寺という寺の鎮守社で、明治初年に寺が廃されことに伴い現在地に遷座されたとのこと。
栽培されている菊畑の中を東に向かう。
平群を散策していると、アチコチに菊畑を見る。
近鉄線を越えて外川に沿って東進すると大きな木が印象的な
紀氏神社。
平群に鎮座する紀氏の氏神の社で、平群氏の同族・紀氏の末裔である紀船守が、祖神の平群木菟宿禰を祀ったもの。
元々、現在地より2kmほど南の「椿井」にあったとか~。
南に向かって進み、楢本神社の御旅所下を過ぎた先、丘陵斜面の石段を登りつめると、家々に囲まれて
吉備内親王墓。
すぐ南東の御陵公園に
長屋王墓。
いずれも小円墳(Ф=20m、Ф=15m)、後者は前方後円墳・梨本南2号墳の後円部を再利用したものとか・・・。
周辺には10基ほどの古墳が建造されていたそうな・・・。
続日本紀の「巻第十 聖武天皇 天璽国押開豊桜彦天皇」天平元年二月十三日に、
遣使葬長屋王吉備内親王屍於生馬山。
と、「長屋王と吉備内親王の遺骸を生駒山に葬った」とあるのだが・・・ここも生駒山? いや、改葬したのかな??
案内表示に従って南東に進み、三里の集落、農家の庭に続く坂道を上がると北側に石室の下部が剥き出しになった6C後半の
三里古墳。
羨道の手前には豊かに実った梅の実・・・。
以下、発掘調査結果から、全長≒35m、後円部Ф≒22mの前方後円墳?
奥壁下部に石棚が残存・・・紀ノ川流域の古墳に類似例、紀氏の関係?
横穴式石室は南西に開口する両袖式、玄室長4.9m、幅2.4m、高さ約3.2m羨道長約7.0m、幅1.3~1.4m。
玄室西寄りに組合せ式家形石棺、羨道奥の東寄りに組合せ式箱式石棺、その他玄室東側・石棚上下・羨道前面に複数の木棺を追葬。
(※ データは直近の平群町教委資料に依ったもので、現地の奈良県教委による案内表示とは齟齬がある。)
南へ
船山神社に向かう路傍に野仏。
祭神は、船山神、天津兒屋根命と住吉大明神。
春日神社の境内地に、大正4年頃、中ノ宮の船山神社(旧社地は南東200mで、東光寺の東側)を合祀したとのこと。
拝殿に続く石段を上がり切った右手に船形の手水石。
さらに、その先に鳥居・・・拝殿は石壇によって一段高くなっているのだが、その石壇から突き出た陽石。
下には、それを支える2個の円形状の石。
陽石の左下にも陽石(石棒)。
境内下の説明板に「境内後方の矢田丘陵八合目付近には丸木船状の三つの巨石があり、神が乗って地上に下ってきた船石として信仰されてきた。
・・・、近世に船石付近に祀られていた船上(船神)神社を山麓の船山神社に合祀したともいう。」とあったので、船石を求めて本殿の裏山を急斜面・落葉に悪戦苦闘しながら30分ほど探索したものの見つからず退却。
山麓を南に進み、
平等寺春日神社(祭神は、天兒屋根命。「なもで踊り」の奉納絵馬あり。)
途中、「近畿自然歩道」案内柱の近くに矢穴のある数個の転石・・・昔、石切場だった?
椿井春日神社は、甲大明神とも・・・境内の宮山塚古墳から出土した兜を御神体としていた?
