大和国・平群の谷を歩く~古代の祭祀遺構を訪ねて(その3)

あきさん

2014年06月28日 04:22


3度目、再々度の訪問は、前回のリベンジと石床神社の旧・社地探訪。


東光寺からは、前回と違って尾根に上がらず、谷筋を進む・・・
が、最後は、獣道を頼りに、苦労して急斜面を尾根に上がる。 
尾根に上がった所は、石の集在している下側。 
尾根を切って北の谷に向かって薄らと獣道が続いているようなので、これに従う。 
幅10㎝にも満たないような細道を頼りに、谷を巻き、北の尾根下まで到達。 

先人のブログの記事から、この尾根筋にあることを確信して登る。
集在している大石を過ぎて登ると、先日、辿り着いた尾根先の石の集在していた場所に出た。
船石は?


・・・石組みの下を通って船上神社跡に着く。 
船石は、どこ・・・??


探索を諦めて、三里城跡に向かうことにした。 
下山して登るのも嫌だったので、
山頂に上がり、尾根筋を行けば、先日の峠道に辿り着くはずと考え、
壁石下のガレ場を過ぎたところから山頂を目指す。 

ん~。
あそこにも石が・・・、 


大きい~、鯨? 
ちょっとオーバーか・・・。 



尾根に上がると・・・鯱のような船石。 
尾根の下側ではなく、上側にあった。 
あのブログ記事は~???













尾根の凸部に並んだ3本の花崗岩。 


40度を超える急斜面、


今にも山を滑り下りようとするかのように頭を下に向けている。 
L=6~9m・W=1~1.5、H=1~1.2m・・・かな?



船石の上部に、祭祀跡らしき石組み遺構。
さらに上ると、磐座のような石の集在。
北側は絶壁、そこに張り出した重箱積み様の岩などなど・・・。















予想どおり頂上部に尾根筋の道。
北に進む。


直ぐに、尾根が堀切のように切られ、
その北側のピークは細長い平坦地(郭か狼煙台の跡?)。
そして、また堀切・・・。 
まもなく、足の踏み場がないほどの倒竹。


尾根筋の北進を諦め、右下を見ると輝く水面。 
ブッシュを掻き分けて下りると水田が見え、やがて農家の裏に出た。
舗装道に出て、北に向かうと直ぐに白石畑集会所。


平群に向かう峠道の分岐まで来たところで、草刈りをしていたオヤジさんと談笑。
松尾寺まで30分ほどかかるとのこと。
諦めて峠道へ。
峠、やはり笹竹の密生しているところは先刻の尾根道に続いている模様。






三里城跡
前回、峠道近くの削平地だけの確認で終わっていたので、
ブッシュを掻き分け、
横堀を左に見ながら北端沿いを進む。
2段ほど上がった所で前に進めず退却。
主郭まで到達できなかった。
雛壇状の削平地とその下部の堀跡らしきものの確認はできたが、
ブッシュが酷く縄張全体の確認は不可。


下山後、竜田川駅から石床神社の旧・社地を目指す。
人権交流センターから杜の南を巻くようにして進むと溜池・今池の南端に出る。
そこの道案内に従い越木塚集落の家々の間の細道を上り、
南に下ると集落の外れに石床神社の旧・社地



鳥居の後ろにH≒6m、W≒10m(9m×18mとも)の岩壁。
中央割れ目の上部から垂れるような細長い岩とそれを下で受ける丸岩からなる磐座(陰石)。

今朝、見てきた矢田丘陵の船石(陽石?)に相応する大きさか・・・。

陰石を御神体として本殿のない古い信仰形態。






集落に戻り、案内表示に従って進み、
越木塚集会所の奥に石床神社


大正時代に旧・社地から遷座、本殿前の右側に神篭石・・・石棒?が寄り掛かっている。


石床神社の頭上、南側に一段上がったところが消渇神社


拝殿に並べられた土団子と米団子・・・



神社の石段下、鳥居横の小さな建物の壁に
「祈願のときは土の団子を十二個供えて、満願のときは米の団子を十二個供えて下さい」との説明書が掛けられ、
土団子を作り供えるための材料・道具一式が置かれている。

参道の説明板には、
「室町時代に、旅の僧信海が腰の病を治してもらってから下半身の病気に御利益があるとして村人に信仰されるようになる。
江戸時代には社名から女性の病気や性病に効果があるとして京都祇園からの参拝者もあり、参道に茶店が出るほど賑わったという。・・・。」
と書かれていた。




消渇神社を更に1段上がると崩れつつある築地塀に囲まれて七社神社の小さな祠。


境内を出て北に坂を下ったところに消渇神社の御神水


「生水では飲まないで下さい」との注意書があるのだが・・・
良く観ると油が浮いて黄変している様子、とても飲む気にはなれない。


越木塚関取道標を過ぎて、十三街道?を四ツ辻古墳群に向かう。
案内表示がなく、ここでは~と思ったところからブッシュの中に駆け上がる。
右奥(西側)に径20mを超えそうなマウンド、南にまわってみたが石室は開口していない。


直ぐ南にも小さなマウンドが・・・
その墳丘の南側に、何とか拳が入るくらいの大きさで開口しているが・・・
石室内は見えず(四ツ辻2号墳? 径=9m)。


諦めて帰りかけると、北東側にマウンド。



石室が開口している・・・が、H≒40cm。


羨道部は低いものの玄室は高さがありそうなので、腹這いになって匍匐前進で突入~。









右片袖式石室なのか??
・・・右側壁が大きく孕んで今にも崩れてきそう~なので、写真だけ撮って早々に退室(四ツ辻1号墳? Φ=13m・H=3mの円墳。玄室L=3m・W=2m・W≒2.1m、羨道L≒2.2m・W=1.2m)。


東側にも小さなマウンドが幾つかありそうだが、汗に土で泥んこになってしまったため、探訪継続の意欲を喪失。

道路に戻る。
赤色のカラーコーンが1ヶ。
そこは最後に見た古墳の墳丘裾。


山土の中に所々1~2cm厚の白色粘土の塊と花崗岩の細片が混じった古墳断面を見ることが出来る。


この後、剣上塚古墳を経由して近鉄・竜田川駅

元山上口駅で途中下車して、北に5分弱歩く。
車窓から見えた「椣原(しではら)の勧請綱」、L≒27m・Φ≒25cmの綱が竜田川に張られている。
雄綱に雌綱が巻き付いている。
雄綱の中央から松の枝を取付けた2本の龍足(L=9.3m)がたれさがり、男根、フグリも付けられている。
勧請綱・・・悪霊や厄病の侵入を阻止するために村の出入口の道路上に張られることが多いのだが、ここは水の神・龍神信仰と豊作・子孫繁栄が結びついたのか・・・。


3回に及んだ平群谷の探訪はここまで・・・総歩数=69,474歩

※ 平群谷の古墳・・・5C後半の宮山塚古墳⇒6C後半の烏土塚古墳⇒7C初頭のツボリ山古墳⇒7C中頃の西宮古墳など、古墳時代中期後半から終末期の横穴式石室の変遷が見て取れる。
この中には、円墳・方墳・前方後円墳、片袖式・両袖式、小さな平板をドーム状に積み上げたもの、巨石を用いたもの、切石によるもの、竜山石・二上山石・越木岩石など変化に富んでおり、古墳好きにはたまらない谷であった。

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