先ほど訪ねた紀氏神社、元は椿井邑にあったとのこと・・・この春日神社かも~
境内の北西部、
椿井城の土塁遺構(基底部幅7m・高さ2.5m・上部幅2m)の南端・楼台の下部に
宮山塚古墳の石室が開口。
東西≒26m・南北≒24m・高さ≒.7mの円墳。
奈良県では最古級の横穴石室を持つ玄室は、L=4.1m・W=2.9m・H≒3.3mの右片袖式。壁はいずれも、紀ノ川流域・岩瀬千塚古墳などに見られるような平板の割石を小口積み、下部1mを垂直、上部をドーム状に持ち送った「穹窿型石室」。奥壁中央の上下2ヶ所に龕状施設(壁を窪ませた燭台?)。羨道は、L≒0.8m・W=1m・H=1m。近畿地方の導入段階となる5C中期~末期の築造。
椿井城跡の南ルート登山口の下に
椿井井戸があり、説明板に「聖徳太子と平群神手将軍の逸話」として、以下のような記載、
物部守屋を征伐する際に苦戦し、神手将軍が領地のこの地に椿の杖を突き立て、戦勝を祈願された。(平群氏の祖先を祀る春日神社を参拝した時ともいわれる)
すると一夜にして杖が芽を吹いて葉が繁り、傍から冷泉が湧き出し、汲めども尽きなかった。
これは、戦いへの瑞祥であると大いに喜ばれ、太子と共に飲まれた。
兵士達にも振舞ったところ士気が大いに上がり、守屋戦に大勝することが出来たという。
以来、「椿井」と称して大切にされ、地名の興りとなったとのこと。
登り始めると、すぐに
宮裏山古墳。
径≒15m・H≒4.5mの円墳。6C後半~7C初頭の築造。
羨道部が、僅かに開口。
天井石の一部が露出しており、その隙間から玄室の一部を窺うことが出来る。
石室には入れないのだが、玄室のL=3.9m・W=2.0m・H≒3.2m、羨道L≒4.4m・W=1.1m。
奥壁は縦長の台形で垂直、側壁及び前璧は内傾し、天井は奥ほど高くなっている・・・とか。
山腹を10分ほど登り詰めると尾根の三叉路に出た。
尾根を北側に進み、小堀切を過ぎると土橋のかかる堀切と東西両側に竪堀。
これを上がると
椿井城南郭の出郭(南副郭、標高217m)。
平坦な郭の最南端に僅かに残る土塁遺構。
真西に信貴山城跡を望める。
さらに進むと大堀切。
南郭の主郭側の斜面に石垣遺構? 上がって、南郭の主郭部、標高220m。ここも最南端部に土塁遺構。
北に進み尾根の鞍部。
ここから先は遺構保全のため立入禁止なので北郭には入れず、北ルート(大手道)を春日神社に向かって下山。
途中、マムシに遭遇・・・久し振り~。
椿井城・・・中世・戦国時代に平群谷を支配していた嶋氏(島氏とも。
「三成に過ぎたるものが~」と謳われ、石田三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕えたあの嶋左近清興の出自?)あるいは、それ以前に椿井氏によって築かれたなど諸説あるそうな~。
南北2つのピークに主郭と副郭を設け、それぞれに陵線上に曲輪を配置する連郭状の山城。
現在、立入禁止となっている主郭(北郭)の早期整備、見学の制限解除が待たれる。
下山後、西に向かう。
石棺仏のような
笠石仏如来像、竜田川、近鉄・竜田川駅を経て、
烏土塚山古墳。
西の釣り池側から墳丘に上がり前方部から後円部の南に開口する横穴式石室に至る。古墳時代後期の6C後半の古墳。石室石材は、ご当地・越木塚の井文字川産(片麻状黒雲母花崗岩)
丘陵上に北面する前方後円墳。L=60.5m、後円部Ф=35m・H≒8m、前方部W=31m。 両袖式石室の玄室L=6m・W=2.8m・H=4.3m、羨道L=8.2m・W=1.6~1.9m・H=2m(天井石なし)。前璧・奥壁は垂直、側壁は内側に傾斜。
玄室に二上山産の白色凝灰岩製・組合式家形石棺の底石と3面の側石が残存。石棺の東外側面に斜格子文の線刻があるそうなのだが・・・確認できず。
羨道にも石棺底石が残存。
平群谷の展望良好。北側に西宮古墳、西宮城跡、平群神社の杜。
なお、石室は施錠されているが、教委で鍵を貸出し。
羨道部石に石切時の加工痕があるが、・・・新しい??
フェンス沿いの細道、畑の中を通り
平群神社。
由緒掲示板によると、祭神は大山祇神、平郡氏の祖・武内宿禰が神宮皇后と共に朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願しこの地に祀ったとある。
割拝殿になっているが、本殿は格子のあいだから僅かに見ることが出来る。
西に上り中央公園入口に
西宮古墳。
辺=36m・H≒7.5m・三段築成の方墳。南面を除く3面に周溝。
南に開口した整美な石室は床面が2段目のテラス面、天井石の上面が1段目のテラス面に合わされている様子。
玄室は、奥壁・側壁・天井のすべてが越木岩産の1枚石で構築されており、それら石材の間隙を埋める漆喰を確認できる。
玄室L=3.6m・W=1.8m・H=2.1m、羨道L=(床面)10.1m・(天井部)5.7m・W=1.7~1.8m・H≒1.8m。
石室内、玄室と羨道の両方に跨る位置に棺蓋のない棺身だけの竜山石製・刳抜式家形石棺。
7C中頃~後半の築造。
西宮城跡・下垣内城跡の表示に気をひかれつつ中央公園を抜け、剣上塚古墳まで0.3kmの表示を横目に中央公民館に到着したのは17時過ぎ。 教委に鍵を返却し、平群駅に至る。
※ 平群氏・・・浮き沈みの激しい氏族だったようで、書紀「巻第十 譽田天皇 應神天皇」に、
是歳、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。
~ つまり、「この年(応神3年に)百済の辰斯王が王位に就いたけれど貴国(倭)の天皇に礼を失することをしたので、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を遣わして、その礼に背くことを責めさせた。・・・」と。
八月、遣平群木菟宿禰・的戸田宿禰於加羅、仍授精兵詔之曰「襲津彥久之不還、必由新羅之拒而滯之。汝等急往之擊新羅、披其道路。」於是木菟宿禰等、進精兵、莅于新羅之境。新羅王、愕之服其罪。乃率弓月之人夫、與襲津彥共來焉。
~ 「(応神16年)8月、遣平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に遣わした。・・・木菟宿禰らは精兵を進めて、新羅の国境に臨んだ。新羅王はこれを恐れてその罪に服した。・・・」とあり、軍事に従事する氏族として活躍していたことが覗える。
次の「巻第十一 大鷦鷯天皇 仁德天皇」に
元年春正月丁丑朔己卯、大鷦鷯尊卽天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波、是謂高津宮、卽宮垣室屋弗堊色也、桷梁柱楹弗藻飾也、茅茨之蓋弗割齊也、此不以私曲之故留耕績之時者也。初天皇生日、木菟入于産殿、明旦、譽田天皇喚大臣武內宿禰語之曰「是何瑞也。」大臣對言「吉祥也。復、當昨日臣妻産時、鷦鷯入于産屋、是亦異焉。」爰天皇曰「今朕之子與大臣之子、同日共産、並有瑞。是天之表焉、以爲、取其鳥名各相易名子、爲後葉之契也。」則取鷦鷯名以名太子曰大鷦鷯皇子、取木菟名號大臣之子曰木菟宿禰、是平群臣之始祖也。
~「・・・。仁徳天皇が生まれた日、木菟(ミミヅク)が産屋に入ってきた。翌朝、応神天皇が武内宿禰を呼んで「これは何のしるしだろうか」と言われた。武内宿禰は答えて「めでたいしるしです。きのう私の妻が出産するとき、ミソサザイが産屋に入ってきました。これもまた不思議なことです。」と言った。そこで天皇は「今、わが子と大臣の子が同じ日に生まれた。どちらにもめでたいしるしがあった。これは天の思召しだから、その鳥の名をとって交換し子に名づけ、後のしるしとしよう。」とおっしゃった。それでサザキの名をとって太子の名とし大鷦鷯皇子、ミミヅクの名をとって大臣の子に名づけ木菟宿禰といった。これが平群の臣の始祖である。」
子どもの名前を取り換えるとの申し出が天皇からあるほど、平群氏の力があったことを窺い知ることができる逸話である。
この平群の地は、仁徳天皇の時代となる5世紀前半にまで遡る古墳がなかった地域である。
さらに「巻第十二 去來穗別天皇 履中天皇」に、
爰仲皇子畏有事、將殺太子、密興兵圍太子宮。時、平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主、三人啓於太子、太子不信。
~ 帝位につく前、太子が同母弟の住吉仲皇子が兵を興したとき、平群木菟宿禰が近侍していたことなどが記載されている。
二年・・・冬十月、都於磐余。當是時、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・圓圓、此云豆夫羅大使主、共執國事。
~ 履中2年に平群木菟宿禰は、国の政治に携わるようになった。
このあと暫く平群氏の記事は無くて「第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇」に、
十一月壬子朔甲子、天皇、命有司設壇於泊瀬朝倉、卽天皇位、遂定宮焉。以平群臣眞鳥爲大臣、以大伴連室屋・物部連目爲大連。
~ 「・・・平群臣眞鳥を大臣(おおおみ)とし・・・」と木菟宿禰の子・眞鳥が単独でトップに就いたことが記載されている。眞鳥は、この後、清寧・顕宗・仁賢天皇と4代に亘って大臣として国政に携わったが、
「巻第十六 小泊瀬稚鷦鷯天皇 武烈天皇」に
十一年八月、億計天皇崩。大臣平群眞鳥臣、專擅國政、欲王日本、陽爲太子營宮、了卽自居、觸事驕慢、都無臣節。・・・。太子、・・・此夜、速向大伴金村連宅、會兵計策。大伴連、將數千兵、傲之於路、戮鮪臣於乃樂山。・・・。
冬十一月戊寅朔戊子、大伴金村連、謂太子曰「眞鳥賊、可擊。請討之。」太子曰「天下將亂、非希世之雄不能濟也。能安之者、其在連乎。」卽與定謀。於是、大伴大連、率兵自將、圍大臣宅、縱火燔之。所撝雲靡、眞鳥大臣、恨事不濟、知身難兔。計窮望絶、廣指鹽詛。遂被殺戮、及其子弟。詛時、唯忘角鹿海鹽、不以爲詛。由是、角鹿之鹽、爲天皇所食、餘海之鹽、爲天皇所忌。
~ 「(仁賢天皇11年に)天皇が崩御された。大臣の平群眞鳥臣が、専ら国政を欲しいままにして、日本の王になろうと欲した。表向きは太子(後の武烈天皇)のため宮を造ることにして、出来上がると自分が住んだ。事ごとに驕り高ぶって、臣下としての節度をわきまえなかった。・・・。この夜、太子は早速、大伴金村連の家に向かい、兵を集め計画した。大伴連は、数千の兵を率い、逃げ道をふさぎ、鮪(眞鳥の子、木菟宿禰の孫)を平城山で殺した。・・・。大伴大連は兵を率いて自ら将となり、大臣の家を囲み、火をかけて焼き払った。人々は指揮に雲のように靡き従った。眞鳥大臣は、自分の思うようにならなかったこと、免れがたいことを知った。計画は挫折し望みは絶たれ、広い海の潮を指さして呪いをかけ、遂に殺された。その科は子弟に及んだ。・・・。」と、平群氏一族は、(後の)武烈天皇の命により殺されたとのこと。 影媛の一件を契機に平群氏の一族が処分されたのである。
この後、平群氏は歴史の表舞台から姿を消すこととなるが、
「第廿一 泊瀬部天皇 崇峻天皇」に、
秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。・・・。大伴連嚙・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣闕名字倶率軍兵、從志紀郡到澁河家。大連、親率子弟與奴軍、築稻城而戰。於是、大連昇衣揩朴枝間、臨射如雨、其軍强盛、塡家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、三却還。
の記載がある。
軍臣・平群氏が復活したのか・・・?
その後の足跡を探してみると、
「巻第廿九 天渟中原瀛眞人天皇 下 天武天皇」の十三年に、
十一月戊申朔、・・・平群臣・・・、凡五十二氏賜姓曰朝臣。
とあり、さらに続日本紀の「巻第九 元正天皇 日本根子高瑞浄足姫天皇」養老七年正月十日に、
正六位・・・平群朝臣豊麻呂・・・並從五位下
「巻第十 聖武天皇 天璽国押開豊桜彦天皇」神亀四年正月二十七日に、
・・・從五位下平羣朝臣豊麻呂從五位上・・・
「巻第十一 聖武天皇 天璽国押開豊桜彦天皇」天平三年正月二十六日に、
從五位上・・・平群朝臣豊麻呂 並從五位上・・・
同じく四月二十七日に、
正五位下平羣朝臣豊麻呂爲讃岐守。
「巻第十八 孝謙天皇」天平勝宝二年正月十六日に、
授正三位藤原朝臣仲麻呂從二位。正四位上多治比眞人廣足從三位。從四位上多治比眞人占部正四位下。從四位下平群朝臣廣成。藤原朝臣永手並從四位上。・・・
「巻第十九 孝謙天皇」天平勝宝五年正月二十八日に、
從四位上平群朝臣廣成卒。
とあるので、廣成までは上級官人として存続していたことが確認できる。
※ 紀氏・・・紀ノ川流域を中心に水運に長けた古代の豪族。
平群から竜田川を南下すれば斑鳩で、富雄川、葛城川とも合流する。 大和川にも近く、紀氏はここを大和平野での拠点とし、大和と瀬戸内をつなぐ紀の川と大和川の両方を押さえようとしたのか・・・?
あとに訪ねる三里古墳は紀ノ川流域に分布する石棚を有する古墳と同形式。この神社と三里古墳の存在は、紀氏の一派が平群を拠点としていた証。
紀ノ川流域で勢力を持っていた豪族・紀氏が、紀直と紀臣とに分裂して、紀臣が平群谷に移住してきたのだろうか?
[「船石」探索は続く・・・]
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